2013年3月4日月曜日

身近にある危険と原子力発電所の危険と

私には、以前から、つまり2011年の3月からずっと知りたいことがあった。それは福島第一原子力発電所で、バックアップ電源のディーゼル発動機が、津浪などで浸水して使用不能になる危険性を、現場の職員はどこまで認識していたのか、ということだ。対策が打たれていなかったことは明白で、問題は、認識があったか、それともなかったか、である。

先週のことだが、これの答えになる情報があった。2013/02/27京都朝刊京都の中の特集記事に、福島原子力発電所の事故についてふれた個所があった。2011年の事故ではない。それより20年前の事故である。記事はおそらく共同通信の企画によるものだと思われるが、これによると、

「1991年10月30日、タービン建屋の配管から冷却用の海水が漏れ、地下1階の非常用ディーゼル発電機が浸水した。報告書によると、貝などの異物で傷ついた配管が腐食し、数㌢の穴が開いたことが原因とされる。」

記事には写真もあった。その写真を見ると、報告書の表紙には、

 福島第一原子力発電所1号機補機冷却水系海水配管からの海水漏えいに伴う原子炉停止について

と記されている。記事によると、この事故に立ち会った職員の一人は気づいたのだそうだ。津浪がここに来て浸水すれば、同じことが起こる。しかしこのことを職場で口にすると、タブーの壁に突き当たった、とも記事はいう。福島第一では、おおよそ分かっていたのであろう。分かっていながら放置されたのである。

重大事故は起こらないように設計されていて、その設計が前提で認可が下りている以上、重大事故を想定することを、認可者、被認可者どちらもがはばかる、といったことは、官僚的社会ではじつによくある。規模が大きくなればなるほど、タブーによる締め付けはきつくなる。これは日本に限らないことであろう。

福島で起きた事故は、原子力施設特有の原因によるものではないのだ。慣習やタブーによる危険の放置といった構造は、大は国防から小は家庭まで同じものである。個人個人が、エネルギーを大量に使用する現代人にとって共通のものなのである。

 原子力発電所、原子力施設がなくなれば、日本は安全、ということはまったくない。いたるところで大きなエネルギーは使われている。むしろ問われるのは、おのおのの場所でどれだけ安全を確保できるか、踏ん張れるのかということである。真の国力とは、こういったことで計られるべきだと私は思う。