2016年9月12日月曜日

ストビュー撮影車との遭遇

もう先週のことになる。金曜の夕方だった。市街を移動中のこと、風変わりな車が目に入った。パーキングに停まっている。興味を持って、こちらも停止した。

ストビューの撮影車なのである。しかし車体にはかなり傷がある。現役の、本物の撮影車なのだろうか。狭い道に入り込んで撮影するとなると、車体も傷むのだろうな、とは思うものの、それにしても傷だらけである。そしてけっこう古傷だ。サビが深い。昨日今日の京都の狭い路地の撮影で付いたものではない。

カメラは低位置に下げられていてカバーがかかっているし、だれも乗っていない。挨拶も質問も世間話もぜんぜんできない。残念であったが、しかし撮影中の車であったら、こちらの姿も画像として取り込まれていたかもしれない。あまりいい感じはしなかったはずだ。駐車中でちょうどよかったのである。たぶん月曜までここで週末の休息なのだろう。

そういうわけで、当方もこの車を、とくに断りを入れることもなく、公道から何枚か撮影。

ストヴュー車

ストビュー自体、プライバシーの問題で訴訟などになって、写り込みの車のナンバーについてはボカすことになっているくらいだから、この写真でも消しておいた方が無難じゃないのか、というまったく弱気で消極的な理由でナンバーは消すことにしたが、しかし単純に消すだけでは芸がない。車体塗装とおんなじ地図模様の仕様で、つたない塗り絵にして遊ばせてもらった。

だがwikiを見ると、堂々とナンバーが写った画像を出している。wikiの車は成田ナンバーである。この車も同じ成田だった。京都のだれかが、塗装もそのまま、カメラ付きの中古を買った、というものではやはりないようだ。現役の車なのであろう。

このように好奇心があって近寄ってみたわけだが、じゃあストビューに魅力があるかというと、これがまったくなのである。今日すぐになくなっても、わたしは困らない。

日頃から、いずれ日刊新聞は絶滅するぞ、などということをつぶやいていながら、しかし明日、急に新聞がなくなったら困るのである。それはWEB版というものが、今よりも充実していたとしてもやはり困るのであって、わたしにとっては、紙の新聞がなくなると、情報の反芻に困難を来たして、一日の生活が乱れてしまうと予想されるのだ。もっとももしそれが現実となってみると、おそらく数日の内に慣れてしまうだろうが、いま現在のわたしに抵抗感があるのはたしかだ。

しかしストビューは、今日すぐになくなっても、わたしは困らない。ストビューなるものが登場した時は、そんなものがあるのかと驚き、この先、ネットで何年も退屈することはないだろうなと感嘆したというか、ほとんど熱狂したものであったが、すぐにも冷めてしまった。

たしか2008年、鎌倉のやや込み入ったところに行くのに、ストビューで下調べしてから行ったのだが、結局は地図ほどは役に立たないのである。以後はほとんど使わない。今回すこし触ってみたが、将来、使い勝手が格段によくなっても使わないと思う。

ストビューを有効に、そして猛烈に使っておられる方も多いはずだ。しかし普段の会話で、ストビューがどうした、どう使ったなどという内容になることはまったくといっていいほどない。

ストビュー・カーの車体の傷もこのあたりの事情を物語っているのではあるまいか。傷がつくのも仕事の内、というような撮影作業なのだろうが、IT(この言葉がすでに古い)界隈の花形であれば、やはりバリッとした車を走らせているはずだろう。

しかしストビューに限らず、新しい電脳のシステムがどんどん古くなるのは、より新しいものが古いものを呑み込んでゆくからなのか、それとも人間の飽き性がそれほどまでに強いのか。またその一方で、もちろん人間には執念深い面もあって、これが国家単位に準ずるまでにもまとまると、それはそれで著しく統御がむずかしくなるのだが。

このようにいろんな断想が浮かんでは消えたストビュー撮影車との遭遇であったのだが、最後にまだ付け加えるならば、(新聞はともかくとしても)印刷による地図、書籍という古典的な情報伝達の形式は、まだまだ電脳の骨格であることは確かで、電脳の内部に取り込まれても意外としぶとく形を守り、電脳の外でも、そう簡単にヘタりそうにはない、ということである。

2016/09/11
若井 朝彦・ストビュー撮影車との遭遇

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2016年8月15日月曜日

戦時下日本と欧州情報

戦時下日本と欧州情報

わたしの父は先の戦争で従軍している。陸軍であった。学徒出陣で出征し、士官候補試験を受け(受けさせられ)、朝鮮半島で輸送隊の小隊長をして、馬に乗っていたという。引き上げ後はしばらく博多で、復員事務に従事したということだ。最前線に出てはいない。

またわたしには叔父が4人いるのだが、この4人の内、3人が従軍している。いずれも陸軍で、その内、戦後捕虜となり、シベリアに抑留された者が2人。シベリア抑留といっても、その内1人はウクライナまで移動させられていた。ドイツ人の捕虜のこともよく知っていたし、ヨーロッパ・ロシアの見聞があることから、帰還後、東京のGHQ(実際のところ米軍)に招かれて、現地事情を訊ねられたということだ。

父の世代のこの5人の男も、いまはすべて他界してしまって、当時のことをもう訊ねる術もないのだが、それでも聞き取るべきことは聞き取ったような気がする。

しかしわたしは、父からよりもむしろ叔父からさまざまな話を聞いたように思う。父とはほとんど毎日顔を合わせているわけだが、叔父となると一年に数度といった具合である。だから深刻なことでも、すこしは気楽に話題にできたのだろう。

そんな叔父たちの中で、とくに興味を持って話を聞いた叔父がいる。

その叔父は1923年生。招集を受け、陸軍に入隊して千葉の戦車学校で訓練を受けていた。しかしある時、特務機関の選抜試験に出向かされる。

面接試験で、

趣味は何か、好きなものは何か

と問われて、自動車の運転であること告げると、それをここでやってみろ、と言われたらしい。エア・ドライブである。また天皇に反したことばが言えるか、といったことも試されたらしい。誘導面接、逆圧迫面接とでも言えばよいのか。

このあたりで大抵の者はアタマに血が昇って席を立つということだが、叔父はそれなりに遣りすごしたようであって、その結果、終戦間際までこの機関で教育を受けて、1945年の8月には、配属配置を待っていたらしい。

しかしこの叔父は、父やほかの叔父たちとはちがって、真っ先に帰郷していた。実家に帰ってきたのは8月14日であるという。だとすると前日の13日には除隊になっていたはずである。これは本人から聞いたのではないが、その家族によると、実家の庭で、その14日の内にもいろいろと焼却していたという。もっともこれは軍機に触れるものではなくて、おそらく当人の身分に関わるものであったろう。

もしかしたら含みを残した解散であったのではないか、とも思うのだが、この焼却のことからしても、すくなくとも当時の国内にいた関係者は、足跡をきれいに消して、ひとまず次の時代を生きようとしたようである。

その叔父が70才を過ぎたころ、ちょっと話になった。

「やっぱりね、知らされてなかったんだよ」

そう叔父は言ったのだった。それはたしかにそうだろう。しかしそれだけでもあるまい。そう思って、たまたま手に入れていた朝日新聞の縮刷版を見てもらったのである。昭和19年7月の一冊である。もともと紙質が悪い上に、保存も悪く、経年劣化が著しくてボロボロである。

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だが内容となると、まさにサイパンが落ち、東条内閣が倒れた月のものである。来るべき空襲に関しても詳細である。叔父は10分ほどもページを繰っていただろうか、静かにこう言ったのだった。

「みんな書いてあったんだねえ」

この静かな口調を、わたしは今でもなかなか忘れられない。

たしかに日本の戦況に関しては、誇大であり、嘘スレスレ、また真実とは言いがたい記事は多い。一通りのことは書いてはあるが、それはなにもかもではもちろんない。だが西ヨーロッパ戦線やドイツ・ロシア戦線となると、その質は今の新聞の外報と大きな違いが見られない。地図も豊富だ。これは想像も含めてのことだが、当時の新聞編集では、自国のニュースが窮屈な分だけ、ヨーロッパの戦況を仔細に紹介したのではあるまいか。またそのヨーロッパの運命に、日本の将来を暗示しようとする意図もあったのではなかろうか。

これは叔父には見せなかったが、今も手許にある

大場 弥平 著 『第二次世界大戦前史』 (弘学社・1944年8月)
赤神 良譲 著 『独ソ戦争史』 (国際反共聯盟・1943年12月)

などを見れば、当時の日本において、ヨーロッパのニュースは決して不足していたわけではなかったのである。知ろうとすれば、かなりのことはできた。朝日新聞にしても、ドイツのV‐1爆弾に関しては、やけに詳しい。

戦争によって分断されていたとはいえ、外信ニュースの出所はあった。ドイツ・ロシア戦線ではベルリンとモスクワの双方。また中立国としてのスイス、スエーデン。とくにイギリス・アメリカの動向となると、ポルトガル・リスボン発の有力な外電が存在した。

ポルトガルは中立国であっただけでなくその位置関係から、ロンドンの新聞が空輸されており、発行のその日の内に届いていたのである。こういった意味からも、当時のリスボンというところはスリリングなところだったようだ。

これはポルトガルのお隣の中立国スペインでのスパイ合戦のはなしだが、このアゴラでも矢澤豊さんが

(2015年06月18日)

という、興味深い記事をアップされておられる。これと同様に、リスボンの外交官の仕事も気の抜けないものであったろう。

リスボンからは同盟通信の電信が送られる。公使館からは外務省へ、また陸海の武官が陸軍へと海軍へと、英米情報を送っていたのである。

ここからは疑問である。

1945年の5月、ドイツが連合国に降伏してから、在ポルトガル・リスボン公使館の最大の関心事は、連合国のドイツ処分であったにちがいない。武装解除、戦犯の処分、占領軍政と統治形態。

日本はリスボンにかろうじて耳を持っていた。ポツダム宣言受諾まで、外務省、陸軍、海軍は、これをどう活かしたのだろうか、それとも活きることはなかったのだろうか。終戦史というと、東京での一連の動きか(今夜のテレビでも映画が放送される)、スエーデン工作がよく取り上げられるが、リスボン情報はどうであったのだろう。リスボンを通じて得られた英米の(東部と比較して)寛大な占領政策は、以後6月、7月と、かなり終戦を後押ししたのではないかとわたしは想像している。また英米も、このラインを有効に使っていたのではと思うのだが。

そしてもうひとつ、現代の日本に関する疑問も加えておこう。これも終戦工作に似ているかもしれない。

陸軍には陸軍で、戦争の終結を模索するセクションがあり、それは少数派ではあったけれども懸命に活動していたということが最近は伝えられている。

それと同様に、今の日銀であり財務省にも、レンテンマルクに至るドイツ、ペンゲーからフォリントに至るハンガリーなどの事例を検討したり、独自に現代の何らかの情報を収集するといった、主流とはすぐにはなり得ないセクションがあるのであろうか。戦争末期の大蔵省には、戦後の通貨体制に対する系統的な予備研究はあったはずだが。

そういう人たちがいて、しかし自分たちには出番のないことを願いながら、それでも結構陽気に仕事をしてくれているようだったら、わたしとしては心強いのだが、実際はどうなのであろう。

2016/08/14 若井 朝彦

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2016年8月9日火曜日

今上陛下のお言葉に接して

今上陛下のお言葉に接して

もう昨日となってしまったが、8月8日午後、今上陛下のお気持ち、お言葉が一斉に放送された。

あらかじめ想像されていたこととはいえ、ご自身のご老境について、ならびに高齢に至った天皇の帝位の問題をお話しになられたのだが、わたしの聞き取った限りでは、御一身のことよりもむしろ、今後、天皇の位をどのように平穏の裏に継いで行くのかということに、お心を配られていたように感じられた。

7月14日のこと、

今上陛下のニュースに接して

に書いたように、昨日のお言葉は、やはり新帝の即位前後の日本に、無用の波の立たぬようにというお気持ちのあらわれであったと思われる。

まことにありがたいお気持ちであり、そしてお心配りであると、あらためて感謝を申し上げずにはいられない。

この度のお言葉から察して、陛下のお気持ちが一代限りのものであるとは思われず、今後、国会はその政治的権能を以って、十全にかつ迅速に事にあたらねばなるまい。衆参両院には、その覚悟を求めたい。

またこのお言葉に関し、いささか内容からは離れもするだろうが、以下さらにいくつかの感想を附したいと思う。ご容赦いただければと願う。

まず「退位」という言葉である。これも先の稿でもいくらか触れたように、もし陛下がもし退位されても、すでに皇太子がおられ、帝位はまちがっても空位にはならない。したがって、これはあくまで「譲位」と呼ぶべきであろうと考える。新聞マスコミ各社もいずれそのように表現するであろうが、それがすこしでも早いことを願う。

そしてこのご表明の日取りである。

それは終戦の日でもなく、広島、長崎に想いを致す日でもなく、祖霊を招くお盆でもなく、また報道が手薄になる週末でもなかった。そして経済にも影響の少ない時間帯でもあった。

陛下のご意志がこの日取とどの程度関係あったかは判らないが、しかしそれが間接的であったにせよ、この日取には、やはり今上陛下のお気持ちが籠っていたのではないだろうか。わたしはそう思うものである。

そしてこの稿の最後に述べたいのは、このご発言はやはり政治に関わるものであろうという、つまり憲法に抵触するのではないかという、一部法曹界からの反応であり見解についてである。

しかしわたしはその方面の意見を持つ方にどうしても問いたいものである。今上陛下の献身的なご公務から発した想い、そしてご高齢のご自身のこと、また国の平穏を願っての発言が、もし憲法に違背しているのだとしたら、憲法の方になんらかの欠陥があるのではないか、そういう疑義には至らないのであろうかということである。

お言葉に関し、法との衝突を示唆した意見は、やはり狭量というべきものであろう。

現在の憲法と、望ましい日本とは、すべてにおいてかならずしも一致しない。そんな神がかった法律があるはずもない。そしてそうであればこそ、われわれは未来への開拓に希望が持てるのではないだろうか。

今こそ識者の一考を願いたい。

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2016/08/09 若井 朝彦

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2016年8月2日火曜日

偽善不足

偽善不足

ネットやテレビや新聞で都知事選の推移を眺めていて、当事者の分別のない言動には愕然とした。この稿のタイトルに沿っていうと、偽善にすら達していない不様な行いがあまりにも多い。援護射撃にもならず、味方に銃を向けている者さえいたが、困ったことにそういう人間に限ってその自覚がない。首都の知事選をやっているというのに、まじめにやっているのかどうかを問いたいほどのレベルである。

「善」と「偽善」を比べれば、もちろん「偽善」の方が分が悪い。政事世事に偽善はあふれているが、そのほとんどは、いわゆるタテマエの世界に棲息している。

体面を保たったり、また見栄を張ったり、言いつくろったり、ごまかしたり、うやむやにしたり、時間稼ぎをしたり、あるいは責任転嫁に偽善は役立っているわけだ。

この点では、「嘘も方便」と似ていなくもないが、その目的、こころざしにおいてまったく別物である。だが偽善を演じられる者は、すくなくとも物事の良し悪しは知っているはずだろう。そうでなければ「善」のフリはできない。

その限りにおいては偽善者には交渉のための接点がどこかに見える。

ということで偽善概論をひとまず終って、以下は偽善にも達していなかったのではないか、という例。

極めつきが民進党岡田党首。投票日前日に秋の党首選不出馬を表明したわけだが、支援候補が劣勢の中、

「私として自身の達成感がある。」
(毎日新聞のWEBより)

という能天気な発言は、一体なんなんだろう。日本中から「来週にせえよ!」という突っ込みがあったものと思われるが、氏は参院選でもう満ち足りたのであろうか。岡田氏のプロフィールには

「趣味は選挙」

と書いてあるのかもしれない。それとも新聞に「都知事選の結果などを踏まえて不出馬」と書かれるのが、よほど嫌だったのだろうか。どっちにしたって迷惑で気の毒なおはなしだ。

野党党首と対になるのが与党自民党安倍党首。結局のところ推薦候補の応援演説には入らなかった。「地方創生」なんてどこ吹く風。

増田候補は、党首がみずから口説いた候補ではなかったわけだし、手元に劣勢の情報があったからだろうが、このネグレクトは、ただでさえ人材払底の折から、今後、候補者スカウトにも影響が出るだろう。

対立する小池候補が当選確実だったとしても、自党の候補の応援をするのは偽善というより義務に近い。敗戦の処理をし、講和に至るにしても、小池氏はいかにも継ぎ手の多い人であるし、なんとでもなるだろう。偽善の力を借りても、党首としての信義を維持すべきだったと思う。もっとも与党も与党で、先の参議選においてすでに「達成感があった」ようではあったが。

その他、数え出したらキリがない。告示直前に参戦を表明。だが東京都知事としての政策はほぼノープラン。街頭演説はあまりやらないし、しゃべりたがらない。討論会はしばしばキャンセル、スキャンダルにはジャーナリスティックな反撃よりもまず訴訟という候補者がいたが、あれは青島選挙の再現を狙っていたのだろうか。そこまでの考えがあったとも思われないが、どうもよくわからない。

開票がはじまってもインタヴューや記者会見を受けたがらない人が多かった。また自民党東京都連会長の石原氏はいみじくも

「議員の皆さま、各種団体の皆様、本当に申し訳ございません」
(日刊スポーツのWEBより)

と述べたようだが、その前段として、有権者である支持者一般にはどの程度お詫びをしたのだろうか。身内に詫びたければ、いくらでもどうぞご自由にだが、すくなくともそれは後回しにすべきであって、偽善の論理から言えば、非公開の場が望ましい。

またその父で、元代議士元東京都知事で、かつ作家の石原氏は、女性としての年齢と容姿をからめて候補者を批判。発言は利敵行為だともオウンゴールだとも評された。このあたりになると善悪を飛び越して幼児の悪口以上のものではなかった。

氏の世代の日本人のそれも男性は、「男を上げる」だとか「下げる」だとかいう言葉には敏感であったはずで、高齢とはいえ、氏の脳裏にもまだこの語彙は残っていると思うのだが、どうも違ったようである。

そのうち日本にもアメリカの大統領候補、トランプ氏のような放言派が増えてくるぞ、とわたしは思っていたけれども、むしろそれより先にTOKYOにいたのか。

だが、大英帝国保守党党首選から逃げ出したボリス・ジョンソン氏の例もある。自身の立場を忘却した心神喪失的行動は、政治の世界では国際的に流行しているのかもしれない。

こう考えてくると、ぎりぎりの偽善というものは、責任感の最後の砦であるともいえる。

2016/08/01 若井 朝彦

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2016年7月19日火曜日

「ジンクス」と「自爆」と

「ジンクス」と「自爆」と

ジンクスというものがある。大雑把に言って縁起かつぎのようなものだ。

いくらか呪術めいているし、またいくらか宗教的でもあって、絶対者に祈ることもある。だからといって厳密なものではなく、非宗教でも一向にかまわない。だからジンクスをこしらえるのに、別に聖職者に教えを乞うこともなく、聖典に通じていなくてもよい。要は個人の思いつきだ。

服の色、数字、たべもの、しぐさ、言葉、偶像。あらゆるものがジンクスの素材になろう。ジンクスというものは、基本的に個別のものなのである。

教会の儀礼だって根元はジンクスのようなものであったかもしれない。だが教会は公認してくれないだろう。しかしだからといってジンクスに凝るものが背教者の扱いを受けたり、まあ現代では火あぶりになることもない、たとえば日本や北米や西欧の場合。

呪術と宗教との間で、戯れているといった風情だ。心性としてはフェティシズム、ナルシズムにもいくらか接近しているものかもしれない。

こういったことが人間の余裕、遊びの範囲で納まってくれていれば、害は生じない。まれに「ジンクス通りに行かない!」だとか「縁起が悪い!」といってカンカンに怒る者にも出交わすが、心にゆとりのない人はどこにでもいるもので、そんな人はジンクスと関係ないところでも怒りちらしているにちがいないと思う。

本格的に信心のあるという人からすれば、そんなインスタントなものは一段下に見ているのかもしれないが、こういうことができる世の中というものは決して捨てたものではない。教会や教団の力がなお弱まっている現代、宗教や呪術はよりパーソナルになってきているのではあるまいか、おそらく日本や西欧や北米の場合は。

ところで、この宗教的なものの個別化が、先鋭化した人間を生み出すこともある。

自分で絶対者を想定し、その下命を受けて、綿密に計画を立て、実行の段階では短時間の間に見ず知らずの人間を殺し、そして殺されて死んでゆく。

宗教的な情報が、過去の例の参照が、必要なものが、いずれも容易に得られる現代に、そういう個人がいっそう増えてきた。それは教団でもなく、集団でもなく、部族でもなく、家族でもなく、個人なのだ。

宗教との関係は慣習以上のものではなく、自分に信仰心があるともないとも考えず生きてきて、ジンクスどころか戒律も守ることがなかった者が、何かを契機に変貌し、こういう行動に出る。

わたしの生温い考えではこうだ。宗教とは、人間とその生命を尊重する限りにおいて絶対者の栄光がある。だが彼等はまったくそうではないらしい。

わたしの頭ではこのあたりが一杯一杯だ。たとえば心理学者や精神医学者に、ジンクスに関する専門家がいたとして、そのような人は、このテロリズムの個人化について、どう考えているのだろう。そういう人の見解をぜひ聞きたいと思うのだが。

2016/07/19 若井 朝彦

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2016年7月14日木曜日

今上陛下のニュースに接して

今上陛下のニュースに接して

昨日13日の
「今上陛下生前退位のご意志」
のニュースは、さすがにびっくりした。

だがすぐにもこう思った。陛下のご年齢からも不思議ではないことであるし、皇太子殿下のご年齢が、今上陛下の即位の際と、もはやならんでいる、ということもあるのだろうと。

もちろん、これは感想であるし推測に過ぎないのだが、本日14日の京都新聞でも、識者のコメントとして次の三つが載っている。

その見出しは次の通りである。

「象徴の役割 困難と判断か」 所 功 氏
「慰霊に区切りで決断か」 半藤 一利 氏
「国民とのつながり意識か」 原 武史 氏

いずれにせよ、だれにせよ、推察の範囲はすぐには越えられない。

だが、もし陛下のお考えに
「改元や即位が突然起こることによって、国民の生活が混乱することは避けられないものか」
といったものもあるのだとしたら、これはありがたいことだと思わずにはいられない。

ただ、このニュースに関しては、ご退位をいうよりもむしろご譲位というべきで、その点ではデリケートな問題もなくはないだろう。古いようだが、後水尾帝の退位譲位の場合など、徳川幕府への明確なメッセージを持っていたことがある。

しかし現代の日本では、今上両陛下のご健康ご長寿を念頭に、判断や法の改正を進めてゆけば、大過は生じないのではないかと考える。またこれが、今後にも生ずるであろう諸問題への、解決の一歩となるかもしれない。逃げるべきことではないように思う。

京都は御所、御陵、また泉涌寺を通じて皇室とのつながりは深い。そのために、しばしば御帰りがある。だが、繰り返すようになるが、まず今上両陛下のご健康ご長寿を願って、京都府も京都市も、またしばしば強いアッピールを発する京都商工会議所も、暫時は静かに見守るべきだろうと述べておきたい。

2016/07/14 若井 朝彦

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2016年7月12日火曜日

「氷と贅沢とイノヴェーション」考

「氷と贅沢とイノヴェーション」考

現代の日本、氷というものは、夏でもなんとも簡単に手に入る。

行列のできる店が作る有名なかき氷もあるし、バーテンダーが巧みに砕く純氷といったものもあるわけだが、自宅で冷蔵庫で作る氷や、レストランでサッと出てくる氷水の入ったグラスなど、ほとんどタダに近い。京都の北山にあった氷室から御所宮中へ献氷、といった時代と比べると大違いである。

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(今治を歩いていて、たまたま通りがかったお店。登泉堂さん。あとで友人に聞けば、かき氷の名店だったとのこと。素通りして、もったいないことをしました。旧店舗の写真。)

さて京都は、いま「水無月」の季節である。三角形の白い「ういろう」の上に、甘煮の小豆が散らしてあるといった、どちらかというと素っ気ない感じのお菓子のことである。

この小さなお菓子も、その元をたどれば「氷」に行き着く。夏に宮中に献じられた「氷」がその起り。上生菓子といったものではないが、ちょっとした甘味で、気持ちだけでも暑気払いができるのは、毎年のことながらうれしい。

冬からずっと氷室に保存されてきた氷は(旧暦の)6月1日に御所に運ばれ、聖上これを賞でられていたわけだが、また臣下にも頒つ。この日が「賜氷節」といわれるのはそのためだ。それが次第に、この日に饗宴を催すのが恒例となって、氷をかたどった菓子が作られるようになっていった。

一方で庶民は、そんな禁中の事情は知ってはいるが、氷はまったく無理。高価な砂糖を使った菓子もまだまだ無理ということで、ある時期までは、削った白い餅を氷に見立てていたようだ。

氷_640

このテキスト(画像)は17世紀後期の『日次紀事』(愛媛大学図書館HPより)だが、

民 間 食 欠 餅 以 是 比 氷
(この日、民などはかきもちを食べて、これを氷の代わりとする)

ということである。これが甘い水無月にとって代わるまでは、かなりの年月を要したにちがいない。

ところで「かきもち」が「水無月」古い形であったとすれば、小豆なしの「白いういろう」だけを食べていた時期もあったのだろう。もっとも現在は、黒砂糖をつかった「黒水無月」もあれば、緑の「抹茶水無月」もある。本来の氷の白のイメージを離れての展開ということだが、じつはわたしは「黒」が好きである。とくに夏場、汗で逃げたミネラルの補給にもすぐれると思う。

もともとは(くどいようだが陰暦=旧暦の)6月1日の行事。現在では、月末の「夏越の祓」と習合して、6月30日が水無月の日になったようである。どこの和菓子屋の店頭にも、そういうタテ長の案内が貼り出される。たしかに現在の6月1日は、もっぱら衣更の日であろうし、旧暦を現在のグレゴリオ暦に当てはめると、約一ヶ月強うしろにずれるから、この期日の引越しは、和菓子組合の方々にとっても上首尾であるように思う。

氷の価値の低下と比べると、元来は「氷」の代用品だった方の、われらが「水無月」は、歴史の持つ意味も加勢してだが、大健闘というべきか。この氷の物語を有するお菓子は、全国のデパ地下を通じ、またスーパー季節商品としてより広く日本に展開中である。むしろこのお菓子があることで、かつての「氷」の威光を今に伝えているとも言えるだろう。

現代のこの瞬間、氷は、そのままでは贅沢品とは言えない。江戸時代の京都江戸の人だって、冬の氷まで珍重はしなかったであろう。しかしながら「たかが氷です」などとは言うべきではない。今後、上ぶれ、下ぶれ、どんな展開があるかわからない。

ただ人類というものは、珍しいもの、新しいもの、人の持っていないもの、また曰くあるものをどうしても好きになる。いくら最新のイノヴェーションだの何だのといっても、それが商業的である限りは、この人類の性癖から、決して遠いところの出来事ではないのである。

 2016/07/10
 若井 朝彦(書籍編集)

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