2015年8月8日土曜日

「2015文学部的状況」考

「2015文学部的状況」考

2015年8月1日の京都新聞『ニュースを読み解く』欄に「人文系学問の未来」と題して二人のインタヴューが載っていた。ひとりは(京都大学研究科長・文学部長)川添信介氏、もうひとりは(国際日本文化研究センター所長)小松和彦氏。

博物館の所蔵品のようになってしまった人文系学問≒大学文学部については、もはや関心にも及ばないという向きもあるだろうが、文学部はともかく「文学」一般は大切である。記事を出発点に、すこし考えてみよう。

ところでこのインタヴュー欄は、いつもは、護憲派:改憲派であるとか、規制緩和:護送船団とか、TPP:JA?とか、国債増発:消費税増税とか、紙上の「二家争鳴」が狙いのはずなのだが、今回は、両者の主張を逆にしても気がつかないほどであった。

「しかし、人文学が人類全体にとって必要という前提に立てば、学問を継承する人材を育てるという役割を放棄するわけにはいかない」(川添氏)

「極東にあり、西から来た文化が蓄積した日本には、自分たちでも気づかないような世界に影響を与える文化がたくさんある。・・・埋もれている文化を掘り起こして学問としての意義を発信する伝道師的な研究者を育てていく必要がある」(小松氏)

構成されたインタヴュー記事の中から「山」の部分を拾って引用したつもりだが、それでもこの主張にはするどさがない。二人の相乗効果どころか、相和効果もかなりあやしい。両者とも「人文学が人類全体にとって必要という前提」や「日本には世界に影響を与える文化がたくさんある」ことを具体的にあきらかにして、あまねく知らしめれば、予算がどうの、制度がどうの、最近の学生がどうの、という繰り言に終始する必要などなく、問題はほぼ解決である。これは過大な要求であるかもしれないが、こういう表現ができるということが文学なのであって、両者の肩書には、そういう目標くらいは含まれているはずだ、とわたしは思うものだ。

けれども大学の惨状はともかく、「人文学の意義」や「日本文化の世界性」について発信する人は、減ってはいない。大学にいないだけである。むしろ文学一般への欲求は高まっているとみる。

日本国内にいるだけにせよ、イスラム圏や中国の人々との関係は今後も増えて深まることだろう。その場その場で我々は適切な対応を迫られている。

また、個人がなにかに帰属する、といった意識は、ますます希薄になることだろう。それにともなって死生観も変化しないわけにはゆかない。

誇りや自尊心が、快適や安逸にどんどんすり替わってゆく。怒りの矛先が、無関係な人に向けられたり、また過度に抽象的になりはしていないだろうか。

こういったことを考えるのが、広義の文学であるはずなのだ。

そして研究室の狭義の文学もまた解放されつつある。知見はわたしの守備範囲に限ってであるが、この1、2年のWEB上の古文献の充実はすごい。しかしこれもまだまだ序の口で、大学が文科省傘下である以上は、年々一層有益性を迫られることはたしかで、所有の蔵書文書のWEB公開も追いたてられてなお加速することだろう。

京都にある国宝文書、

 御堂関白記(陽明文庫)
 東寺百合文書(京都府総合資料館)

のWEB公開も時間の問題だとわたしは思う。このふたつがWEBに上がれば「明月記」の主要部もきっとつづくだろう。未公開の文献は、国宝といえども見捨てられてしまうだろうからだ。肩書がなくても、だれもが文献にかなり接近することができるようになる。どうしたって大学の文科の空洞化はとまらない。

ところでいささか意地悪だが、相当の地位にある大学の先生には、ちょっと質問してみたいことがある。

「あなたは大学を離れて無職無給になっても、望まれれば弟子を指導することができますか。そして名誉教授のあなたに弟子が来ると思いますか」

殉教の覚悟を訊ねているのではない。人文学の価値をどこまで信じているかが知りたいのである。

http://agora-web.jp/archives/1651291.html
agora投稿分2015/08/03

2015年8月2日日曜日

「官製観光」考

「官製観光」考

官製観光といっても、このおはなしのサイズは大きくない。観光庁への言及もしない。ここ京都市に限ってのことである。

その京都市の観光客数は、ここ十数年ほぼ右肩上がりで、京都市の推計では年間観光客数は、4000万人から5000万人余に増加したことになっている。

ただしこの数値は、たとえば京都在住のわたしが清水寺駐車場に駐車しても、また東京から新幹線に乗車して京都駅に帰ってきても増加するたぐいのものなので、いわば指数である。しかし4千が5千になったというのは、実感を裏切っていない。混雑のシーズンでは、4が7に化けた気がするほどだ。

京都市はこの間、さまざまな観光施策を打ったが、結論からいうと、「口パク効果」以上のものは、ほどんどなかった。PAにあわせて施策の歌を歌っているふりをしているだけであって、増加の主因は他にある(「施策なしの場合」という対照群を示せないのが残念だが、リニア奈良駅が開業した時には、すべての説明がつくかもしれない)。

わたしの考えるところその主なものはふたつある。ひとつは鉄道会社の宣伝であり、もうひとつは個々人の勝手な発見である。前者の事情はよく知られているので、ここで説明が必要なのは後者の「個々人」の場合であろう。

ひとつ例を挙げれば、右肩上がりの発端となった1999年から2000年の魔界ブーム。すくなくとも市役所の中にはこのブームの音頭取りはいなかった。ネットの力がまだまだの頃だったが、個々人が情報を集めて京都へ来た。翌2001年の映画「陰陽師」はそれを後押ししたとはいえ、牽引したわけではない。

また最近ではフシミイナリである。魔界ブームは日本人発だったが、これは外国人発。ツイッターやらフェイスブックやらで広まったらしいが、その足跡追跡はもう不可能だろう。その結果、トリップアドバイザーでは年々順位を上げて、昨年2014年に日本国内1位を獲った。現在はそれを知った日本人が、ちょうちん買いに入った模様。

伏見稲荷は世界遺産ではない、まして官製観光の援助があったわけでもない。おいなりさんのHPも、日本語のものしかない。ネット勝手連がいかに強いかの好例である。

そして最近は、受け入れもまた個々人であることが増えた。これは言ってみれば「縁故観光」である。国外から日本に移り住んだ者が、親戚や知人、はたまた知人の知人を呼びこむ。レンタカーを借りて市内を案内し、ネットで確保しておいた宿に泊める。自己設定のパッケージとしてまとめて費用を請求するらしい。市役所はこんな動向をどこまで知っているのかしらん。

ともかく市役所=おいけ(普通、京都の者は河原町御池にある市役所のことを親愛の情を込めて「おいけ」と呼ぶ)の施策は利いていない。望むべくは「余計なことはしないでくれ」であろうか。それに今後いっそう望まれる富裕層へのアプローチにとって、5000万とかいう準天文学的数値は、むしろ邪魔にさえなる。

ちなみにだが、古い旅館やホテルを買い取って改築した富裕層向けのホテルは、京都に向けては一切の宣伝活動をしていない。「星のや」はともかく、鴨川の「リッツ」、嵐山の「スターウッド」のなんたるかを具体的に知る京都人はどのくらいいるだろうか。もちろんわたしも知らない(昔の名前の「嵐峡館」「ホテルフジタ」「嵐亭」なら、まだみんなよく覚えている)。

しかし作戦は止まらない。粗雑な統計を元に、効果があると自己暗示にかけているとしか思えない。止まらないだけではなく、最近では四条通りの車線を片側2車線から1車線に減らす暴挙に出た。こうして車を追い出す一方、二条城では、その史跡の上に駐車場を作る計画を立てている。

四条通りは、観光道路であり、生活道路であり、商業道路であり、市バスの最重要経路である。二条城は世界遺産である。これらは暴挙というか笑挙で、作戦に際して、自らの補給路や基地を攻撃する参謀がどこにいるだろうか。

http://agora-web.jp/archives/1650277.html
agora投稿分2015/07/31