2015年12月23日水曜日

「中央省庁の移転」考

「中央省庁の移転」考

京都には文化財が多い。多いといってもそれは建造物のことで、文化財総体では東京ほどでもないだろうが、ともかくそういう理由で、例の「中央省庁の移転」では「文化庁は京都に」、と府市が合作中である。最近、これにも関係して文科大臣の来京視察があったばかり。だがその道中の案内では、ものの見事にスベってしまったらしい。尾ヒレこそついていないようだが、新聞が面白おかしく料理していた。

もともと文化庁が激しく嫌がっているわけで、この結末も、大臣が東京を出発するときには、誰かによってすでに決められていたもののような気がしてならない。

さて、文化庁といっても、国民国益にとって最大の仕事は、いまや著作権や知財である。その外国との攻防戦、国内の調整を、空港も大使館も衆議院も参議院もない京都でできるわけがない。

京都市議会の11月例会でも「移転促進」決議が最終日に提出されて可決はされたが、全会一致とはならなかった。

ただでさえ、京都は文化財を人質にとって交渉している、と思われているわけで、不同意があったことには正直ほっとした。こんなことで一丸となっているようでは恥ずかしい。もっともこの反対行動も、迫る選挙があってのことだったのかもしれない。

その文化庁も、年中行事としてのニュース種を持っていて、夏すぎごろに、全国紙のいい場所を貰える日がある。

『国語に関する世論調査』の発表である。目次からその項目をざっとあたると、

・人が最も読書すべき時期はいつ頃だと考えるか(H25)
・今の国語は乱れていると思うか(H26)
・ふだん、手書きで文字を書く方か(H24)
・日本人の日本語能力が低下しているという意見について、どう思うか(H23)

という具合。設問というよりもほぼ誘導訊問で、いかにも(週に2回以上発行される)新聞の読者層の受けを狙った項目が目立つ。担当は文化庁文化部国語課である。そんな課があったんかいな、といった感じだが、文化庁もこの国語課なら手放してくれるのではあるまいか。

『今年の漢字』が、年末に清水寺で発表されるのと同じように、この手の発表なら、京都でやってもどこでやってもぜんぜん困らない。調査も委託事業であるし、その内容にも頓珍漢なものも混じるし、公表はPDFであるのだから。夏と冬でいい一対になりそうだ。府と市も、この程度の「なんちゃって移転」で満足すべきであろう。

しかしどうして省庁の移転は国内、なのだろうか。

観光庁は北海道ではなくて出発国の北京に。消費者庁は徳島ではなくて消費財生産国のハノイに。文化庁は京都にではなくて、不老不死のネズミの住むというカリフォルニアに。防衛省は・・・・・・

同じ移転を玩ぶにしても、ほとんど「移転移転詐欺」の国内論議よりも、虚構新聞(本社=大津市・発行所=滋賀、東京、ニューヨーク、ロンドン)ばりの『空想力』で突飛なプランをあれこれ検討した方が、役所の本質が見えてくるかもしれない。

2015/12/20
若井 朝彦(書籍編集)

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2015年12月15日火曜日

「地方議会への陳情」考

「地方議会への陳情」考

今年になって、初めてしたことが二つある。一つは新聞の読者投稿。もうひとつは議会への陳情である。新聞社の投稿の扱いについてもいろいろ意見を持っているが、今日は陳情についての考えを主に。
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新聞投稿と陳情と、内容から言えば同じ傾向のものだった。一連の活動だったのだが、最初に手をつけたのは新聞の方。新聞には投稿規定が書いてあるからわかりやすい。そのころはまだ、陳情や請願の何たるかを、よく理解していなかったのである。

そうこうするうちに、同じ活動をしておられ、わたしと同じように新聞投稿しておられる方の活動がネットで見えるようになってきた。むかしのように、人づてにやっと相手を見つけて、出向いていってはなしをする、というのではなくて、検索とメールであっという間に繋がるのである。

それでわかったのだが、そちらの方々はすでに議会陳情もしておられたのである。その陳情過程を拝見すると、ちょっと驚きの展開があった。

その方々の最初の陳情は、直近に自治体が公表したある計画への異議申立てだった。またその計画の公表の仕方は、住民の裏をかくような仕方であった。それだけに、陳情活動には、その怒りも含まれていたように思う。その怒りはともかくとして、陳情ではその「計画の見直し」を求めていた。

陳情には効果がたしかにあった。議会の委員会の陳情審査の直前、自治体からは先手を打つように計画の修正の方針が示された。そんなこともあって委員会では、やや形式的な審査に止まったようであった。

その方々はまた、地域の署名も集めておられたのだった。怒っている人は相当に多く、短時間にかなりの数が集まっていて、当局に提出。新聞でも大きく取り上げられた。その勢いもあってか、当初は「見直し」だったはずの陳情をパワーアップさせ、今度は計画の「白紙撤回」を求めて、すぐにも再陳情されたのである。最初の陳情審査から一ヶ月もしない内のことだった。

事態を知った人がだんだん増えていったということもあるし、計画内容や資料の検討が進んだこともあって、自然な流れではあったが、これは普通の交渉事や、裁判ではめずらしい展開ではないだろうか。「白紙撤回」の陳情がだめだったからレヴェルを落として「計画見直し」を求めるというのなら、よくあるはなし。しかし見直しも完全には認められない内に、白紙撤回に格上げしたのであるから。

こういった場合、議長の裁量によっては、「すでに審査済みの案件」になったりはしないのだろうか。もっとも住民の怒りが強い場合は逆効果だろうが。それはともかく、どうやら議会への陳情というものは、ずいぶん敷居が低いものらしい、ということはよく分かったのである。

そこでわたしも、議会事務局に問い合わせ、相談するなどして、まず1件陳情を提出。実際に陳情を提出してみると、その簡単さがよくわかる。直接議会に出向く必要もなく、印紙を貼るでもなし、82円切手一枚の郵送。それに気をよくして、さらに数通の陳情を作成。最初の一通だけでは、自分の考えのすべてではなかったのである。これはそもそも、内容一件につき陳情一件という規定があるからなのだが、全体を通読していただければ、わたしの考えがわかるようにしたつもりである。

このころになるとあることに気がついた。自治体に対して意見があって、それが新聞投稿としてまとまるようなら、その投稿は、議会陳情に書き換えが可能だ、ということである。投稿と陳情。一粒で二度、である。

また新聞投稿として採用されるようなら、議会に出しても内容のある審査となる可能性がある、といえるかもしれない。

さて最後に、今回、陳情提出とその審査を見て、その出し方について思ったことなど。

議会がその問題をよく認識している場合は、あまり具体的な内容の陳情をしない方がよいらしい。というのも、そういう場合は提出だけで議論が進むからである。今回の場合でも、陳情者であるわたしも気がつかない掘り下げがあった案件もあった。

逆に、当事者に問題の認識が弱い場合は、議論は期待せず、事実の報告を主とした陳情の方がよいかもしれない。いつか大きな議題となる準備で満足すべきだろう。

議員の紹介を得て、陳情を請願に格上げすることも可能である。そして請願の場合は、採決にもなる。しかしその場合、否決となると後がない。可決されても強制力はない。こう考えると、議事として粘り強く続きの期待できる陳情の方が、わたしには好ましく思われる。

 2015/12/05
 若井 朝彦

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2015年11月30日月曜日

「林達夫と認知科学」考

「林達夫と認知科学」考

林達夫(1896‐1984)とはいったい何者であろうか。職業から見れば出版人にして大学教師、ということになる。業績からすれば歴史家、思想家、文筆家としての足跡も大きい。しかしこの稿では、革命思想家としての林にまず接近してみたいと思う。
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20代の林達夫は、ブッセの『イエス』を翻訳、出版している(岩波書店・1923年)。その書が1932年に岩波文庫として再刊される際、林は凡例(前書き)をあらたにした。以下はその一節。

・・・ただ一言述べさせて貰ひたいのは訳者(つまり林)のこの書(つまりブッセの『イエス』)に対する評価は、翻訳の企てられた十年前と今日とでは可なりに逕庭があるといふことだ。訳者は今日、戦闘的無神論者の陣営にある一兵卒として反宗教的な論文を書いてゐる。訳者がこの『イエス』の翻訳を再び公けにするのは、ただ書店(つまり岩波)に対する五年前の公約を果さんがためである。・・・
林は、30代の半ばになっていた。ここでいう「戦闘的無神論」というのは、ほとんと共産主義であるといってよく、やがて起こるべき革命のために何かを準備しているのである。つまり林は、「むかしのようにブッセの『イエス』は買っていないし、いまやそのころとは全然違う立場の人間である」と宣言したわけだ。書店に対しても、官憲に対してもかなりの緊張感を持たざるを得ない内容だが、林は三木清の友人であり、野呂栄太郎とも遠くはなかった。その人脈からすれば、上記はさほど突出しているものとは思われない。

だがその後の林は、野呂や三木とは異なって、検挙されることも投獄されることもなく、戦時を切り抜ける。やがて1951年には「共産主義的人間」を著し、文藝春秋に発表した。これはスターリニズムに代表される共産主義とその国家の批判であった。そして政治的人間であることを止めてしまう。またこのころから文筆家としてもほとんど孤立してしまった。

林達夫の熟読者、愛読者からは「林達夫をそんな単純に、早送りで割り切ってよいわけがない」という声が上がりそうだ。実際のところわたしもそうだと思う。林達夫は割り切れない人物である。政治的に退却はしても、革命思想家としての林はここで終わったわけではないのだ。革命というものの本質についての関心は、その後いっそう深まったのではないだろうか。そうわたしは睨んでいる。

たとえば晩年の二つの作業、ルネサンスの天才の創造活動を通じて人間の元型を想起すること(「精神史」1969年)。ベルクソンの『笑い』を翻訳しなおす過程で最新の理論を点検し、個人の心の中の笑い意味、集団の中でこそ起こる笑いの意義を探求すること(「ベルクソン以後」1976年)。

今となってはいささか古い研究の方法だともいえるが、こういった林の問題設定は、いったいいかなるときに革命を志向する集団が発生するのか、いかなる場所でに革命の機運が成長するのか、といった、林の中に不断に湧出る疑問と不離だったとわたしは考える。

そしてこの思考は、学問のさらに新しい展開を熱望していた。70代半ばの林は、『思想のドラマトゥルギー』(久野収との共著。対談を元に大きく加筆、再構成されたもの。平凡社・1974年)の中で、こんなことを述べている。

・・・科学者としても、小説家としても一流の、イギリスのC・P・スノーは、この二十世紀のさなかに、いまだに昔風に言えば、理工科系と法文化系を志す若者が、依然として古ぼけた各々別個のカリキュラムを専門家になると称して後生大事に守っているのを嘆いていますね。どこまで行っても合流しない二本の平行線。今の工業技術世界兼情報化世界で少なくとも第一線の働き手になるには、それではもう間に合わないはずです。MITは言ってみれば、この人間と機械との共棲時代をどうやって生きるかという実験場であり、その意味で、共棲的世界の縮図ともいえるものでしょう。・・・(初版267p)
この時点で林は、ほとんど現行の認知科学を予想している。社会学とか心理学とか医学を跳びこえた「集合的脳科学」とでもいったものをこそ林は希求していたのではないだろうか(数学的ユング?)。そしてそういった手段によって、藝術的天才の秘密や、革命の本質に迫ることはできないかと。

しかし今ほどこういった思考や分析が必要とされている時代もない。林の場合、キリスト教と経済学と西洋文化が中心課題であったし、想定していたのは、その延長線上にあるべき新しい科学。しかし現代ではそれに加えてイスラム宗教学、中東文化、場合によっては麻薬の薬理と脳内化学、脳の発達機序、情報処理技術が必要必須である。その総体としての認知科学。

そしてこういった認知科学こそテロリスト集団にとって脅威になるかもしれないし、またそうでなくてはならない。テロリスト集団との闘いでは、火力がすべてではないし、他にもさまざまな貢献があるはずである。知も含めた総力戦である。

さて、はなしをもう一度林達夫に戻す。さきほどは『思想のドラマトゥルギー』からMITとその周辺について書かれた部分を引用したが、そのすぐあとにはこんな個所がある。本日の本線からはいささか外れるが、これも現代に直結した林達夫の警句予言であるから、紹介しておこう。

・・・僕自身はもうできないけれど、文科の学生に講義しながら、理工科的な知識、それに数学的な知識は最低限は必ず身につける努力をしろ、と言うんですけど、・・・理工科系の人は、必要に迫られ、足りないところをもりもり勉強してしまう、そうすると、文科系の人は無用の人間になってしまう、とおどしてみるんだが、さっぱり効果がない。・・・
繰り返すが、林は1984年没。『思想のドラマトゥルギー』は初版1974年である。

 2015/11/28
 若井 朝彦(書籍編集)

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2015年11月21日土曜日

「街ネコ」考

「街ネコ」考

街ネコという生き物がいる。食べ物は人間に依存しているが、いざサカリとなればほとんど野生。だが子育てはヘタな方。飼いネコでもなく、のらネコでもなく、準フリーランスのネコのことといったらよいだろうか。しかしネコという生物は、完全な家ネコだってどこかフリーランスなところがある。
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京都には中心部にもまだそんな街ネコがいる。四条河原町を中心として、おおよそ300m半径にはほとんど生息しないだろうが、そのすぐ外なら立派に存在すると思われる。(大阪の梅田だって、中崎町あたりにまで行けば、きっといるのではなかろうか。)

そしてそんな街ネコを見れば、景気がわかる。それは景気の本質ではなくて、株価かもしれないが。

1990年代の前半、いわゆる平成不況で街ネコは激減した。その後ゆるやかに回復したが、2008年のリーマンショックではまた減。以降ふたたび回復基調が続いて現在に至る。

これは相関関係ではなく、景気がネコに影響を与えているという因果関係である。ふらりとやってくるネコにエサをやろうという、フトコロの余裕、ココロのゆとりがなければそうはならないのであるから。(したがって、強引に街ネコを増やしたからといって、景気がよくなるということは決してなく、だからもしネコの数量ターゲットを考えている方があれば、それは虚妄である。)

さて、そんな街ネコも、最近微減である。というのも京都市の通称「餌やり条例」(正式名はあるはずだが、この稿ではくわしい調査を省略)が施行されたからである。自分の飼い猫でもないネコに、またハトとかに、エサ場をつくって勝手にエサをやってはいけません、という規則である。具体的な罰則はあったのだろうか。ご興味の方は検索してみて下さい。

ともかくこれには効果があったようである。市の係りがどうのこうのと注意する前に、周囲の人が注意しやすくなった。もちろん自制効果もあったと思われる。わたしの行動範囲では、ネコを集めてエサをやる人は見なくなったし、それにしたがって街ネコの数はやや落ち着いたようである。

わたしはこの結果に好意を持っている。最近、ネコの数はやや過飽和で、結局ふえすぎて子供を十分に育てられないネコも、目についていたからである。また放置されたエサに、イタチが寄ってくるということもあった。

京都では、街ネコのいるやや外側には、イタチもいるのである。イタチどころか、昨年のこと、まったく街中でタヌキを見た。夜間にやや遠くに個体を見た。「それは野生化したアライグマだったんじゃないか」という人もあったのだが、有効な反論ができないでいる自分が悔しい。すくなくともイヌでなかったことは確かだったと、この場を借りて主張しておきたい。

ともかく京都では、ネコへのエサやりが過ぎて、イタチまでトロトロ歩くようになっていた。これはイタチの将来にとっても、あまりよい状態ではなかったと思う。

条例そのものには反対もあった。今生きているネコを死なせるわけにはいかない、という意見である。わたしはこの意見にも反対しない。

そう考えてこっそりにしてもエサをやる人がいるから、京都の夜の裏道の風景でもある街ネコの数は保たれている。ただ、エサ場はそのままに、そこにくるネコを去勢避妊手術することでネコの数をコントロールしよう、という意見には同意しづらい。

ネコもネコによってサカリのつきかたも万別だろうが、一週間も家を空けて、やせ細ってドロドロになって帰ってくる、そんなオスネコを見るにつけ、そんな彼らの本能の誇りを人間が勝手に取り除くのは、人間の傲慢ではなかろうかと思う次第。

以上がさしあたってのわたしの考えだが、くわしい方、よく観察されている方、実際にネコの世話をしている方から意見を聞けば、再考することになるかと思う。

ところで、先ほどは株価とネコのはなしをはさんだが、株価はともかく、地価はネコにとって敵である。ひとたび高騰して木造二階建てが減ると、街ネコは確実に棲家や子育ての路地や、通行の屋根を失うからである。食は、人間とネコの相互の工夫でなんとかなることも多いのだが、住となるとさらにむつかしい問題だ。

 2015/11/19
 若井 朝彦(書籍編集)

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2015年11月16日月曜日

「異文化との接点」考

「異文化との接点」考

先日12日、『「現代とカントル」考』を書いたときのことだが、その中にわたしは、ふとこんな言葉を挟んでいた。
(日本を西洋に含めていうのだが)人生の意味はカントルの生きた時代よりもなお希薄になっているのではあるまいか。
ここで「日本を西洋に含めていうのだが」といったのは、婚姻の形態、緩やかな父系社会、男女平等の理念、教育の尊重、文化財を通じての歴史の保存、戦争に対する態度、宗教についての無関心に近い寛容、などから言えば、日本は西洋とほぼ等質とみてもいいだろう、という程度の意味であった。そして、わたしには中東イスラム圏の人々の人生観は、とても見当もつかない、という気持ちであった。

したがってパリでテロが起これば、わたしは、日本で起こったことのように思わざるを得ない。フランス人は同意してくれないかもしれないが、日本の習慣や文化や制度が攻撃されたのとほとんど同じだからだ。今日の夕刊もそうだったが、明日15日の朝刊の一面が、11月13日のパリの同時テロのニュースで埋め尽くされていることに、きっと納得することだろう。

同程度の自爆テロは中東ではしょっちゅう起こっているが、軒並みベタ記事である。このことに違和感を感じることはなくはない。人命にここまで軽重があってよいものか、と。だがこれもやはり当然ではないか思う。現地で起こっていることについて、なんら解決法を思いつかないわたしは、冷淡な人間であろうか。想像力の弱い人間であろうか。

しかしわたしはなにより危険を嫌悪する。銃口がわたしに向けられることを望まない。もし銃を持っていれば、先に撃ちたいとさえ思うだろう。

だが緊急の場面でなければ、なんとかしてその異文化と接点を持ちたいと思う。どこかに共通の概念はないだろうか。人間として同じような欲望はないだろうか、と。もしかするとこれは、すでにストックホルム・シンドロームの入口なのかもしれないが。

ところで911の実行者の一人は、その前夜、つまり明日は死ぬという日、一人で酒場にでかけ、また快楽にも耽っていたという。

これはアメリカから伝わってきたはなしなので、都合よく創作されたものなのかもしれない。死を前にした破戒。しかしわたしは、フィクションかもしれないこのはなしに、かすかな接点を感じる。明日の天国よりも、いまこの現世を貴んでいるという瞬間が、彼にもあったのではないか、と。

またわたしはいつも思う。原子力発電所を安全に運転するためにも、また廃炉にするためにも、いずれにせよ今まで以上にその専門家を、技術者を増やさなければならない。思想でも同じことである。イスラムと対話し、またイスラムを競うためには、その専門家を、増やさなければならない。

深い理解と多くの接点がなければ、正しいものであれ、また結果的にまちがったものであれ、解決法すら立てられないのである。

2015/11/14
若井 朝彦(書籍編集)

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2015年11月14日土曜日

「現代とカントル」考

「現代とカントル」考

今日のこと、調べごとがあって、二条城に出かけたのだった。そのあとお城の外に出て、東に歩くと、すぐのところに京都市立芸大のギャラリー(略称は『@KCUA』なのだそうだ)がある。表の案内をみて驚いた。カントルについてなにかやっている。
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展示のタイトルは『死の劇場 カントルへのオマージュ』。ポーランド人カントルは1915年生。1990年クラクフで亡くなっているのだが、その生誕100年を記念してとのことだ。

しかし驚いたといっても、タデウシュ カントルのことはわたしもよく知っているわけではない。帰宅してネットを叩いたが、ほとんど情報は出てこない。この企画をした@KCUAのページにすこしあるくらいだ。

わたしの記憶にあるのは、1980年代に来日して『死の教室』を公演。展示のパネルによるとこれは1982年の利賀村の演劇フェスティバルでのこと。東京公演もあった由だ。

その解説にはなかったが、これはたしかにNHKで放送された。わたしはそれを見た。収録は東京公演の方ではなかったかと思う。この印象が今もまったく消えていない。

不条理劇がだいたいそうであるように、その内容を言葉にするのはむつかしいが(簡単に言葉にできるようだったら不条理劇ではない)、喜劇が笑いによって、悲劇が涙によって何かを表すように、カントルはその『死の教室』で、わだかまりや、無気力によって何かを観客に突き付け、巻き込もうとしていたのではないだろうか。いまにしてそう思う。

死が無意味になることを嫌悪しているのかもしれなかったし、また逆に死の意味付けを拒絶しようとしていたのかもしれないが、いずれにせよテーマは死にまちがいなかった。

カントルは解釈を拒む藝術家である。きっと藝術という言葉も不興をさそったにちがいないが、それは別として、彼は演劇人であるとともに、絵も描き造形もした。しかし今回の展示は、カントルが残した何か、ではなく、むしろカントルに触発された作品がより多く並べられた。そのような作品たちが、現代の京都にもうひとつの『死の教室』を形造る、ということであろうか。

10月10日からはじまっていた展示を今日になってはじめて気がついたという次第で、突然の、ほとんどハプニングだったわけだが、これはカントルを追想するのには、まったくふさわしいことだったとも思う。

期日はあとすこしで11月15日まで。(日本を西洋に含めていうのだが)人生の意味はカントルの生きた時代よりもなお希薄になっているのではあるまいか。かつて『死の教室』を見た方、関心のある方にお知らせしたくなりとり急ぎ記事にしてみた。
(東京芸術劇場でも没後100年の記念企画があるようだが、こちらは名前を「カントール」としているくらいなので、京都の展示との関連はない模様)

ところで、暗いこの会場にはヴィデオ作品も多く出品されていたが、その一つの前に、暗い色の一人座りのソファーがあった。画像を凝視しようとそれに腰を降ろすと、係の人が静かにこちらに向かって歩いてきた。

「これは装置の一部ですから、お座りにならないでください」

現代アートでよく起こる、お約束の光景。

2015/11/12
若井 朝彦(書籍編集)

2015年11月7日土曜日

「サラダを見たらわかる」考

「サラダを見たらわかる」考

職人話を耳にするのが好きである。本人たちは右から左に、普段の通りに話しているつもりかもしれないが、その道に疎いわたしにしてみれば、あとあと役に立つ金言があったりして聞き逃せない。
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かなりむかしのことだが、年配のコックやベテランのウエイターの雑談にまぎれこんだことがある。話がふと、

 「やっぱりサラダやろな」
 「そやそや」

という展開になった。ご存知の方もあると思うが、きちんとしたレストラン、味のたしかなレストランかどうかは、サラダの扱いを見ればだいたい見当がつくというのである。

その場にいた経験豊富な人たちの言うことに、その時はいまひとつ理解が及ばなかったのだが、印象に残ったのでずっと忘れないでいた。日替りの安いランチなんかを食べるときに、小さい皿(厨房では「ぺティ皿」などと和製仏語? を使ったりする)で出てくるサラダを注意して見るようになったものである。

しばらくすると、これがかなり確度の高い言葉だったことが理解されてきた。そこで関係者に、すこしずつ、遠回しにたずねてみて、根拠を探ってみることにした。あんまり直接に質問すると、テレがあるのか教えてもらえなかったりするからだ。そんな意見を寄せ集めると、だいたいこんなことになる。

「一番の下っ端にさせる仕事がきちんとできているかどうか。丁寧であるよりも手早く盛らないとサマにならないので、その店の能率もわかる。肝腎なのは、手を抜きやすいところで手を抜いていないこと」

もちろん異論も多いだろうし、これがいつでもどこでも正しいとも思わないが、素人目に見て手を抜いてもわからないところでも手を抜かないというのは、きっと職人仕事の真髄なのだろう。しかしファーストフードのチェーン店だって、(利用者から見て)これは無関係な話ではないと思う。

これと似た話に「索引を使ってみたらわかる」がある。これはじつは、古書の値踏みの秘訣である。

古書には相場というものがある。現在では、もうそんなものは崩壊してしまったが、かつては相場というものがあったのである。

「○○年発行の漱石全集箱付月報付全巻揃美本」でならいくら、といった類ものである。古書の世界で生きてゆくのには、これを知らなければならなかったわけだ。

しかし古書店の主にしても、得意と不得意はある。不得意の分野の本の値付けをしなくてはならない、そんな時、たとえば索引をチェックする。著者も編集者も書店もしっかり力を入れた本は、(もし索引があれば)きちんとした索引になっているはずだ。

最悪なのは、巻末にページが余ったので(最近の製本事情では、ほとんどこういうことは起こらないが)、そのページの分だけ索引にしました、という本。こういう場合は、必要な項目が確実に欠落している。安心して引けない索引は、見栄えのためだけのもので、罪悪ですらある。ない方がはるかにマシ。

翻訳書の場合、原書にはあった索引が省略されていることがじつに多い。しかし丁寧に索引を作成している翻訳書もなくはない。稀には、原書よりも精確な索引を作る例すらある。こういう場合、翻訳者(たいてい大学の先生)は、その本が長く使われるはずだし、そうあるべきだ、と判断したとみてよいのである。索引まで手を抜いていない本は立派である、ということ。

索引がなければ目次の出来を確かめること。またノンブル(ページ番号のこと)の見やすさなどもチェック項目に入れてよいだろう。

さて今回もまたまた現実離れした話題になったが、世の中偽装や手抜きが横行していて、それも大規模であったり組織的であったりで、鬱々としてしまうことが多い。そこで毒消しになるような記憶をたどってみたのが上記。

しかし厨房ばなしはともかく、古書のはなしは、すでに歴史的になってしまっていて、京都でも、新刊書店も古書店も、一軒、また一軒と閉店が続いている。

 2015/11/05
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年11月1日日曜日

「マニュアルとその魂」考

「マニュアルとその魂」考

【マニュアル】は、ふつう「手順」「手引き」などに訳される。

接頭辞「manu-」はもちろん、manualそのものも、本来が「手」「手先」を意味していることから、これはなかなか座りのいい訳語だと思う。とはいえ、現在の日本で【マニュアル】といえば、収拾のつかないほど多くの意味を背負わされているのではないだろうか。

作業の効率確保を主とするマニュアル(「効率マニュアル」)も、品質の管理を主とするマニュアル(「品質マニュアル」)も、作業における危険の排除を主とするマニュアル(「危険排除マニュアル」)も、ひとくくりである。しかしたとえば「サラダ盛付」のマニュアルも、1999年に臨界(突破)事故を起こしたJCOの「ウラン燃料製造」のマニュアル(または事故を誘発した裏のマニュアル)も、同じマニュアルの類として一律に扱うのは、無理があるとわたしは思う。

大学の産業関係の学部学科では、このあたりの事情は、どうなっているのであろう。

マニュアルそのものが研究対象となっているという前提ではあるが、マニュアルの作成法、マニュアルの使用徹底のための指針、マニュアルの使用確認のための調査法、といった具合に、マニュアルをシステムとして捕捉できているのだろうか。

また、マニュアルに反した工程が発生する度合いをあらかじめ想定し、その分の安全の余剰を見込むなどといった設計思想は、存在したりするのだろうか(これは畑村洋太郎氏の『失敗学』にいくぶん近い発想かもしれない)。

いずれにせよ、どんなマニュアルであろうとも、使われて、そして守られてこそであろう。鍛え上げられたマニュアルがあるとすれば、遵守されつつ改良が続けられたものであろう。

しかしマニュアルは簡単に覆る。とくにノルマというものは、容易にマニュアルを突き崩してしまう。監視をすり抜け、検査をごまかす。それは「品質マニュアル」だけでなく「危険排除マニュアル」であっても同様だ。

「効率マニュアル」の遵守は、実施の確認だけでよいかもしれないし、統計だけで足りるかもしれない。「品質マニュアル」は実際に検品をすれば、その実態が分かる場合も多いだろう。だが「危険排除マニュアル」はそれだけでは不十分である。遵守不足の結果が出てしまった場合は、もう手遅れなのだから。

「危険排除マニュアル」ではマニュアル使用者の事前の理解が欠かせない。何のために守るのか、守らなければ何が起こるのか。これは先に触れたJCOの事故の教訓である。

あの事故の場合、現場が「核分裂の連鎖反応」「臨界(安全)設計」という言葉を知っていたかどうか。知らなくてもできる作業だったようだが、知らなくては安全が確保できない作業だったことは明らかだ。知った上で、それをマニュアルと結びつける必要があった。なにも物理学の講義をするまでもない。マニュアルと一緒に、「なぜこの工程にはこの制限があるのか」を説明しておけば済む程度のものだっただろう。論語の子路篇にも以下の通り。「教えずの民を以て戦うは、これを棄つという」

ことわざに「ほとけ作って、たましい入れず」があるようにどうやってマニュアルに命を込めるのか。今般のビルの基礎工事の偽装では、多くの人がその結果や不明瞭な説明に苦しんでいる。しかしその原因の調査から、将来なんらかの教訓が得られれば、まだしも救いがある。

 2015/10/31
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月26日月曜日

「室町時代の酒税」考

京都は発掘調査のさかんなところだが、ヒミコの頃とか、倭の五王関連のものなどはまず関係がない。平安京の遺跡は当然あるわけだが、室町、安土桃山、徳川あたりにも渋いものが出て、興味ひかれることがある。2008年の夏、15世紀の酒屋のきれいな跡が見つかったというニュースが流れた。
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場所は四条烏丸の裏だという。このケースもそうだったように、まとまりがあって明瞭な出土の場合、現地説明会がよく開かれる。だが時間に都合がつかなかったので、その数日後、仮囲い越しに現場を見てみた。よく分からないままに写真を撮ったのだが、説明会(遺跡発掘の場合でも略して「現説」なんていう)ではていねいな表示や解説があったそうだ。(現在はWEBでその詳細な報告書も読める)

地下に甕が30ほど整然と並んでいて、麹室らしい遺構もあったという。これが酒屋であった決め手なのだが、この酒甕がすべて内側から底にかけて突き割られている。この酒屋は襲われたのである。

下京の大きな店は金貸しもしていたから、土一揆に襲われたと考えられなくもない。だが一揆勢には、暗い地下の甕を丹念に割ってまわる動機はないはずだ。そうなると誰が襲ったかはほぼ推定が可能。北野社の麹座である。麹の密造の摘発だったのだ。実際は幕府が手を下したのかもしれないが、そうだとしたら、購入麹と蔵出しの酒量の不整合等を根拠に、麹座が告発したということだろう。

現在、北野天満宮の宝物殿では、長谷川等伯の大絵馬などを見ることができるのだが、そのほか、北野社に麹座を認許する足利将軍義満の書状、また酒屋が差入れた誓紙もよく展示されている。

当時の京都では、北野の麹座以外に麹を造ることも売ることもできなかった。だからすべての酒屋は麹座から麹を買っていた。買っていたというよりも買わされていたのである。そういうことになっている。麹座から北野社へ、北野社から将軍家へと、当時の「酒税」はそんな風に流れていったのである。

しかし酒を醸すことができる酒屋にしてみれば、もちろん麹だって扱えるし作れるのである。自前の麹で安く上げよう。しかしそれは経済的理由だけだったろうか。

麹は酒造りのだいじなだいじな入口である。「官許専売統一麹」ではなくて、なんとしても自分たちが手元で育てた麹が使いたかったのではあるまいか。四条烏丸から北野天神まで、歩いても一時間ほど。そんな近くで、密かに麹を育てていた当時の「杜氏」たちの命懸けの意地。

実際こののち、北野の麹座の力が衰えると、新しい酒が各地で生みだされるのである。

しかし酒、酒造、酒税には面白い性格があって、相互に奇妙な働きかけをするものだ。酒税が強すぎると無論のこといい酒はできない。規制の緩いジャンルに大勢がかたむいて、別種のものが生まれてくることもある。だが安定した条件にあるからといって品質が向上するとはかぎらない。

かつてウイスキーなど、輸入蒸留酒類の関税が大幅に引き下げられた時、日本の焼酎は太刀打ちできず、滅びるだろうとさえ言われた。廃業した蔵もすくなくなかったろうが、その後、焼酎そのものの品質は向上し、名声を勝ち得た。現在は清酒とともに政府の「国酒」扱いである。

その一方で、安く手に入るようになったナポレオンの風味は、総じて淡泊になったようである。

以上、中世史の専門家からしたら、あまりにも粗雑で大雑把で、怒りの鉄槌を下されかねない閑話(むだばなし)になった。現代日本とも、関係のあるようなないような、中途半端な内容だが、お酒と税金の複雑怪奇な関係は、きっとまだまだ続く。

 2015/10/25
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月21日水曜日

「京都市政における官尊民卑」考

「京都市政における官尊民卑」考

以前にもすこし触れたが、京都市では四条通りの車線を、片側2車線から1車線に減らす工事をしている。河原町通りを中心に東西数百メートルの範囲であるから、京都でも目抜き中の目抜きだ。これがもうすぐ完成だが、工事中のゴールデンウィークにもすでに大渋滞が起こって、週刊誌の格好のニュースの的になって全国に知れ渡った。
四条大橋東行き
この車線の減少の計画については、数年前に実証実験をしていたことを覚えている。新聞でそれを見て、

「実験してみたら、だれでもムリは判るわな」

「まさかそんな工事にはならんだろう」とひとりで勝手に安心していたのだが、誰かが交通工学という高邁なものを持ちだしてきて、「車線を減少させても渋滞は軽微にしか増加しない」という仰天の結論に導いた。立派なSTAP、ペテンである。

京都市街の市民の足は、市バスを中心とする路線バスが主で、たいがいの停留所から【四条河原町】と【京都駅】の両方に行けるように系統が設定されている。この設定については今は論評しないが、その集中の結果、たとえば四条大橋東行きの場合、平日夕方1時間あたり、ざっと57台のバスを1車線で通過させなければならない。

交通工学以前に土台無理だったのである。わたしはこれは、「工事のための発注」ではなくて、「発注のための工事」だったと思うのだが、関係者の申し開きをぜひ聞きたいものである。

これだけの大がかりな工事には、もちろん大義はあった。「歩くまち」の推進である。車道が減った分、歩道が拡がった。だがこれも間のぬけたおはなしで、拡幅部分にアーケードは伸長していない。雨の日など、その部分には歩行者はほとんどいない。かわいそうに道2本分が死んでいる。

たしかに四条は歩きやすくなるだろう。だが松原通りや高辻通りには、四条を迂回した配達の車が、毎日毎日あふれかえっている。

こんな矛盾は山のようにあって、あるときツイッターで「京都市は、言ってることと、やってることがちがうやないか」といったつぶやきを見たことがある。その通りだ。

しかしこのところの市政を見ていると、「官尊民卑」をいう言葉さえ浮かんできた。21世紀の京都でこんな言葉を使うようになるとは、まったくふしあわせなことである。

景観を理由に、強制力を伴う規制を民間にかけて看板狩りをする一方で、市バスの停留所には派手なカラーポスターを入れて景観を破壊している。

京都会館のネーミングライツ50年間を、たった50億円で売却してしまう。市議会に売却先の事前相談もなく、単年度でもなく、入札もなくである。その建て直しに際しては、景観政策の高さ規制は解除である。

与党が従順で、(これは昨日の投稿で述べたが)野党の共産党が市長選を決戦場にしてこなかった。大雑把にいってこれが原因であるが、現市長、門川大作氏が教育長をしていたころの京都市教育委員会は、みずからの活動を称える書籍が刊行されると、公費で買い上げては支援勢力に配布したものだ。出版の経緯までは知らないが、自社株の株価操縦と一体どこがちがうのか。こんな手法が市役所に入ったということだろうと思う。

2008年の1月、あるSNSに、わたしはこんなことを書いていた。

京都市をあたためる

京都では、自民公明民主共産の四大勢力が拮抗して硬い票を集める。共産党系は独自候補、公明は有力候補の推薦に回るのが決定していた市長選。となれば、残る唯一の問題は、下野に怯える自民と民主がどう組むのかだけだった。

毎度毎度の、テクニックだけの冷めた選挙はもうたくさん、と思つていたところへ無所属20代男性出馬のニュースが入った。どうか燃える選挙にしよう。せめて京都をあたためよう。

2008/01/07
民主党の状況は、当時と現在とでは全然ちがうが、このわたしの7年前の考えは、今もほとんど同じ。

 2015/10/20
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月20日火曜日

「日本共産党とともに生きがいある人生を」考

京都、とりわけ京都市街は日本共産党(以下「共産党」と略する場合あり。この稿には中国共産党やロシアの共産党のおはなしは出てこない)の強い地域である。町のポスターでは、自民党を優にしのぎ、公明党をもまだ上まわる。
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枚数の多いのは候補者のポスターだが、政策スローガンだけのものも種類があり、その中からご自身の意見と同じものを慎重に掲げている、といった家も多い。

あるとき見かけたのが

「日本共産党とともに生きがいある人生を」

のポスター。愕然としたものである。宮本議長の演説風景に言葉が重ねてあったはずだから、かなりむかしのこと。そんな古い記憶なので、字句が若干ちがうかもしれない。しかし検索をかけると、このキャッチはまだ現役で使用中である。先見の明というべきであろう。

その後、社会党、民社党は国会、地方議会において消滅したが、共産党はおおむね同規模で頑張っている。一見おだやかな感じのスローガンだが、この大胆な、かつ密やかな路線転換がなかったとしたら、今日、日本共産党は日本共産党として存在しただろうか。大いに怪しいと思う。

こうして日本共産党は、「起て!飢えたるものよ」(インターナショナル)や「奪いさられし生産を 正義の手もて取り返せ」(聞け万国の労働者)からはさらに距離を置き、政党活動の趣味化をはじめたと言えるわけだが、このところその傾向はさらに著しい。近年のポスターに見える

「命の平等」

にしても

「 京都から 憲法守る 」

にしても

「 アメリカ 言いなり もうやめよう 」

にしても、内容にはピンとこないものがある。趣向を同じくする支持者にとっては気持ちよく一票を投じられるかもしれないが、この命の平等とは、範囲あってのことであろうか、それとも無範囲のことなのであろうか。経済のグローバル化をどう評価しているのであろう。西ヨーロッパに殺到する難民(移民)問題など、見解を聞いてみたいものである。

これまた古いはなしではあるが、京都の共産党は、蜷川京都府知事を長きにわたって応援し(ただし一時断絶あり)、蜷川虎三から多くを学んだはずだが、蜷川のスローガンはまだ明瞭であった。「住民の命と暮らしを守る」であり「憲法を暮らしに生かそう」である。イデオロギーのカタマリみたいに揶揄された虎さんであったが、施策は、生活中心の地味なものが多かった。

そのころの京都共産党には与党病があったほどである。現在は野党病であろうか、実務的な商品はなかなか見られない。来年の市長選でも、「戦争法反対」で押し出すそうだ。投票日が2月7日と決まったこともあって新手のポスターが貼り出されはじめた。

「 子どもは みんな未来 いま憲法市長 」

分かるとか、分からないとか、そんな段階は越えている。支持者の人気ワードを順にならべてみました、なのかもしれない。こんな表現になるについては、公選法とのからみもあってのことなのだろうが、同じ調子で選挙公報を作られた日には、わたしは暗号解読器を要求したい。

共産党にとって京都市長選は、絶対に勝てないという選挙ではない。市長選を国政選挙の準備体操にしてもらっては困るのだ。市長選は市長選として、明瞭に勝つ意志のある、市政の舵取りの可能なプロフェッショナルな候補で、きちんと市長選の土俵に上がって欲しいものなのだが。

ところで1970年代、共産党がいわゆる革新連合政権を構想していたころでも、防衛政策を問われると、

「自衛隊は違憲だが、将来、国民的合意を得て防衛組織を持つ」

という責任ある見解がすらっと出てきたものだ。上田耕一郎氏の明晰な声を思い出す。これは憲法改正を意味していたのであろう。

当時の共産党と、現在の共産党では綱領がちがう。だからこの古い見解はもう使われなくなっていた。ところが近日、志位委員長から「日米安保維持」「自衛隊活用」の発言が出た。

だがこれは、かつての見解の延長線上にあるものとはいえまい。現在の綱領ともあきらかに一致しない。志位氏による一種の綱領の「解釈修正」。近年や現在のポスターに見えるスローガンとも齟齬が生じている。

綱領については党内の解決すればすむことであり、またこの修正は大方の賛同を得るだろう。けれども最大の問題はこれまでの経緯と、その言葉遣いだ。

「日本に対する急迫・不正の主権侵害など、必要にせまられた場合には、この法律にもとづいて自衛隊を活用することは当然のことです」

わたしは、「人民から敬意をはらわれない軍隊、また傭兵が、本心から人民のために闘うことはない」というのがマキャベッリの要諦だと心得ているの者だが、上記の発言を聞いて快く思った自衛隊員がいるとは、どうにも思われない。

 2015/10/19
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月18日日曜日

「ペテン師と好奇心と検索脳」考

「ペテン師と好奇心と検索脳」考

わたしの愛読書のひとつにカール・シファキス著『詐欺とペテンの大百科』(鶴田文訳・青土社・2001)がある。
自動チェス人形
古今東西、騙されてしまった人にはお気の毒だが、読んでいて興味深い。ペテン師というものは、人類の想像力の副作用のようなものではないかと思う。わたしも騙されたくはないが、一人のペテン師も生きられない国にはとても住めたものではないのである。

ベートーヴェンの伝記にはメルツェルという人物がかならず登場するが、このヨハン・ネポムク・メルツェル氏と深い関係にある

【自動チェス人形】

の項目がこの百科の中にはあった。これがやや値のはるこの本をわざわざ買う決め手になった。現在からすればこの項目の記述はすこし頼りないが、この翻訳が出た当時はもちろん、たしかに数年前まで、この件はネットの検索でも出てこなかったはずである。

メルツェル氏といえばメトロノームの発明者として日本では知られている。日本語のwikiも現在ほぼその扱いである。日本人はまだ騙されているようだ。地下のメルツェル氏も苦笑していることと思う。だが英語版、ドイツ語版wikiでは詳しい経歴が書いてある。情報落差があるわけだ。(日本語の音楽辞典でも、メトロノームは先行発明の模倣ということで決着がついている)

メルツェル氏の手段もこの情報落差だった。ウィーンのベートーヴェンの大ヒット作品をミュンヘンに勝手に持ちだし、さらにロンドンを狙う。オランダで目にした発明品(つまりメトロノームの原型)をフランスで商品化する。そうやってヨーロッパを駆けまわった。しかしキューバからの帰路、失意の内に没。追っかけてくる情報を振り切ったり、追いつかれたりの生涯だったようだ。

それでもメルツェル氏には人の好奇心をくすぐる特技があった。裁判沙汰になったベートーヴェンとも和解した上に事業の手伝いまでしてもらっている。

当時の世界は情報に飢えていた。テクニックもファンタジーに満ちていた。だから18世紀や19世紀のペテン師の経歴は読んでいて愉しいのであろう。

もちろん現在の世界も情報には飢えている。万人が情報上位に立とうと必死である。ただ、どんな情報が欲しいかはあらかじめ決めてかかっている。わたしにはそういう風に見える。奇想天外な情報は無視する傾向が強いのではなかろうか。総じて無駄を楽しむ余裕がない。

現代のペテンが、そのころと比べて面白くないのは、このあたりに原因があるように思う。騙す方も騙される方も、効率主義が強すぎる。珍しいものに出会って欲が出るのではなくて、たいてい欲しいものはあらかじめ決まっている。

知識欲、好奇心も似たようなもので、知って楽しむのはネットの検索機能でいともたやすくなったが、目的の検索の範囲外には関心があまり広がっていない。ネットサーフィンという言葉もすこし古くなってしまったようだ。行って帰ってそれでおしまい。特定のキーワードには、敵味方の区別もつけずに過剰に反応する人がじつに多いが。

しかし東芝の経理、フォルクスワーゲンの排ガス性能、STAP細胞の機能、東洋ゴム、旭化成建材etc、よくもまあ、そんな大企業や大組織でそんなことがまかり通ったものだとびっくりはする。むかしとはスケールが違う。ちいさな国なら吹き飛びそうなものまである。

上記の企業など、ペテンは内々で遂行されて、その目的もありきたりで陳腐なものが多いが、規模が大きいほど、歯止めが利かなくなっているのではあるまいか。示唆と無言の迎合。プロのペテン師がいるからペテンが起こるのではなくて、要望に合わせて平凡な人がペテン師になる。因果関係の逆転。この傾向でいうと、政府要人の「ブレーン」が、極度に単純化した目的しか持たない「首脳」に、何を吹き込んでいるかわかったものではない。それどころか財政など、すすんで騙されているように見えることさえ多い。

 2015/10/17
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月16日金曜日

「縦書きと横書きと新聞」考

「縦書きと横書きと新聞」考

きょうからはじまる新聞週間に事寄せて、新聞の紙面の話題をすこし。ただし記事内容ではなくて、形式としての紙面、もしかすると日本人の美意識とも関係する、藝術的な割付けなどについて。
龍安寺
『都林泉名勝図会』に見える龍安寺石庭
石川九楊氏が、横書きの日本文を糾弾したのは10年ほどむかしのことと記憶している。それからだいぶ時間が経った。しかし縦書きと横書きを対比した論考や研究が増えたり進んだりしたとは聞かない。

「これは、いつもは横書きで書いている人が、急に縦に書いた文章である」

といった鑑定ができるレベルまで到達すれば面白いと思っていたのだが、これが可能になるのは、はるかに遠い将来のことのようである。

石川氏の提言が利いているからではないだろうが、日刊主要新聞は、2015年現在、軒並み縦書きを維持している(サンケイ・エクスプレスはここでは主要紙に含めない)。

以下、読みやすいように、横をヨコ、縦をタテとしてはなしをすすめるが、印刷整版の用語では、この「タテ書き」という言葉はおかしく、正しくは「タテ組み」というべきなのだろう。だが、そうは言い切れない事情もある。

本文はたしかにタテ組みだが、「大見出し」「見出し」は縦横無尽。写真の説明、数表はもちろんヨコ、要約やポイントの指摘もヨコが多い。囲みの短信やコラムは、場合によってはヨコ組み。伝統の技の集積で、図像効果に満ちている。単純な「タテ組み」だと言えない理由は以上による。

しかしこの伝統の紙面も、もうそろそろヨコ組みにしてはいかがでしょう、というのが本稿の主旨だ。

ところで人間というものは、入力と出力とでは、いささか勝手がちがうようにできている。書くのが「ヨコ」の人だからといって、読むのもヨコ組みが好きだとは限らない。

ただし、手書きで「タテ」に書く人は、読むのもタテ組みが好きだという傾向は強いかもしれない。現在、PCを使うに際して、タテ入力が好き、という人はまったく少ないだろうが、漢字仮名交じり文の場合、読むことに関しては、たしかにタテが読みよいとはいえるだろう。

だがヨコならではの効能というものもある。タテで書いたものでも、いったんヨコに組みなおして見ると、展開の荒っぽいところや、誤植を見つけやすい。現在のPC環境ではこの組み直しは瞬時でできて便利。ヨコ書きの方が冷静に読めるとわたしなどは思う。

ただ、「タテ」がなめらかに読めるとしても、それは「数量的」な表現がない場合に限られる。数字数値が出てくると、圧倒的にヨコの勝ちである。これはどうしようもない。最近は新聞の本文のタテ書きでも、数字に洋数字をつかうようになったが、その数字も、2ケタまでは半角のヨコ並び、それ以上は全角のタテ並び、と複雑であること極まりない。かえってタテ書きの欠点を露わにしてしまった感がある。

数字が洋数字に統一されても、まだまだ各紙とも、ネット配信のストレートな「ヨコ」の数字と、紙面の「変体タテ」の数字とでは、ちがう変換でやっているわけだ。やはりこれは馬鹿らしい無駄だと言えるだろう。

それに加えて、紙面の構成、整理、割付けの問題がある。

先にもすこし触れたように、紙面の構成の入り組んでいること、あたかも山水画の如しで、「図像効果」に満ち満ちている。全国紙の一面は、どこにでもあるフォントを使いながらも、ここまで感覚操作ができるのだという、いわば藝術的な見本である。

したがってネット版のプレーンな、すっぴんな記事から受ける印象と、舞台装置の調った紙面版から受ける印象の差異は、小さくない。紙面版では「整理」の段階で、(写真とともに)最後の「角度」をつけているわけだ。現場の記者は、この現象について、どう考えているのだろう。やっぱり紙面が一番、ネットは栄養素だけで無味、と思って記事を書いているのであろうか。

さききほどは「山水」という言葉を使ったが、右上の題字から記事を経てやがて下段の広告に至る道程は、まさに須弥山から大海に至る禅の庭の、水の流れの曲折をも思わせる。またこの右上から左下への動きは、歌舞伎の幕切れに、下手花道を駆け抜ける名題の役者さながらである。もしかすると、われわれは、新聞の紙面もそのように認識しているのかもしれない。こうなってくると、タテ書きかヨコ書きか、といった範疇ではすまない。日本文化そのものの問題なのかもしれない。

しかし新聞各社、いろいろと顔を洗って、化粧を落として心機一転、出直したらどうだろうかということだ。見出し、要約、本文すべてヨコ組みにして、取材力と平明な記事という、基本からやり直してみてはどうだろうか。

たとえ日刊の宅配の新聞は滅びても、ジャーナリズムはなくならないし、ジャーナリストも同様だ。全国日刊紙は、あたらしい形式の媒体へのよき模範、道筋を示すという、かっこいい役割は、いまからでも果たせなくもない。

じつはこの稿の本当のねらいはというと、割付けに限らず新聞「抜駆けのすすめ」ということである。最初に横組みにした全国紙は、半年間くらいは、他の新聞に対して優位に立てるかもしれない。悲しいかな大した優位ではないかもしれないし、横並びの「新聞仲間」からは外されてしまうかもしれないが。

 2015/10/15
 若井 朝彦(書籍編集)

ところで以下一言ご挨拶申し上げます。
今月よりアゴラに執筆させていただくこととなりました。
まことにありがたいことと、あつくお礼申し上げます。
つきましては自己紹介をまとめております。
皆さまには今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
若 井 拝 

わかい ともひこ 1960年生。在京都。編集といっても京都を離れずに、まして日本近世文化、ドイツ音楽史あたりだけでやっていけるはずもなく、並行して豊富な職歴を有す。発掘調査、地図製作、観光業、手工藝ほか。そんな関わりもあって日本ソムリエ協会会員。学会には属さないが京都の私大の研究所に籍があり、たまに執筆、まれに出講。俳諧師として号は立立など多数。ときおり歌仙を巻いている。出版造本では壽岳文章博士の孫弟子であることを自認。

2015年10月13日火曜日

「大阪都構想と防災」考

「大阪都構想と防災」考

大阪の選挙が近づいてきた。なんだかんだあっても、まだまだ橋下維新の動向、これに最初に目が行く。市長選は新人戦になる見込みだが、知事選は松井知事が再出馬である。そして一度は破れた「大阪都」を公約に入れるとのこと。(橋下維新は以下「維新」と略)
大阪
吉田初三郎(1884-1955)の大阪鳥瞰図より
今年5月の大阪市の住民投票はなんだったんだ、という声もあるが、維新もやっと政党らしくなった、というのがわたしの感想。

橋下氏が知事になった当初は、念仏のように道州制を唱えていたのだが、それが関西広域連合のクラブ活動に変わり、脱原発の寄り道を経て「大阪都」構想。かつてのブレーン側からは、アイデアの食い散らしだ、偏食だ、との非難は強いが、負けてなお再度「大阪都」に固執するのは、評価に値する。

「大阪都以外、他には何もないからじゃないか!」

と批判する老舗政党だって、何かがあるというわけでもない。

わたしといえば維新のことは嫌いでも「大阪都」は嫌いではない(ただしネーミングはケッタイだと思うが)。住民サービスの(直接)自治体は小さくし、国と交渉する(権限)自治体は大きく一本化する、ということだと、大づかみに諒解しているからだ。

それにしても大阪市は大きい。20以上の区があるのだが、全部すらすら言えて、メモ用紙に略図が描けるひとがどれだけいるだろう。市長はさすがにできるだろう。そうあってほしいと思う。しかし市議あたりになると、怪しいのではなかろうか。

市議が得意なのは、自分の選挙地盤である。この土地勘だったら余人の追従を許さない。許すようだったら選挙に勝てっこない。

一方、政令市の市長はそんな細かいことを知っているわけがない。千代田区の地理の方が得意かもしれない。しかし知事と二人で永田町に精通していても、仕方がないではないか。

さて本日のお題は防災である。災害対策基本法では、避難勧告や避難指示は、おおむね市町村長がすることになっている。東京23区の場合は区長が担う。大阪市が分解されて区になった場合も同様だったろう。防災権限は細分化されることになったのである。

市町村合併が極度に進行して、自治体の首長がとんでもなく広い範囲を受け持たなければならなくなった昨今、逆行するようだが、この細分化は防災にも有利である。

発するのは首長であっても、実際に勧告や指示を決めるのは首長ではないだろう。気象庁や国土庁、府県の部局とも連絡をとる役所役場の担当者であろうかと思う。しかし首長が該当する場所を知っているかどうかは重要である。ささいなことでも担当者のコンディションを左右しかねない。

担当者が事前であれ事後であれ説明を上げるとき、首長に対して、地名、地形の説明からはじめなければならない場合と、それが省略可能な場合を比べれば、その負担の差は明らかだ。

災害の警告に空振りはつきものである。しかし見逃しはもっと怖い。この加減がむつかしい。そのあたりはやはり首長の人柄や、地元への愛着にも関わってくるのではなかろうか。

ところでフランスの県の単位はとても小さい。その昔の

「領主が、その日の内に馬で行って戻れる範囲」

がそのまま受け継がれていると聞いたことがあるが、本当かどうかは知らない。しかし当たらずといえども遠からず。だいたいその程度の大きさである。知事は仕事さえすれば不在地主でもいいくらいだが、防災にはこのフランスの県のような(または市議のような)発想が欲しい。

2015/10/12
若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月11日日曜日

「日中友好70年」考

「日中友好70年」考

ノーベル賞週間も一段落して、今日の大きいニュースと言えば、ユネスコの記憶遺産の件。日本から(京都府から)は『東寺百合文書』、『舞鶴の引揚資料』の新規登録が決まった。

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(2015年10月10日京都新聞夕刊の表情より)
『東寺百合文書』は、ユネスコに登録されようがされまいが、京都府も国も、従来のとおり、保存と活用には熱心であり続けることだろう。特に爆発的に喜ぶことはない。

しかし『舞鶴の引揚資料』は、この登録が、今後の保存と公開のために有利に働くだろうと思う。わたしにしても親の代、またその親の代に引揚者は多く、実際にソ連から舞鶴に引き上げた者も二人おり、感慨深いものがある。(私事ながら、来年の春には、親族と舞鶴に行く予定をしている)

その一方で新聞の一面は、『南京大虐殺資料』の同時登録も伝えている。日本全体にとっては、この問題の方がはるかに大きい。

ところでわたしにとって中国というと、古い話で恐縮だが、まず思い出すのは北京放送である。もうタモリ氏もそのパスティーシュはしなくなったが、1970年前後、夜にラジオのチューニングダイアルを回すと、

「ニッポンの同志のみなさん、友人のみなさん、こちらは北京放送局です」

が飛びこんできたものだ。国内のニュースとは全然タネがちがうので、新鮮に感じて聞き入ったものだ。わたしの頭には、そのころや、そのあとの日中交渉の単語とフレーズが、まだいくらか残っている。

 ・・・ アルバニア形決議案
 ・・・ 添了麻煩 = ご迷惑
 ・・・ 光華寮裁判
 ・・・ 兵馬俑損壊
 ・・・ 今の世代は智恵が足りない
 ・・・ 水を飲むときは
 ・・・ 戦略的互恵関係

1980年ごろ、準招待の視察団で中国に行った人が、帰りの飛行機で日本語版『人民中国』誌の定期購読を申し込んだ。わたしのところにも、その読了分が遅れてやってきた。

共産党肝入りの広報誌とはいえ、手に取るとけっこうおもしろかった。それよりも、中国で年々物事が進んでいる様子に興味が湧いたものだ。そのかなりが膨らんだ記事だったにしても。

1989年の一件のあと、『人民中国』もその波をかぶらないわけにはゆかなかった。しかし数ヶ月後に手にした号の内容は、予想をはるかに越える沈降だった。どこをひらいてもお通夜のような暗さである。面白さも新しさもなくなった。だからそれからはもう読んでいないし、発行がまだ続いているかどうかも知らない。

おそらくはその時に職を解かれた編集者たちは、その後どうなったのだろうか。心配してもはじまらないが。

こんな小さな広報誌の顛末とは違って、中国本体もアジア全体も、このあともっと大きく変化し、変化しつづけた。

かつての日本のように内陸鉄道建設と移民を積極的に進めたり、かつてのドイツのようにクリスタルナハトをしたり、かつてのアメリカのように武力的空白の海洋に基地を作ったり、かつての先進工業国のように、水も空気も食品も汚染まみれになったり。そんな国もあらわれたのである。上品に書いたが、実態はこんなものではなかったろう。

日本の歴史を、また歴史一般を直視して有益なのは、日本ではなくて、別の国ではあるまいか。かつて北京放送局が指弾していた帝国主義は今どこにいるのだろうか。

けれども、かつての中国が、敵国と、敵国の人民とを分けて考えたように、われわれも独裁党と独裁下の人民とを分けて考えておくべきだ。

われわれは、近隣の今の歴史を、将来の近隣人民のために残すことはできるだろう。

日本における『東寺百合文書』と同様、中華人民共和国も今回のユネスコの登録とは関係なく『南京大虐殺資料』は保存も、公開も、活用も続けるだろう。それはそれで任せておいてもよい。しかし現代史、同時代史の領域で日本が遅れをとることは、絶対にあってはならない。

日本でこそ正しいアジアの姿が報道されている、とアジア人民に諒解してもらえるようになれば、それはアジア人民にとってなんとも素晴らしいことだ。ぜひとも感謝されるようにならなければならない。

独裁下の人民にとって、取材も発表も困難である。だが日本人にとっては、すくなくとも発表はそうではない。歴史を綴るということは、だれにとっても容易なことではないが、近隣の状況を分析し、記録に残すということは日本の国益に直結する事柄でもある。

そしてこういう姿勢は、たとえば日中友好の、次の70年の礎にもかならずなるのである。

「中国の同志のみなさん、友人のみなさん」

 2015/10/10
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月10日土曜日

「祇園の評判」考

「祇園の評判」考

もう先月のことになるが、松井今朝子さんが京都に帰られて講演があり、とてもいいお話がうかがえた。タイトルは「祇園町に育って」。

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松井さんが祇園に住んでおられたのは、小学生から高校生までの間で、おおむね1960年代のこと。その後早稲田大学にすすまれて、以後ずっと東京を中心とした生活をされている。ご実家は祇園の割烹懐石の名店。こういったことはここに記すまでもなく、よく知られていることかと思う。

祇園町には面白いはなしがたくさんつまっているはずだが、かといってそんなはなしがそのままストレートにできるわけもない。しかしこの日の会場は、聞いている方もほとんどが京都の住人なので、微妙なあたりは、輪郭を話せばそれなりに伝わる、といった具合だった。

ところでわたしの印象に強く残ったのは、締めくくりの方にさらっと話された

「両親は祇園というところでどれだけ神経をつかってきたことか。その日が過ごせればそれでいい。何も残さなかったし、子供に店を継がせようとは少しも思わなかった」

これには心中ふかく頷くものがあった。京都はいろいろとうるさいところであるとは思うのだが、その中でも祇園はトップクラスだろう。

店の評判を落としては大変だが、しかしなめられては絶対にいかん。シンプルに言えばこういうことだが、それがお客さんとの関係にまず言え、お客さんを連れてくる芸妓さんにも言え、またみずからの店の板場、その板場の横のつながりの評判から、なにからなにまで気が抜けない町なのだ。大儲けなんかしているヒマはない。

安い料理を出せば、なにか無理があるのではないかとうわさになり、値段を上げれば上げたでいぶかしがられる。目新しい食材を使えばあてこすられ、献立が変わらなければマンネリ扱いだ。

垣間見て、プロ同士の目がまず鋭い。これがこの町の洗練の原動力であることはたしかだ。

ところで代替わりをされた現在のお店のHPにも、このような言葉が見えている。

「淡路島の鯛を始めとする鮮魚、野菜、調味料に至るまで、創業当初から変わらない仕入先との信頼関係によって祇園川上の味は保たれています」

きちんとした店が仕入先をかえるとなると、これは大きな評判になる。「なんかあったんとちゃうか?」と、どちらにとってもメリットはない。上記のような表現は、遠回しの感謝のあらわれでもあろうけど、しかしその一方で、「どうかわれわれの顔をつぶさないでもらいたい。われわれも恥をかかせたりはしない」、そういうことも併せて言っているのだろうと思う。表面上の原価と効率だけでは計れない部分である。

世界が平板化し、つられて日本も平板化する現在だが、このような厳しさがあり、しかしどこかお人よしのところがひょこっと残っていたりする祇園という町は、かんじがらめだけではない。このような批評精神にも似たうるささが生きている限りは、なかなか創造的な場所である。

かように祇園町は、特異に分化したところである。平たくいってガラパゴス化しているわけだが、このガラパゴス化も突き詰めて極めると面白いことが起こる。

この講演では話されなかったけれど、松井さんのお父さんは、スティーブ・ジョブズ氏と親交があった。当の松井今朝子さんご自身も、父の起こしたお店を託す方を、家族相談の上で決めた後に、こう言って説得されたそうだ。

「あなたは、日本中、どこに店を出してもやっていける方だけど、祇園なら世界を相手にできる」

 2015/10/9
 若井 朝彦(書籍編集)


編集部より:今回から京都在住の書籍編集者、若井朝彦さんが執筆陣に加わりました。東京目線とは一味もふた味も違う、上方文化の香り漂うエントリーにご期待ください。

2015年9月2日水曜日

分 野 別 索 引


・ 京 都  -----------------

2015/10/09
「祇園の評判」考

2015/11/19
「街ネコ」考

2016年03月17日
「世界遺産の遺産くいつぶし」考

2016年12月17日

・ 藝 術  -----------------

2015/07/27
http://agora-web.jp/archives/1649764.html
「世界のアンドー」考

2015/11/12
「現代とカントル」考

2016年05月01日

2016年11月17日

2017年01月17日
2017年06月08日


・ 思 想  -----------------

2105/10/17
「ペテン師と好奇心と検索脳」考

2015/11/14
「異文化との接点」考

2015/11/28
「林達夫と認知科学」考

2016年04月16日

2016年05月24日
2017年01月11日


・ 学 術  -----------------

2015/08/12
http://agora-web.jp/archives/1651291.html
「2015文学部的状況」考

2017年01月22日

2017年01月26日
2017年06月11日


・ 情 報  -----------------

2015/10/15
「縦書きと横書きと新聞」考

2016/02/21
「論評における非名指し」考

2016/03/06
「〇〇新書」考

2016年08月14日
 

・ 職 業  -----------------

2015/08/02
http://agora-web.jp/archives/1650277.html
「官製観光」考

2015/10/25
「室町時代の酒税」考

2015/10/31
「マニュアルとその魂」考

2015/11/05
「サラダを見たらわかる」考

2016年07月10日


・ 自 治   -----------------

2015/10/12
「大阪都構想と防災」考

2015/10/20
「京都市政における官尊民卑」考

2015/12/05
「地方議会への陳情」考

2016年03月27日
2016年06月25日


・ 政 治   -----------------

2015/10/10
「日中友好70年」考

2015/10/19
「日本共産党とともに生きがいある人生を」考

2015/12/20
「中央省庁の移転」考

2016/01/21
「制限選挙」考

2016年04月23日


・ 世 界   -----------------

2016/01/08
「パンデミック」考

2016/01/29
「チリワイン」考

2016年06月06日


目 次 (若井 記事)

2015年9月1日火曜日

投 稿 順 目 次

2017年07月01日

2017年06月24日

2017年06月18日

2017年06月12日

2017年06月11日

2017年06月08日

2017年05月21日

2017年04月11日
 
2017年04月10日
 
2017年04月09日
 
2017年04月08日

2017年03月20日

2017年03月16日

2017年02月23日

2017年01月26日

2017年01月22日

2017年01月17日

2017年01月11日

2017年01月01日

2016年12月27日

2016年12月17日

2016年12月12日

2016年11月17日

2016年10月16日

2016年09月30日

2016年09月20日

2016年09月17日

2016年09月11日

2016年08月14日

2016年08月09日

2016年08月01日

2016年07月19日

2016年07月14日

2016年07月10日

2016年06月25日

2016年06月06日

2016年05月24日

2016年05月01日

2016年04月23日

2016年04月16日

2016年03月27日

2016年03月17日
「世界遺産の遺産くいつぶし」考

2016/03/06
「〇〇新書」考

2016/02/21
「論評における非名指し」考

2016/01/29
「チリワイン」考

2016/01/21
「制限選挙」考

2016/01/08
「パンデミック」考

2015/12/20
「中央省庁の移転」考

2015/12/05
「地方議会への陳情」考

2015/11/28
「林達夫と認知科学」考

2015/11/19
「街ネコ」考

2015/11/14
「異文化との接点」考

2015/11/12
「現代とカントル」考

2015/11/05
「サラダを見たらわかる」考

2015/10/31
「マニュアルとその魂」考

2015/10/25
「室町時代の酒税」考

2015/10/20
「京都市政における官尊民卑」考

2015/10/19
「日本共産党とともに生きがいある人生を」考

2105/10/17
「ペテン師と好奇心と検索脳」考

2015/10/15
「縦書きと横書きと新聞」考

2015/10/12
「大阪都構想と防災」考

2015/10/10
「日中友好70年」考

2015/10/09
「祇園の評判」考

2015/08/12
http://agora-web.jp/archives/1651291.html
「2015文学部的状況」考

2015/08/02
http://agora-web.jp/archives/1650277.html
「官製観光」考

2015/07/27
http://agora-web.jp/archives/1649764.html
「世界のアンドー」考


索 引 (若井 記事)

2015年8月8日土曜日

「2015文学部的状況」考

「2015文学部的状況」考

2015年8月1日の京都新聞『ニュースを読み解く』欄に「人文系学問の未来」と題して二人のインタヴューが載っていた。ひとりは(京都大学研究科長・文学部長)川添信介氏、もうひとりは(国際日本文化研究センター所長)小松和彦氏。

博物館の所蔵品のようになってしまった人文系学問≒大学文学部については、もはや関心にも及ばないという向きもあるだろうが、文学部はともかく「文学」一般は大切である。記事を出発点に、すこし考えてみよう。

ところでこのインタヴュー欄は、いつもは、護憲派:改憲派であるとか、規制緩和:護送船団とか、TPP:JA?とか、国債増発:消費税増税とか、紙上の「二家争鳴」が狙いのはずなのだが、今回は、両者の主張を逆にしても気がつかないほどであった。

「しかし、人文学が人類全体にとって必要という前提に立てば、学問を継承する人材を育てるという役割を放棄するわけにはいかない」(川添氏)

「極東にあり、西から来た文化が蓄積した日本には、自分たちでも気づかないような世界に影響を与える文化がたくさんある。・・・埋もれている文化を掘り起こして学問としての意義を発信する伝道師的な研究者を育てていく必要がある」(小松氏)

構成されたインタヴュー記事の中から「山」の部分を拾って引用したつもりだが、それでもこの主張にはするどさがない。二人の相乗効果どころか、相和効果もかなりあやしい。両者とも「人文学が人類全体にとって必要という前提」や「日本には世界に影響を与える文化がたくさんある」ことを具体的にあきらかにして、あまねく知らしめれば、予算がどうの、制度がどうの、最近の学生がどうの、という繰り言に終始する必要などなく、問題はほぼ解決である。これは過大な要求であるかもしれないが、こういう表現ができるということが文学なのであって、両者の肩書には、そういう目標くらいは含まれているはずだ、とわたしは思うものだ。

けれども大学の惨状はともかく、「人文学の意義」や「日本文化の世界性」について発信する人は、減ってはいない。大学にいないだけである。むしろ文学一般への欲求は高まっているとみる。

日本国内にいるだけにせよ、イスラム圏や中国の人々との関係は今後も増えて深まることだろう。その場その場で我々は適切な対応を迫られている。

また、個人がなにかに帰属する、といった意識は、ますます希薄になることだろう。それにともなって死生観も変化しないわけにはゆかない。

誇りや自尊心が、快適や安逸にどんどんすり替わってゆく。怒りの矛先が、無関係な人に向けられたり、また過度に抽象的になりはしていないだろうか。

こういったことを考えるのが、広義の文学であるはずなのだ。

そして研究室の狭義の文学もまた解放されつつある。知見はわたしの守備範囲に限ってであるが、この1、2年のWEB上の古文献の充実はすごい。しかしこれもまだまだ序の口で、大学が文科省傘下である以上は、年々一層有益性を迫られることはたしかで、所有の蔵書文書のWEB公開も追いたてられてなお加速することだろう。

京都にある国宝文書、

 御堂関白記(陽明文庫)
 東寺百合文書(京都府総合資料館)

のWEB公開も時間の問題だとわたしは思う。このふたつがWEBに上がれば「明月記」の主要部もきっとつづくだろう。未公開の文献は、国宝といえども見捨てられてしまうだろうからだ。肩書がなくても、だれもが文献にかなり接近することができるようになる。どうしたって大学の文科の空洞化はとまらない。

ところでいささか意地悪だが、相当の地位にある大学の先生には、ちょっと質問してみたいことがある。

「あなたは大学を離れて無職無給になっても、望まれれば弟子を指導することができますか。そして名誉教授のあなたに弟子が来ると思いますか」

殉教の覚悟を訊ねているのではない。人文学の価値をどこまで信じているかが知りたいのである。

http://agora-web.jp/archives/1651291.html
agora投稿分2015/08/03

2015年8月2日日曜日

「官製観光」考

「官製観光」考

官製観光といっても、このおはなしのサイズは大きくない。観光庁への言及もしない。ここ京都市に限ってのことである。

その京都市の観光客数は、ここ十数年ほぼ右肩上がりで、京都市の推計では年間観光客数は、4000万人から5000万人余に増加したことになっている。

ただしこの数値は、たとえば京都在住のわたしが清水寺駐車場に駐車しても、また東京から新幹線に乗車して京都駅に帰ってきても増加するたぐいのものなので、いわば指数である。しかし4千が5千になったというのは、実感を裏切っていない。混雑のシーズンでは、4が7に化けた気がするほどだ。

京都市はこの間、さまざまな観光施策を打ったが、結論からいうと、「口パク効果」以上のものは、ほどんどなかった。PAにあわせて施策の歌を歌っているふりをしているだけであって、増加の主因は他にある(「施策なしの場合」という対照群を示せないのが残念だが、リニア奈良駅が開業した時には、すべての説明がつくかもしれない)。

わたしの考えるところその主なものはふたつある。ひとつは鉄道会社の宣伝であり、もうひとつは個々人の勝手な発見である。前者の事情はよく知られているので、ここで説明が必要なのは後者の「個々人」の場合であろう。

ひとつ例を挙げれば、右肩上がりの発端となった1999年から2000年の魔界ブーム。すくなくとも市役所の中にはこのブームの音頭取りはいなかった。ネットの力がまだまだの頃だったが、個々人が情報を集めて京都へ来た。翌2001年の映画「陰陽師」はそれを後押ししたとはいえ、牽引したわけではない。

また最近ではフシミイナリである。魔界ブームは日本人発だったが、これは外国人発。ツイッターやらフェイスブックやらで広まったらしいが、その足跡追跡はもう不可能だろう。その結果、トリップアドバイザーでは年々順位を上げて、昨年2014年に日本国内1位を獲った。現在はそれを知った日本人が、ちょうちん買いに入った模様。

伏見稲荷は世界遺産ではない、まして官製観光の援助があったわけでもない。おいなりさんのHPも、日本語のものしかない。ネット勝手連がいかに強いかの好例である。

そして最近は、受け入れもまた個々人であることが増えた。これは言ってみれば「縁故観光」である。国外から日本に移り住んだ者が、親戚や知人、はたまた知人の知人を呼びこむ。レンタカーを借りて市内を案内し、ネットで確保しておいた宿に泊める。自己設定のパッケージとしてまとめて費用を請求するらしい。市役所はこんな動向をどこまで知っているのかしらん。

ともかく市役所=おいけ(普通、京都の者は河原町御池にある市役所のことを親愛の情を込めて「おいけ」と呼ぶ)の施策は利いていない。望むべくは「余計なことはしないでくれ」であろうか。それに今後いっそう望まれる富裕層へのアプローチにとって、5000万とかいう準天文学的数値は、むしろ邪魔にさえなる。

ちなみにだが、古い旅館やホテルを買い取って改築した富裕層向けのホテルは、京都に向けては一切の宣伝活動をしていない。「星のや」はともかく、鴨川の「リッツ」、嵐山の「スターウッド」のなんたるかを具体的に知る京都人はどのくらいいるだろうか。もちろんわたしも知らない(昔の名前の「嵐峡館」「ホテルフジタ」「嵐亭」なら、まだみんなよく覚えている)。

しかし作戦は止まらない。粗雑な統計を元に、効果があると自己暗示にかけているとしか思えない。止まらないだけではなく、最近では四条通りの車線を片側2車線から1車線に減らす暴挙に出た。こうして車を追い出す一方、二条城では、その史跡の上に駐車場を作る計画を立てている。

四条通りは、観光道路であり、生活道路であり、商業道路であり、市バスの最重要経路である。二条城は世界遺産である。これらは暴挙というか笑挙で、作戦に際して、自らの補給路や基地を攻撃する参謀がどこにいるだろうか。

http://agora-web.jp/archives/1650277.html
agora投稿分2015/07/31

2015年7月28日火曜日

「世界のアンドー」考

「世界のアンドー」考

関西の安藤忠雄が、日本の安藤になろうとしていたころ、関西のTVは、彼のことをしばしば特集していた。話のおもろいおっさんが、寄せ集まりのような若い衆とケッタイな建物をつくる。番組では面白いところだけ選りすぐったのだろうが、ドキュメンタリーとしてサマになる人物だったのだ。ここ京都にも安藤作品がチラホラ建ちはじめていて、それなりに好奇心をそそる外見だった。

やがて安藤は世界のアンドーとなって、それはそれでよかったのだが、今回の国立競技場騒動ではちょっとびっくりした。

まず審査員だったということ。なぜ選手としてコンペに参加しなかったのだろう。20年前のアンドーなら、絶対レフェリーやジャッジになったりはしない。俺はグローブをしてリングに上る!だったのじゃあなかろうか。

びっくりしたのはこれだったが、がっかりしたのは弁解である。

 デザイン決定後の基本設計や実施設計には
 「審査委員会はかかわっていない」

 2520億円という金額に関しては
 「何でこんなに増えてるのか、分からへんねん!」

これは漏れてきたコメントなのだが、面白くともなんともない。斯界一の権威が「なんでこうなったのか知らん判らん」では、収まるものも収まらない。現代の建築家は、梁の大きさやら床の面積やらから、工期や予算を叩き出してみようとはしないようである。

しかし記者会見ではこんなことを言っている。

「1964年の東京オリンピックとは時代が違って、コンピューターで徹底的に解析することによってできる美しい建築があるだろうと思っていた」

彼が審査にまわったのは、どうもこのあたりに理由があるようだ。

建築家と建築が、工学から離れて、芸術からも離れていって、経営学の範疇に入ってしまったのが現代であるわけだが、その先端を走っていたはずの彼でさえ、もう新しい建築の方向を的確に掴んで表現することはむつかしいのだろう。レフェリーという名の隠居である。

建築学会賞を受賞した作品であっても、その建築家にヒットが続かないとなると容赦なく壊される。建築家は存命中に代表作を失ってしまうことさえあるのだ。施主が建築家に要求するのは、構造でもなく、使い勝手のよさでもなく、まずは新奇さとその建築家の持つ名声なのであろう。程度の差こそあれ安藤の作品も似たような工程をたどる。今度の一件はそのスピードを早めたようである。

しかし、である。事態がここに至るまで「選手の目線で競技しやすい競技場を作るべきだ」という主張はどのくらい出たのだろうか。全然聞こえてこない。ある人が「鳥じゃあるまいし、こんなもの俺は真上からは見ない」と言っていたが、その通り。

http://agora-web.jp/archives/1649764.html
agora投稿分2015/07/24

2015年7月25日土曜日

二条城バス駐車場について(文化庁への公開書簡)

謹 啓

京都市にある国の史跡「二条城」につき、あらためてご注目たまわりたく、以下一筆申し上げます。

京都市の市街中央に位置する二条城は、築城400年を越え、相当の部分が国宝の指定を受け、かつ国の史跡となっております。東寺の五重の塔とならんで、京都市を代表する古建築であり、世界遺産としてユネスコに登録されていることは、ここに申し上げるまでもありません。

非宗教的なものでは唯一のものであること、その外堀、内堀の石垣の全長が6㎞以上あること、平地にあって面積が20万㎡以上あることなど、二条城は、京都地域にある17の世界遺産の中でも際立った特徴を有しております。

現在、京都市の文化市民局文化芸術部元離宮二条城事務所がこれを管理し、一日平均の入城者は4千人以上を数えます。

市街に立地することから、地下鉄の二条城前駅が隣接するほか、二条城の入城口である大手門の前の堀川通りを通るバスの本数も十分にあり、一般入城者のほとんどは公共交通機関を利用してこの城を訪れます。一方、修学旅行生も多数で、その形態は、かつての団体移動から班別少人数の移動の見学に移行しつつあるとはいえ、大型バスが使用される場合もまだまだ少なくありません。

ところで二条城は、幹線道路の堀川通り側に広い駐車場スペースを有しています。管理者は一般財団法人京都市都市整備公社であり、バス30台、乗用車216台の駐車が可能です。修学旅行で、バスの駐停車スペースの不足で入城に手間取るといった事態は、関係者においても顧慮の外のことと聞いております。

しかし現在京都市は、現在のスペース以外にもバス駐車スペースを確保しようとしています。そのこと自体にはとりたてて問題はありませんが、そのスペースのために2千㎡を越える林を伐採しようとしています。

この書簡には、写真を添付しますが、その林は、二条城の外堀にあっても、もっとも深閑としたところであります。世界遺産条約が求める周囲環境の、まさに要の部分といってもよいでしょう。

この二条城の事例では、京都市は市街の中心部、かつ史跡の直上に駐車場を建設を計画しておりますが、京都市の基本的な交通観光施策はパーク・アンド・ライドであります。市街外側、場合によっては大津市にまでも駐車場を確保し、市街ならびに古建築付近への車の乗り入れを極力避けています。四条通りにいたっては車道の車線を減少させてさえおります。どうしてこのような施策の食い違いが起こるのでしょうか。

重ねて申しあげますが、京都市の担当部署が、このような計画をし、貴台文化庁に樹木伐採の許可申請をするということは、まったく理解に苦しみます。申請に際しては、とりわけ慎重に審査されることを切望いたします。
敬 具