2018年9月22日土曜日

水野南北覚え書・神坂次郎の小説『だまってすわれば - 観相師・水野南北一代 -』について

以下は、先週の稿

水野南北覚え書・南北堂剳記について

に続いて、この稿では神坂次郎の小説
『だまってすわれば - 観相師・水野南北一代 -』
について。

この『だまってすわれば』は、ほとんどがフィクションでできてはいるのだが、水野南北の思想に接近するのには、立派に役立つ小説であるといえるだろう。じつはwikipediaの「水野南北」の項に(この小説の)的確な要約というべきものがあるので、まずそれを引用して示したい。(2018年9月21日現在)

水野南北は、大坂阿波座(大阪市西区)に生まれたが、幼くして両親を亡くし鍛冶屋をしていた叔父「弥助」夫婦に育てられる。子供の頃(10歳)より盗み酒を覚え、酒代に窮して叔父の稼ぎ集めた虎の子を持ち逃げし、天満(大阪市北区)で酒と博打と喧嘩に明け暮れ家業の鍛冶職鍵錠前造りから「鍵屋熊太」と呼ばれる無頼の徒となった。

刃傷沙汰を繰り返し、 18歳頃、酒代欲しさに悪事をはたらき、天満の牢屋に入れられる。牢内で人相と人の運命に相関関係があることに気づき観相に関心を持つようになる。

出牢後、人相見から顔に死相が出ていると言われ、運命転換のため、慈雲山瑞竜寺(鉄眼寺)に出家を願い出たところ、「半年間、麦と大豆だけの食事が続けられたら弟子にする」といわれ、堂島川で川仲仕をしながら言われた通り麦と大豆だけの食事を続けたところ、顔から死相が消えたばかりでなく、運勢が改善してしまった。

こうした体験から観相学に興味を持ち、髪結い床の見習い3年、湯屋の三助業3年、火葬場の隠亡焼き3年と徹底した観相の研究を実施して観相学の蘊奥を究め南北相法を完成し、節食が運勢を改善することを唱えた。
この中の

・観相学の蘊奥を究め南北相法を完成し、節食が運勢を改善することを唱えた。
は、南北の著書からも確認できる史実で、よく知られていることであるが、

・観相学に興味を持ち、髪結い床の見習い3年、湯屋の三助業3年、火葬場の隠亡焼き3年と徹底した観相の研究
は、『江戸時代の小食主義』の中で、あらためてたしかめておいたとおり、昭和初期までにだれかが作ったフィクション。さらに

・天満で酒と博打と喧嘩に明け暮れ、刃傷沙汰を繰り返し、18歳頃、酒代欲しさに悪事をはたらき、天満の牢屋に入れられる。牢内で人相と人の運命に相関関係があることに気づき観相に関心を持つようになる。出牢後、人相見から顔に死相が出ていると言われ、寺に出家を願い出たところ、「半年間、麦と大豆だけの食事が続けられたら弟子にする」といわれ、堂島川で川仲仕をしながら言われた通り麦と大豆だけの食事を続けたところ、顔から死相が消えたばかりでなく、運勢が改善してしまった。
は、1960年ごろまでに成立したフィクションであり、

・幼くして両親を亡くし鍛冶屋をしていた叔父「弥助」夫婦に育てられる。子供の頃(10歳)より盗み酒を覚え、酒代に窮して叔父の稼ぎ集めた虎の子を持ち逃げ
は、神坂が『だまってすわれば』の中で、小説として創作した部分。さらに

・運命転換のため、慈雲山瑞竜寺(鉄眼寺)に出家を願い出
と、その寺を難波に現存の「鉄眼寺」に仮託したのは神坂のアイデアである。

このように神坂の『だまってすわれば - 観相師・水野南北一代 -』は、あくまで小説に過ぎないのだが、この小説の中には、当時の上方のなりわいや、大坂商人の生きざまが活き活きと描かれていて、それはたしかに想像ではあっても、それを背景として活躍する南北の姿は、実際の南北を想像するのに、益こそあれ、決して邪魔になるものではない。わたしはそう考えている。

なお、前稿では触れなかったが、神坂が小説を書くにあたって、神坂みずから創造した架空の『南北堂剳記』の「剳記(さっき)」というのは、おそらくは、南北とほぼ同時代を生きた大塩平八郎の『洗心堂剳記』の「剳記」から借用したものなのであろう。

その一方で神坂は、埋もれていた実在の人物をこの小説に登場させ、南北の従者=門人として活躍させている。紀州の人「大藪八助」である。

大藪八助は、南北の著書『相法早引』に「大藪八助事南紀」として名が載っている。その位置は門人の筆頭である。そして同書に、大藪國義の名でもって序文を書いている人物と同一であるにちがいない。その時点において大藪は、南北の側近中の側近であったと、見做すべきなのであろう。

だが南北が最初に作った門人録には、その名は見えない。その後の消息もわからない。大藪は士分であったらしいが、そうであるからといっても門人が師に序文を寄せるというのははなしが逆であって、まったくありえないことなのだが、神坂には、むしろこういった不思議さが刺激になったのかもしれない。考証家なら敬遠しかねない事跡事情も、小説家にとっては鉱脈となるということであろうか。

そしてなにより大藪八助は紀州の人であった。神坂と同郷である。神坂が、紀州と紀州人をテーマとしつづける作家であることはよく知られる通りだ。南北は大坂の人物であり、かつ京の人物でもあるわけだが、神坂は大藪八助のことが気になって仕方がなく、それが『だまってすわれば』の執筆動機のひとつであったのかもしれない。


『江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く』

http://kyoto1001.blogspot.jp/2018/01/blog-post.html

2018年9月22日 若井朝彦
水野南北覚え書・神坂次郎の小説『だまってすわれば -観相師・水野南北一代-』について

2018年9月15日土曜日

水野南北覚え書・南北堂剳記について

小著である『江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く』には、巻末に「関係書誌」の一項を設け、南北の著作全般について、およそ6000字の解説を付けておいたのだが、『南北堂剳記』(なんぼくどうさっき)についてはまったく触れることをしなかった。


『江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く』

http://kyoto1001.blogspot.jp/2018/01/blog-post.html

このことについてなど、お訊ねや問合せがあったので、『南北堂剳記』やその他の書目について、しばらく補足してゆきたい。おそらくは月に数度ほどの更新になりますが、参考にしていただければ幸いに思います。

さて、ともかく『南北堂剳記』は在ることになっている。wikiにも載っている。おそらくそれをご覧になった方が問い合わせたのだろう、図書館のレファレンスデータも残っている。

レファレンス協同データベース
『南北堂剳記』の原文と翻訳の所蔵館が知りたい
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000019054

その問合せの結果は
「『南北堂剳記』は確認できず。」
である。

しかしわたしの知る限り、『南北堂剳記』についての情報は、以下の数行がある限りである。
鍵屋熊太、のち天下第一の相師(観相家)と謳われた水野南北が、晩年、みずからの数奇な半生を述懐した回想録(メモワール)『南北堂剳記』によると、五歳のころ・・・・・・
これはある小説の冒頭、本文第一ページの書き出しである。著者は神坂次郎、タイトルは『だまってすわれば -観相師・水野南北一代-』。
(初出は1987年週刊新潮への連載。引用は1991年刊の新潮文庫から)

これはいってみれば、おとぎ話では「むかしむかしあるところに・・・」が最初にあるのと同じで、神坂は小説のために架空の書物を創作し、マクラに「南北堂剳記によると・・・」と置いてから、小説水野南北伝をはじめたのである。

ではなぜこの『南北堂剳記』も架空=フィクションだと言えるのか。

この『だまってすわれば』では、他の実在の南北の著作も、むろんのこと登場する。主著といってもよい『南北相法』の正編続編、『修身録』はもちろん、発刊部数の少なかった『南北相法早引』にも触れている。井上正鐵の記録にも目を配っている。

扱いは的確で、想像力を働かせ、フィクションも交えてだが、神坂はそれぞれの成立事情についても十分考察しているといってよい。刊行年などについても、その語りの中などに的確に織り込んで話を進めている。お世辞ではなく、小説家の力技おそるべしだと思う。

ところが『南北堂剳記』に関しては冒頭に一度出てくる限りなのである。他になんの情報もない。この晩年のメモワール=『南北堂剳記』が本当なら、南北がどうしてそのメモワールを書く気になったのかを、神坂はかならずや想像、そして追求して、それを小説の骨格にしていたはずだ。しかし神坂はそうはしなかった。

そうはいっても『南北堂剳記』という存在の想定は、小説家神坂にとっては欠くべからざるものであって、そのためみずから生みだしたものなのである。そして小説というフィクションの場の冒頭に、ただ一度だけあらわれてくれればよかったのである。

著作権の関係もあって、近年では小説の場合も、参考書に関し、巻末に数頁を設けて記しておくのが通例だが、神坂の『だまってすわれば』は、本文の中に書誌情報がある程度は示されているので、そんな興が醒めるような余計な附録はつけていない。

だがもし巻末書誌があったのなら、他の書目はすべて上がっても『南北堂剳記』はそこにはなかったはずで、それがこの『南北堂剳記』というものの架空性のヒントになっていたはずだ。いってみれば、これが『南北堂剳記』ひとり歩きのはじまりだった。

しかし神坂のこの小説は、決して悪いものではなかった。『だまってすわれば』をめぐっては、次回の稿で続きを述べたいと思う。

2018年9月15日 若井朝彦
水野南北覚え書・南北堂剳記について

2018年1月16日火曜日

小著『江戸時代の小食主義』発刊のおしらせ



来月2月4日付で、小著
『江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く』
が、刊行の運びとなりました。
(花伝社刊・四六判・192頁・1,500円+税)

本日16日、無事校了とのこと。花伝社編集と製作のみなさまには、まことにお世話になりました。あらためましてお礼申し上げます。

また印刷と製本を担って下さる、中央精版印刷さまには、どうぞよろしくお願い申し上げます。

花伝社営業の方々のお手数もいただいて、数日前にすでにアマゾンで予約がはじまっておりましたが、装幀の生沼伸子さんに作成いただいた、重みもあり、また好奇心にも訴えてくるといった見事な書影も、本日アップされたようです。ありがとうございました。
(上記の仮の書影をクリック下さい。アマゾンのページにリンクしていて、そちらには書誌と書影があります。)

そのアマゾンのページにも全体の目次があり、
I部 水野南北の小食主義
・第一章 いのちと摂食
・第二章 摂食と立身出世の見定め
・第三章 摂食と人間関係の綾
・第四章 摂食とからだとこころ
・第五章 福禄寿の思想
II部 水野南北小伝──『修身録』の成立と南北その人
・・・関係書誌
大きな項目では以上の通りなのですが、詳細な目次は以下の通り。
(リンク先をご覧下さい)

『江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く』 詳細目次
http://kyoto1001.blogspot.jp/2018/01/blog-post.html

そして、「前口上」(まえがき)の一部を紹介いたしますので、どうぞご覧下さい。

 ・・・ 前口上(抄)
この書のテーマは小食主義、主人公は水野南北である。

水野南北は江戸時代の人。今から二百年とすこし前の京・大坂で『修身録』という書を著した。以下これを読み解くことで、南北の見識が現代にこそ有用であることを示したいと思う。(中略) 
主題は小食である。Ⅰ部の第一章「いのちと摂食」では、南北の小食についての思考を列挙する。やはりこの章がこの書の中心となるだろう。だがそれよりも先にほかの各章、またⅡ部の「水野南北小伝」から読んで下さってもかまわない。主題はあまねくあらわれる。
江戸時代の食と現代の食とは、これが同じ人類か、というほどもちがう。けれども食が人を養い、食によって人が生きることはすこしも変わらない。 

南北にはじめて接する人にとって、その食の警句、慎みのための警喩は、するどいおびやかしに見えるかもしれない。だがその一句一節には、かならずヒントが秘んでいる。

以上、取り急ぎの簡単な紹介ですが、小著一冊、どうぞよろしくお願いいたします。

今後、水野南北修身録や、南北先生その人につきましては、この
「京都の空の下から」
でも解説、案内を続けてゆきたいと存じます。

小著『江戸時代の小食主義』発刊のおしらせ

江戸時代の小食主義・水野南北 修身録 を読み解く

・・2018年2月 花伝社刊

江戸時代の小食主義 水野南北『修身録』を読み解く ・ 目次
・・・ 前 口 上 ・・・ 

Ⅰ部 水野南北の小食主義
・・・南北先生五十歳像(髷の像)

・・・ 第一章  いのちと摂食 ・・・

・・1 南北先生
・・・・・・南北の警喩
・・2 南北思想の鳥瞰図
・・・・・・・・
・・3 空腹と食味
・・・・・・小食と断食
・・4 南北の小食主義
・・・・・・小食の慎みと遊興と
・・5 小食について
・・・・・・小食の勧め
・・6 大食について
・・・・・・大食のもたらすもの
・・7 強食について
・・・・・・強食とこころの軋み
・・8 暴食について
・・・・・・いのちの長持ち
・・9 美食について
・・・・・・美食と心身の濁り
10 肉食について
・・・・・・獣肉と京
11 菜食について  
・・・・・・獣肉の滋養と野菜の効能
12 酒食について  
・・・・・・飲食と肥満
13 悪食について  
・・・・・・意食または識食
14 宿食について  
・・・・・・真の摂食
15 定食について  
・・・・・・食の波乱
16 麁食(粗食)について  
・・・・・・米と麦
17 献食について  
・・・・・・仏への捧げ物
18 犬鳴山奇譚
・・・・・・こころの献酒

・・・ 第二章  摂食と立身出世の見定め ・・・

・・1 立身出世について
・・・・・・身を治める
・・2 人間の発達発展について
・・・・・・出世のための元手と足代
・・3 食業について
・・・・・・白米と病
・・4 労役と食について
・・・・・・物を取るかそれとも事を取るか
・・5 人の助けについて
・・・・・・南北と論語
・・6 武家の食について  
・・・・・・鍛錬としての大食
・・7 分限について  
・・・・・・慎みと嗜み
・・8 実業と学問について  
・・・・・・儒者批判
・・9 僧の貴さについて  
・・・・・・真の念仏
10 開運の法  
・・・・・・修身録の底力
11「カゴの中のガマ」のおはなし  
・・・・・・立身のこころざし

・・・ 第三章  摂食と人間関係の綾 ・・・

・・1 主従君臣の絆ついて  
・・・・・・主の定め
・・2 名声について
・・・・・・声望と取るか家庭を取るか
・・3 李白について  
・・・・・・酒一日一合
・・4 高位との交わりについて
・・・・・・交際と気の驕り
・・5 人の表と内について  
・・・・・・外から見えぬ内の徳
・・6 家の因果について
・・・・・・家風家訓
・・7 倹約について  
・・・・・・当主の食と家の興亡
・・8 お金について
・・・・・・父母金銀のありがたみ
・・9 もったいないという考え方について  
・・・・・・食べるべきか捨てるべきか

・・・ 第四章  摂食とからだとこころ ・・・

・・1 養生法について
・・・・・・食と運命
・・2 朝日について
・・・・・・陰陽の賊
・・3 夜なべについて
・・・・・・夜仕事をする人のために
・・4 娯楽について
・・・・・・願望が天に届く時
・・5 薬について
・・・・・・発酵の不思議
・・6 心気について
・・・・・・いのちの長短と心気
・・7 血色について
・・・・・・血色のうつろい
・・8 腹八分目または節について
・・・・・・満腹の病理
・・9 屎について
・・・・・・ただひと口の施し
10 厄難について
・・・・・・厄除けの法
11 死について
・・・・・・老後に残す食と徳
12 野垂死について
・・・・・・恩から逃げ去ってゆく者

・・・ 第五章  福禄寿の思想 ・・・

・・1 神・儒・仏
・・・・・・天竺・唐土・日本
・・2 日本三社
・・・・・・大坂の思想風土と南北
・・3 天と地が人に与えてくれるもの
・・・・・・人に具わるもの
・・4 福禄寿
・・・・・・三神の三徳
・・5 寿を保つ
・・・・・・天と寿と食と
・・6 自福ということ
・・・・・・分限と慎み
・・7 食禄というもの
・・・・・・食の乱れは禄の乱れ
・・8 富のいしずえ
・・・・・・いたわりのこころと富
・・9 誠のこころと物の扱い
・・・・・・立居振舞の見極め
10 火と水の慎み
・・・・・・内側の徳と外側の徳
11 家格と応分の礼
・・・・・・泥中の玉
12 陰徳
・・・・・・身中の神
13 観相か善導か
・・・・・・人相の極意

Ⅱ部 水野南北小伝・『修身録』の成立と南北その人
・・・南北先生五十歳像(長髪の像)

・・1 鵺相者
・・・・・・観察力かそれとも人気か
・・2 密僧の説諭
・・・・・・南北と仏法
・・3 南北相法と門人一千人
・・・・・・相法からの逸脱
・・4 相法への懐疑
・・・・・・南北の活眼
・・5 予告編『修身録』
・・・・・・門人の書付
・・6 南北五十歳の肖像
・・・・・・二つの肖像
・・7『修身録』の完成
・・・・・・混乱の痕跡
・・8 住喜のはなし
・・・・・・住喜の抗議
・・9 南北と大坂と京と
・・・・・・正鐵の住込み
10 南北遺文
・・・・・・最後の筆跡
11 南北の享年
・・・・・・南北の父母

・・・・・ あ と が き ・・・

・・・・・ 関 係 書 誌 ・・・

・・・・南北相法
・・・・相法早引
・・・・修身録
・・・・・修身録の翻刻について
・・・・南北相法極意抜粋
・・・・亦生記
・・・・修身録から派生した書物
・・・・南北の訛伝に関するもの
・・・・南北の伝記またはその時代に関するもの

2017年7月1日土曜日

心付けの構造

世の中、あらゆる物に価格があり、その価格には、通りの相場といったものがある。

定価がある場合もあり(とくに新聞)、正札値引きなしという場合もある(とりわけデパートまたはネットショッピング)。

そういった商品を、自分の財布と相談し、また自分の都合に合わせて購入する。これが普段の生活というもので、生活必需品となれば、相場があるということ、また定価があるということは、たしかに便利だ。文明のありがたさである。もっともこういったことも、商品がある程度潤沢にあればこそ成り立つのではあろう。

しかしこれが遊びの現場であったり、特別のサービスへの対価であった場合は、定価だけでは収まらないこともあるだろうし、ちょっとそれだけではつまらない。

個人個人によって要望もちがうし、したがってその応対も異なってくる。

そういう場合には、あらかじめお店と打ちとけておく。お店も上手にサービスしてくれるし、どちらも余計な負担が生じない。

そして願い通りの結果になったのなら、お世話してくれた方に感謝の気持ちを伝えるのはもちろんのこと、支払でも工夫する。心付けである。

これだけのことをしてくれたのだから、わたしはこのサービスにはこの値段を付けますよという、これはお客が主役の考え方でもある。

現代では、会計に、サービス料として心付けの分の「マチ」があらかじめ含まれていることが多い。だから心付けやチップにはおよばないという考えも正しいのだけれども、料理人が最後に一塩して吸物の味を調えるように、お客が席を立つ時に、心付けをして、今日の一席に、ちょっとだけ色を着けるというのも、決して悪いことではない。

ところで優れた店ほど、お客が店を育てる、とも言われる。しかし不向きな店であることを知っていながら、いきなり予約もなしにやってきて、無茶な要求をして、それをやらせて、俺が店に教えてやったんだというのはどうなんだろう。

こういうお客に、心のバリアを張らない店はないと思うのだが。

2017/07/01 若井 朝彦
心付けの構造

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2017年6月25日日曜日

名古屋城は天守それとも石垣

天守のあるお城はすばらしい。たとえば姫路城。

JRまたは山陽電鉄の姫路駅の駅舎を外に出ると、大手筋の真正面に天守が聳えているのがただちに見える。駅と天守は約1kmの距離があるけれども、天守と町とが一体であることはすぐに判る。

しかし、もしこの天守がなかったとしたらどうであろうか。遠くからはお城の存在はほとんど認識できず、徒歩で15分ほど、城郭に近付いてみて、はじめてその石垣の様子がわかる。お城というものに、天守がある場合とない場合の落差は、激しいものがある。

このことはJRと近江鉄道の彦根駅と彦根城との関係でも、ほとんど同じであろう。姫路と彦根、どちらの天守も国宝である。

では石垣だけの古城郭には意味がないのだろうか。それはまったく間違っている。2022年の木造天守復元竣工が計画されている名古屋城でも、石垣の価値をどう理解するかで、どうもこじれが出ているようだ。

この名古屋城の木造天守復元に関し、専門委員として加わっている千田嘉博氏はこう述べる。
木造復元ありきでなくて、まずは国の特別史跡として最も守らなければいけない石垣をしっかり調べて、次の世代に残せるように保全措置をとって、その先にどう活用するかという議論があるべき。(今の計画は)国の特別史跡の活用計画として、非常にまずいのではないか。

「名古屋城天守閣木造復元に厳しい意見続出」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170623-00003182-cbcv-soci
(CBCテレビ 2017年6月23日配信)
また同じく宮武正登氏は、
石垣を保護する観点が欠けている木造復元計画はいずれ行き詰まる。

「名古屋城 石垣移動計画を再考へ 文化庁、保全が前提」
https://mainichi.jp/articles/20170513/k00/00m/040/099000c
(毎日新聞 2017年5月12日配信)
とも。市長をはじめ、木造天守復元に、期限を切った上で前のめりである名古屋市の幹部連と、石垣の価値を充分承知している専門委員との溝は、小さいものではないようだ。

ではなぜ石垣が重要なのか。

考えてみてほしい。現在の名古屋城の天守は、1945年のアメリカ軍の空襲で焼け落ちた天守を、戦後になって鉄筋コンクリートで外装復元したものである。今回の計画ではそれを取り壊し、石垣の調査と保全と修復は後回しに(省略)して、また場合によっては石の一部を、工事の都合に合わせて移動させた上で、木造で天守復元しようとしているわけだ。それは鉄筋コンクリートよりも精緻なレプリカであることはたしかだ。家康の時代に建造された天守の構造は、空襲以前に詳細な測量もなされていたから、それに沿って木造で建造をすること自体に、おおきな障碍は予想されていない。しかし同様のことが石垣でできるであろうか。石垣は木造のように、あらたな材料に置き換えて復元ができるものであろうか。

これは出来ない相談なのだ。まず当時と同じ系統の石が集められるかどうか。そして当時の積み方の通りの積みで積めるものかどうか。そしてもし当時の積み方ができたとしても、その積み方も、個所によってまったく一様ではないのだから。

なにより懸念されるのは、一旦天守が乗ってしまうと、土台である石垣は、調査も修理も、極めて困難になってしまうことであろう。

名古屋城はホームページが充実していて、どのようにその石垣が作られたのか、実に詳しい。たとえば『名古屋城公式ウェブサイト』の中には

『名古屋城の歴史』 複雑な丁場割
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/07_rekishi/07_01_jidai/07_01_06_tyoubawari/index.html

といった項目がある。

じつはこのWEBの中にある図面、その元となった古図(のレプリカ)が、つい先日の6月10日に放送があった

『ブラタモリ』 尾張名古屋は家康で持つ?

でチラリと出ていたくらいなのだが、この工事は全国の大名が結集した(結集させられた)天下普請で、いってみれば上下関係、またお隣同士との関係も複雑極まりないJVであったわけで、制約の下、それぞれが工夫し、相互に影響し合う。そういった経験を重ねてゆく内に、石垣の積み方にも変化があらわれ、5年も時間が経過すれば、様式が更新されてしまう。この経過を示す証拠は、あたかも指紋のように石垣の表面からも読み取れることがあるし、石垣の内側にもまた確実に存在しているものなのである。

城の歴史は、天守よりもむしろ、石垣、堀、縄張りにこそ宿る。

現に2016年の地震で傷ついた熊本城では、修復のための事前の調査によって、あらたな発見が続いているのが今なのだ。

(参考記事)
熊本城小天守北側に埋没石垣 復旧工事の調査で確認
http://kumanichi.com/news/local/main/20170613003.xhtml
(熊本日日新聞 2017年06月13日配信)

主として研究者である専門委員が、謂わばレプリカに過ぎない天守の木造復元よりも、(それが地味にしか見えないものであっても)石垣の史的価値を高く見積る理由は以上の通り。おそらく名古屋城の学芸員の多くも、そのあたりのことはとっくに承知しているはずであろう。

さて、このあたりではなしは名古屋を離れる。わたしも城郭については関心があって、それなりに研究してきたし、機会をつくっては方々の城を訪れてきた。とはいえ、実は名古屋城については、ほとんど実地の見聞がない。そこで京都二条城を例に、石垣がどれだけのことを物語るのか、ちょっとだけ例を示してみたい。

現在の二条城の主な築城期間は、おおむね1601年から1626年にかかる。熊本城や江戸城がそうであるように築城途中に時間的経過がかなりあって、石垣についても様式の変遷がみられる。

以下、わたしも参画して作成した、上京の石たち編『二条城 石垣ものがたり』(2015)の画像を数枚引用して示す。









この築城の間、将軍は家康、秀忠、家光、と三代の移りかわりがあるのだが、この石垣も同時に変化を遂げている、この変遷を読み解くと、徳川将軍家と朝廷との駆け引きさえ、ほの見えてくるといったものだ。

ところでこの二条城の石垣に関しては、一昨年の2015年の夏より、同志とともに、その所有者である京都市に対して、繰り返し環境保全や史的研究や耐震性の調査を訴えてきたところだ。それが将来にわたって二条城の価値を高めるからである。だがここ京都でも他聞にもれず昨年、二条城本丸天守復元の献策が、さるところから出たばかり。この状況は、現在の名古屋と似ていなくもない。

2017/06/24 若井 朝彦
名古屋城は天守それとも石垣

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2017年6月19日月曜日

JR西・元3社長の裁判の後で

2005年4月に発生の、JR福知山線塚口・尼崎駅間の事故の責任を問うて強制起訴されていた、JR西日本の歴代3社長、井手氏、南谷氏、垣内氏の裁判がすべて終結した。

6月14日の新聞報道などの通り、3氏とも無罪であった。

法理からすれば、これは当然のことだったろうとわたしは思う。事故予見性を広義に解釈した起訴自体も、果たして妥当だったのか、しばしば問われているほどだ。だが法律を離れた見地から、この3人に責任があったのか、それともなかったのか。これはまだ決着がついているとは言い難い。今後のJR西日本の企業としての健全性、また、日本の交通における安全をより確かにするためには、これは積極的に解明すべき問題で、むしろ裁判が済んだあとの、これからこそが大切なのである。

その2005年の事故の当日のことはいまでもよく覚えている。(またその直前に、大阪福島の踏切で、遮断機が開放のまま列車が通過したということがあったが、これもまた忘れてはいない。)当日は、事故直後の午前から、流れてくるネットのニュースをずっと見ていた。更新のたび、どんどん被害が大きくなっていった。そしてJR西日本が抱える問題もまた一斉に噴きだしたのである。

労務管理の問題、広報の問題(JR西日本は独自の広告代理店を持っている)、現場路線のカーブの半径問題、過密なダイヤ、幹部間における人事対立。しかしわたしはこれに加えて、それ以前の事故の対応が、この事故にも影響しているように感じていた。

JR西日本は、ほとんどそっくりの構造の事故と、それまでに2度は関係していたのである。それはヒューマンエラーの悪しき結晶に見えるものだった。

まず一つ目は1991年の信楽高原鐵道の事故である。これはJR西日本の線路上で起こったのではなく、信楽に乗り入れたJRの車両と運転士が関係して発生したものである。主因は信楽にあったが、この両社の関係は、人的にいっても、運行の面でも、信号の設置においても、ほとんどJR西日本が主、信楽が従といってもよいものだっただけに、これをJR西日本の事故として考察することに、わたしは躊躇しない。
(参考ファイル)
「信楽高原鐵道での列車正面衝突」
www.sozogaku.com/fkd/hf/HA0000607.pdf

二つ目は2002年のJR西日本の東海道線塚本・尼崎間の事故である。この日は夕刻になって線路に侵入事件があり、ケガ人が発生していた。そのケガ人を救急士が収用しようとしている最中に、列車が徐行せずにここに差しかかり、人命が損なわれたのだった。
(参考ファイル)
「JR東海道線で救急隊員轢死」
http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CZ0200724.html

そして三つ目が2005年の福知山線である。

この事故の原因と経過には共通点があり、それは

・ダイヤの混乱が最初に発生し
・重圧のために無理なダイヤ回復が計られ
・連絡の混乱が放置されたまま
・見込みによる運転が事故を起こす

という構造。やや具体的に説明すると、

・信楽の事故では、当日に出張してきた運輸省関係者を貴生川で待たせており
・東海道線の事故では、その数時間前まで、近接区間でのトラブルのため、それにともなう運転見合わせと、回復後の大幅なダイヤの乱れが生じており
・福知山線の事故では、ダイヤの欠陥による尼崎駅での乗り継ぎ接続に、運転士が慢性的に追われていた

このような遅延要因に

・信楽では、対向列車の単線区間への進入を阻止すべく、信楽の社員が車で現地に急行中であり
・東海道線ではケガ人収容の区間を最徐行で通過した列車からの情報が、後続の列車に正しく伝わらず
・福知山線では、列車指令が無線を通じて、運転中の運転士に、直前に発生したミスの内容を、ずっと問い続ける

といった状況が発生していた。

このようにJR西日本は、精神的に追い詰められた担当者が何にどう反応して動くのか、という、過去の類例を学ぶ機会はあったのである。ところがそれを貴重な経験とするどころか、逆に人事面では理不尽な締め付けを強めていたほどであった。それがこの事故を契機に鮮明になったのは、よく知られるとおりである。

もちろん自己の負の面を学びさえすれば、次の事故を予防できるというものではない。しかしJR西日本はそもそも信楽の事故を、自身の問題と捉えていなかったのである。これは決定的だった。

(参考ファイル)に示した「信楽高原鐵道での列車正面衝突」や「JR東海道線で救急隊員轢死」には、事故前段の状況である「監督官庁の関係者が乗るはずの列車が遅れている」や「混乱していたダイヤがやっと回復したばかり」といった要素は説明されてはいないのだが、その前者に見える
JR西日本が方向優先てこを設置したことを警察に隠したり、事故以前の何回かの赤信号出発の問題を信楽高原鐵道に指導しなかったり、という責任逃れをやり、民事の裁判で負けて責任を認めた。この事故の責任逃れの体質が、小さな危険を大きくなる前に摘み取とることをしないようになり、JR西日本福知山線の事故の遠因となったのかもしれない。
という指摘は重要である。

しかし新聞報道でも明らかになっていたが、JR西日本が、他社である信楽の信号に、方向優先テコを設置していた事実の組織的な隠蔽は、上記のようになまなかなものではなく、きわめて悪質なものであった。この捜査に当たっていたのはもちろん滋賀県警だが、事故に遭った車両には京阪神方面からの乗客もすくなくはない。またJR西日本の本社は大阪である。そういったこともあってだろうが、近畿圏の警察は、JR西日本の組織的な捜査の壁に挑んでいた滋賀県警の持つ情報を、かなり共有していたフシがある。

組織的な締付けによる、不都合な事実の隠蔽と、責任からの逃避の経験は、根深いものであった。2005年に福知山線で事故が発生した際、JR西日本は、事故車内に閉じ込められたケガ人の救出もままならない当日の内に、独自の調査として、置石が原因であると発表して責任を転嫁しようとした。近傍のレール上に破砕痕があったのは確かなのだが、これは脱線によってできたものであって、この説自体は虚妄であった。そのため、その後JR西日本への指弾は容易にやまなかった。すぐにも信楽の事故とその後の対応が思い出された。井手氏、南谷氏、垣内氏の3氏は、そういった組織を強化し、また維持したのだという不名誉を負うほかない。わたしはそう思うものだ。

兵庫県警は、攻撃的にも見える捜査を続けたし、あきらかに幹部の起訴も目指していた。その背景には、滋賀県警の無念を引き継いだ面もまたあったのではないだろうか。信楽の事故の未消化は、おそらく捜査にも影響していた。兵庫県警の粘り強い捜査が、結果として3人の元社長の強制起訴の下地を作ったのである。

ではJR西日本はその後どうなったか。わたしはかなりの変化があったと見ている。それは以前には想像もつかなかったことが起こっているからである。

一例は2014年10月13日の午後のことである。この日は台風の通過が予報されていたのだが、その前日の12日の内にも、JR西日本は関係路線の運休を決定して広報し、翌日それを実行に移した。幸いなことに台風の被害は大きいものではなく、そのため運休の是非も問われたし、運休当日の13日は祝日の月曜でもあったから、休日の運行よりも、翌平日の朝の通勤時間帯の運行確保がまず優先されたという事情もあったのだろう。しかしこれは、非難を浴びても安全を重んじる取り組みであったと思う。

あともう一つは、かなり話題にもなったものだが、JR西日本では2016年4月以降、それが人為的なものであっても、故意ではないミス、エラーに関しては、原則として懲戒の対象としない、という決定である。

これはなによりミス、エラーの報告がないがしろになることを嫌ってのことであるはずで、この措置があってもなお隠蔽があった場合にまで懲戒を免除することはないだろうが、まったく果敢な決定だと思う。台風による運休の事前決定もそうであったように、この転換も試みである。負の側面が出ないとは限らない。しかしこういった決定は、社内にも社外にも、その社の方針を、明瞭に伝えずにはおかない。

こういったことも3氏の裁判の途中で起こったことである。その裁判がJR西日本の幹部の念頭にいつもあって、なんとしてでも事故を減らす企業体質へ移行しようという、希求の原動力となっていたのだとしたら、やや強引に見えた問責の起訴も、控訴も、上告も、やはり意味があったのだと言わなければならないだろう。

2017/06/18 若井 朝彦
JR西・元3社長の裁判の後で

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