2015年10月26日月曜日

「室町時代の酒税」考

京都は発掘調査のさかんなところだが、ヒミコの頃とか、倭の五王関連のものなどはまず関係がない。平安京の遺跡は当然あるわけだが、室町、安土桃山、徳川あたりにも渋いものが出て、興味ひかれることがある。2008年の夏、15世紀の酒屋のきれいな跡が見つかったというニュースが流れた。
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場所は四条烏丸の裏だという。このケースもそうだったように、まとまりがあって明瞭な出土の場合、現地説明会がよく開かれる。だが時間に都合がつかなかったので、その数日後、仮囲い越しに現場を見てみた。よく分からないままに写真を撮ったのだが、説明会(遺跡発掘の場合でも略して「現説」なんていう)ではていねいな表示や解説があったそうだ。(現在はWEBでその詳細な報告書も読める)

地下に甕が30ほど整然と並んでいて、麹室らしい遺構もあったという。これが酒屋であった決め手なのだが、この酒甕がすべて内側から底にかけて突き割られている。この酒屋は襲われたのである。

下京の大きな店は金貸しもしていたから、土一揆に襲われたと考えられなくもない。だが一揆勢には、暗い地下の甕を丹念に割ってまわる動機はないはずだ。そうなると誰が襲ったかはほぼ推定が可能。北野社の麹座である。麹の密造の摘発だったのだ。実際は幕府が手を下したのかもしれないが、そうだとしたら、購入麹と蔵出しの酒量の不整合等を根拠に、麹座が告発したということだろう。

現在、北野天満宮の宝物殿では、長谷川等伯の大絵馬などを見ることができるのだが、そのほか、北野社に麹座を認許する足利将軍義満の書状、また酒屋が差入れた誓紙もよく展示されている。

当時の京都では、北野の麹座以外に麹を造ることも売ることもできなかった。だからすべての酒屋は麹座から麹を買っていた。買っていたというよりも買わされていたのである。そういうことになっている。麹座から北野社へ、北野社から将軍家へと、当時の「酒税」はそんな風に流れていったのである。

しかし酒を醸すことができる酒屋にしてみれば、もちろん麹だって扱えるし作れるのである。自前の麹で安く上げよう。しかしそれは経済的理由だけだったろうか。

麹は酒造りのだいじなだいじな入口である。「官許専売統一麹」ではなくて、なんとしても自分たちが手元で育てた麹が使いたかったのではあるまいか。四条烏丸から北野天神まで、歩いても一時間ほど。そんな近くで、密かに麹を育てていた当時の「杜氏」たちの命懸けの意地。

実際こののち、北野の麹座の力が衰えると、新しい酒が各地で生みだされるのである。

しかし酒、酒造、酒税には面白い性格があって、相互に奇妙な働きかけをするものだ。酒税が強すぎると無論のこといい酒はできない。規制の緩いジャンルに大勢がかたむいて、別種のものが生まれてくることもある。だが安定した条件にあるからといって品質が向上するとはかぎらない。

かつてウイスキーなど、輸入蒸留酒類の関税が大幅に引き下げられた時、日本の焼酎は太刀打ちできず、滅びるだろうとさえ言われた。廃業した蔵もすくなくなかったろうが、その後、焼酎そのものの品質は向上し、名声を勝ち得た。現在は清酒とともに政府の「国酒」扱いである。

その一方で、安く手に入るようになったナポレオンの風味は、総じて淡泊になったようである。

以上、中世史の専門家からしたら、あまりにも粗雑で大雑把で、怒りの鉄槌を下されかねない閑話(むだばなし)になった。現代日本とも、関係のあるようなないような、中途半端な内容だが、お酒と税金の複雑怪奇な関係は、きっとまだまだ続く。

 2015/10/25
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月21日水曜日

「京都市政における官尊民卑」考

「京都市政における官尊民卑」考

以前にもすこし触れたが、京都市では四条通りの車線を、片側2車線から1車線に減らす工事をしている。河原町通りを中心に東西数百メートルの範囲であるから、京都でも目抜き中の目抜きだ。これがもうすぐ完成だが、工事中のゴールデンウィークにもすでに大渋滞が起こって、週刊誌の格好のニュースの的になって全国に知れ渡った。
四条大橋東行き
この車線の減少の計画については、数年前に実証実験をしていたことを覚えている。新聞でそれを見て、

「実験してみたら、だれでもムリは判るわな」

「まさかそんな工事にはならんだろう」とひとりで勝手に安心していたのだが、誰かが交通工学という高邁なものを持ちだしてきて、「車線を減少させても渋滞は軽微にしか増加しない」という仰天の結論に導いた。立派なSTAP、ペテンである。

京都市街の市民の足は、市バスを中心とする路線バスが主で、たいがいの停留所から【四条河原町】と【京都駅】の両方に行けるように系統が設定されている。この設定については今は論評しないが、その集中の結果、たとえば四条大橋東行きの場合、平日夕方1時間あたり、ざっと57台のバスを1車線で通過させなければならない。

交通工学以前に土台無理だったのである。わたしはこれは、「工事のための発注」ではなくて、「発注のための工事」だったと思うのだが、関係者の申し開きをぜひ聞きたいものである。

これだけの大がかりな工事には、もちろん大義はあった。「歩くまち」の推進である。車道が減った分、歩道が拡がった。だがこれも間のぬけたおはなしで、拡幅部分にアーケードは伸長していない。雨の日など、その部分には歩行者はほとんどいない。かわいそうに道2本分が死んでいる。

たしかに四条は歩きやすくなるだろう。だが松原通りや高辻通りには、四条を迂回した配達の車が、毎日毎日あふれかえっている。

こんな矛盾は山のようにあって、あるときツイッターで「京都市は、言ってることと、やってることがちがうやないか」といったつぶやきを見たことがある。その通りだ。

しかしこのところの市政を見ていると、「官尊民卑」をいう言葉さえ浮かんできた。21世紀の京都でこんな言葉を使うようになるとは、まったくふしあわせなことである。

景観を理由に、強制力を伴う規制を民間にかけて看板狩りをする一方で、市バスの停留所には派手なカラーポスターを入れて景観を破壊している。

京都会館のネーミングライツ50年間を、たった50億円で売却してしまう。市議会に売却先の事前相談もなく、単年度でもなく、入札もなくである。その建て直しに際しては、景観政策の高さ規制は解除である。

与党が従順で、(これは昨日の投稿で述べたが)野党の共産党が市長選を決戦場にしてこなかった。大雑把にいってこれが原因であるが、現市長、門川大作氏が教育長をしていたころの京都市教育委員会は、みずからの活動を称える書籍が刊行されると、公費で買い上げては支援勢力に配布したものだ。出版の経緯までは知らないが、自社株の株価操縦と一体どこがちがうのか。こんな手法が市役所に入ったということだろうと思う。

2008年の1月、あるSNSに、わたしはこんなことを書いていた。

京都市をあたためる

京都では、自民公明民主共産の四大勢力が拮抗して硬い票を集める。共産党系は独自候補、公明は有力候補の推薦に回るのが決定していた市長選。となれば、残る唯一の問題は、下野に怯える自民と民主がどう組むのかだけだった。

毎度毎度の、テクニックだけの冷めた選挙はもうたくさん、と思つていたところへ無所属20代男性出馬のニュースが入った。どうか燃える選挙にしよう。せめて京都をあたためよう。

2008/01/07
民主党の状況は、当時と現在とでは全然ちがうが、このわたしの7年前の考えは、今もほとんど同じ。

 2015/10/20
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月20日火曜日

「日本共産党とともに生きがいある人生を」考

京都、とりわけ京都市街は日本共産党(以下「共産党」と略する場合あり。この稿には中国共産党やロシアの共産党のおはなしは出てこない)の強い地域である。町のポスターでは、自民党を優にしのぎ、公明党をもまだ上まわる。
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枚数の多いのは候補者のポスターだが、政策スローガンだけのものも種類があり、その中からご自身の意見と同じものを慎重に掲げている、といった家も多い。

あるとき見かけたのが

「日本共産党とともに生きがいある人生を」

のポスター。愕然としたものである。宮本議長の演説風景に言葉が重ねてあったはずだから、かなりむかしのこと。そんな古い記憶なので、字句が若干ちがうかもしれない。しかし検索をかけると、このキャッチはまだ現役で使用中である。先見の明というべきであろう。

その後、社会党、民社党は国会、地方議会において消滅したが、共産党はおおむね同規模で頑張っている。一見おだやかな感じのスローガンだが、この大胆な、かつ密やかな路線転換がなかったとしたら、今日、日本共産党は日本共産党として存在しただろうか。大いに怪しいと思う。

こうして日本共産党は、「起て!飢えたるものよ」(インターナショナル)や「奪いさられし生産を 正義の手もて取り返せ」(聞け万国の労働者)からはさらに距離を置き、政党活動の趣味化をはじめたと言えるわけだが、このところその傾向はさらに著しい。近年のポスターに見える

「命の平等」

にしても

「 京都から 憲法守る 」

にしても

「 アメリカ 言いなり もうやめよう 」

にしても、内容にはピンとこないものがある。趣向を同じくする支持者にとっては気持ちよく一票を投じられるかもしれないが、この命の平等とは、範囲あってのことであろうか、それとも無範囲のことなのであろうか。経済のグローバル化をどう評価しているのであろう。西ヨーロッパに殺到する難民(移民)問題など、見解を聞いてみたいものである。

これまた古いはなしではあるが、京都の共産党は、蜷川京都府知事を長きにわたって応援し(ただし一時断絶あり)、蜷川虎三から多くを学んだはずだが、蜷川のスローガンはまだ明瞭であった。「住民の命と暮らしを守る」であり「憲法を暮らしに生かそう」である。イデオロギーのカタマリみたいに揶揄された虎さんであったが、施策は、生活中心の地味なものが多かった。

そのころの京都共産党には与党病があったほどである。現在は野党病であろうか、実務的な商品はなかなか見られない。来年の市長選でも、「戦争法反対」で押し出すそうだ。投票日が2月7日と決まったこともあって新手のポスターが貼り出されはじめた。

「 子どもは みんな未来 いま憲法市長 」

分かるとか、分からないとか、そんな段階は越えている。支持者の人気ワードを順にならべてみました、なのかもしれない。こんな表現になるについては、公選法とのからみもあってのことなのだろうが、同じ調子で選挙公報を作られた日には、わたしは暗号解読器を要求したい。

共産党にとって京都市長選は、絶対に勝てないという選挙ではない。市長選を国政選挙の準備体操にしてもらっては困るのだ。市長選は市長選として、明瞭に勝つ意志のある、市政の舵取りの可能なプロフェッショナルな候補で、きちんと市長選の土俵に上がって欲しいものなのだが。

ところで1970年代、共産党がいわゆる革新連合政権を構想していたころでも、防衛政策を問われると、

「自衛隊は違憲だが、将来、国民的合意を得て防衛組織を持つ」

という責任ある見解がすらっと出てきたものだ。上田耕一郎氏の明晰な声を思い出す。これは憲法改正を意味していたのであろう。

当時の共産党と、現在の共産党では綱領がちがう。だからこの古い見解はもう使われなくなっていた。ところが近日、志位委員長から「日米安保維持」「自衛隊活用」の発言が出た。

だがこれは、かつての見解の延長線上にあるものとはいえまい。現在の綱領ともあきらかに一致しない。志位氏による一種の綱領の「解釈修正」。近年や現在のポスターに見えるスローガンとも齟齬が生じている。

綱領については党内の解決すればすむことであり、またこの修正は大方の賛同を得るだろう。けれども最大の問題はこれまでの経緯と、その言葉遣いだ。

「日本に対する急迫・不正の主権侵害など、必要にせまられた場合には、この法律にもとづいて自衛隊を活用することは当然のことです」

わたしは、「人民から敬意をはらわれない軍隊、また傭兵が、本心から人民のために闘うことはない」というのがマキャベッリの要諦だと心得ているの者だが、上記の発言を聞いて快く思った自衛隊員がいるとは、どうにも思われない。

 2015/10/19
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月18日日曜日

「ペテン師と好奇心と検索脳」考

「ペテン師と好奇心と検索脳」考

わたしの愛読書のひとつにカール・シファキス著『詐欺とペテンの大百科』(鶴田文訳・青土社・2001)がある。
自動チェス人形
古今東西、騙されてしまった人にはお気の毒だが、読んでいて興味深い。ペテン師というものは、人類の想像力の副作用のようなものではないかと思う。わたしも騙されたくはないが、一人のペテン師も生きられない国にはとても住めたものではないのである。

ベートーヴェンの伝記にはメルツェルという人物がかならず登場するが、このヨハン・ネポムク・メルツェル氏と深い関係にある

【自動チェス人形】

の項目がこの百科の中にはあった。これがやや値のはるこの本をわざわざ買う決め手になった。現在からすればこの項目の記述はすこし頼りないが、この翻訳が出た当時はもちろん、たしかに数年前まで、この件はネットの検索でも出てこなかったはずである。

メルツェル氏といえばメトロノームの発明者として日本では知られている。日本語のwikiも現在ほぼその扱いである。日本人はまだ騙されているようだ。地下のメルツェル氏も苦笑していることと思う。だが英語版、ドイツ語版wikiでは詳しい経歴が書いてある。情報落差があるわけだ。(日本語の音楽辞典でも、メトロノームは先行発明の模倣ということで決着がついている)

メルツェル氏の手段もこの情報落差だった。ウィーンのベートーヴェンの大ヒット作品をミュンヘンに勝手に持ちだし、さらにロンドンを狙う。オランダで目にした発明品(つまりメトロノームの原型)をフランスで商品化する。そうやってヨーロッパを駆けまわった。しかしキューバからの帰路、失意の内に没。追っかけてくる情報を振り切ったり、追いつかれたりの生涯だったようだ。

それでもメルツェル氏には人の好奇心をくすぐる特技があった。裁判沙汰になったベートーヴェンとも和解した上に事業の手伝いまでしてもらっている。

当時の世界は情報に飢えていた。テクニックもファンタジーに満ちていた。だから18世紀や19世紀のペテン師の経歴は読んでいて愉しいのであろう。

もちろん現在の世界も情報には飢えている。万人が情報上位に立とうと必死である。ただ、どんな情報が欲しいかはあらかじめ決めてかかっている。わたしにはそういう風に見える。奇想天外な情報は無視する傾向が強いのではなかろうか。総じて無駄を楽しむ余裕がない。

現代のペテンが、そのころと比べて面白くないのは、このあたりに原因があるように思う。騙す方も騙される方も、効率主義が強すぎる。珍しいものに出会って欲が出るのではなくて、たいてい欲しいものはあらかじめ決まっている。

知識欲、好奇心も似たようなもので、知って楽しむのはネットの検索機能でいともたやすくなったが、目的の検索の範囲外には関心があまり広がっていない。ネットサーフィンという言葉もすこし古くなってしまったようだ。行って帰ってそれでおしまい。特定のキーワードには、敵味方の区別もつけずに過剰に反応する人がじつに多いが。

しかし東芝の経理、フォルクスワーゲンの排ガス性能、STAP細胞の機能、東洋ゴム、旭化成建材etc、よくもまあ、そんな大企業や大組織でそんなことがまかり通ったものだとびっくりはする。むかしとはスケールが違う。ちいさな国なら吹き飛びそうなものまである。

上記の企業など、ペテンは内々で遂行されて、その目的もありきたりで陳腐なものが多いが、規模が大きいほど、歯止めが利かなくなっているのではあるまいか。示唆と無言の迎合。プロのペテン師がいるからペテンが起こるのではなくて、要望に合わせて平凡な人がペテン師になる。因果関係の逆転。この傾向でいうと、政府要人の「ブレーン」が、極度に単純化した目的しか持たない「首脳」に、何を吹き込んでいるかわかったものではない。それどころか財政など、すすんで騙されているように見えることさえ多い。

 2015/10/17
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月16日金曜日

「縦書きと横書きと新聞」考

「縦書きと横書きと新聞」考

きょうからはじまる新聞週間に事寄せて、新聞の紙面の話題をすこし。ただし記事内容ではなくて、形式としての紙面、もしかすると日本人の美意識とも関係する、藝術的な割付けなどについて。
龍安寺
『都林泉名勝図会』に見える龍安寺石庭
石川九楊氏が、横書きの日本文を糾弾したのは10年ほどむかしのことと記憶している。それからだいぶ時間が経った。しかし縦書きと横書きを対比した論考や研究が増えたり進んだりしたとは聞かない。

「これは、いつもは横書きで書いている人が、急に縦に書いた文章である」

といった鑑定ができるレベルまで到達すれば面白いと思っていたのだが、これが可能になるのは、はるかに遠い将来のことのようである。

石川氏の提言が利いているからではないだろうが、日刊主要新聞は、2015年現在、軒並み縦書きを維持している(サンケイ・エクスプレスはここでは主要紙に含めない)。

以下、読みやすいように、横をヨコ、縦をタテとしてはなしをすすめるが、印刷整版の用語では、この「タテ書き」という言葉はおかしく、正しくは「タテ組み」というべきなのだろう。だが、そうは言い切れない事情もある。

本文はたしかにタテ組みだが、「大見出し」「見出し」は縦横無尽。写真の説明、数表はもちろんヨコ、要約やポイントの指摘もヨコが多い。囲みの短信やコラムは、場合によってはヨコ組み。伝統の技の集積で、図像効果に満ちている。単純な「タテ組み」だと言えない理由は以上による。

しかしこの伝統の紙面も、もうそろそろヨコ組みにしてはいかがでしょう、というのが本稿の主旨だ。

ところで人間というものは、入力と出力とでは、いささか勝手がちがうようにできている。書くのが「ヨコ」の人だからといって、読むのもヨコ組みが好きだとは限らない。

ただし、手書きで「タテ」に書く人は、読むのもタテ組みが好きだという傾向は強いかもしれない。現在、PCを使うに際して、タテ入力が好き、という人はまったく少ないだろうが、漢字仮名交じり文の場合、読むことに関しては、たしかにタテが読みよいとはいえるだろう。

だがヨコならではの効能というものもある。タテで書いたものでも、いったんヨコに組みなおして見ると、展開の荒っぽいところや、誤植を見つけやすい。現在のPC環境ではこの組み直しは瞬時でできて便利。ヨコ書きの方が冷静に読めるとわたしなどは思う。

ただ、「タテ」がなめらかに読めるとしても、それは「数量的」な表現がない場合に限られる。数字数値が出てくると、圧倒的にヨコの勝ちである。これはどうしようもない。最近は新聞の本文のタテ書きでも、数字に洋数字をつかうようになったが、その数字も、2ケタまでは半角のヨコ並び、それ以上は全角のタテ並び、と複雑であること極まりない。かえってタテ書きの欠点を露わにしてしまった感がある。

数字が洋数字に統一されても、まだまだ各紙とも、ネット配信のストレートな「ヨコ」の数字と、紙面の「変体タテ」の数字とでは、ちがう変換でやっているわけだ。やはりこれは馬鹿らしい無駄だと言えるだろう。

それに加えて、紙面の構成、整理、割付けの問題がある。

先にもすこし触れたように、紙面の構成の入り組んでいること、あたかも山水画の如しで、「図像効果」に満ち満ちている。全国紙の一面は、どこにでもあるフォントを使いながらも、ここまで感覚操作ができるのだという、いわば藝術的な見本である。

したがってネット版のプレーンな、すっぴんな記事から受ける印象と、舞台装置の調った紙面版から受ける印象の差異は、小さくない。紙面版では「整理」の段階で、(写真とともに)最後の「角度」をつけているわけだ。現場の記者は、この現象について、どう考えているのだろう。やっぱり紙面が一番、ネットは栄養素だけで無味、と思って記事を書いているのであろうか。

さききほどは「山水」という言葉を使ったが、右上の題字から記事を経てやがて下段の広告に至る道程は、まさに須弥山から大海に至る禅の庭の、水の流れの曲折をも思わせる。またこの右上から左下への動きは、歌舞伎の幕切れに、下手花道を駆け抜ける名題の役者さながらである。もしかすると、われわれは、新聞の紙面もそのように認識しているのかもしれない。こうなってくると、タテ書きかヨコ書きか、といった範疇ではすまない。日本文化そのものの問題なのかもしれない。

しかし新聞各社、いろいろと顔を洗って、化粧を落として心機一転、出直したらどうだろうかということだ。見出し、要約、本文すべてヨコ組みにして、取材力と平明な記事という、基本からやり直してみてはどうだろうか。

たとえ日刊の宅配の新聞は滅びても、ジャーナリズムはなくならないし、ジャーナリストも同様だ。全国日刊紙は、あたらしい形式の媒体へのよき模範、道筋を示すという、かっこいい役割は、いまからでも果たせなくもない。

じつはこの稿の本当のねらいはというと、割付けに限らず新聞「抜駆けのすすめ」ということである。最初に横組みにした全国紙は、半年間くらいは、他の新聞に対して優位に立てるかもしれない。悲しいかな大した優位ではないかもしれないし、横並びの「新聞仲間」からは外されてしまうかもしれないが。

 2015/10/15
 若井 朝彦(書籍編集)

ところで以下一言ご挨拶申し上げます。
今月よりアゴラに執筆させていただくこととなりました。
まことにありがたいことと、あつくお礼申し上げます。
つきましては自己紹介をまとめております。
皆さまには今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
若 井 拝 

わかい ともひこ 1960年生。在京都。編集といっても京都を離れずに、まして日本近世文化、ドイツ音楽史あたりだけでやっていけるはずもなく、並行して豊富な職歴を有す。発掘調査、地図製作、観光業、手工藝ほか。そんな関わりもあって日本ソムリエ協会会員。学会には属さないが京都の私大の研究所に籍があり、たまに執筆、まれに出講。俳諧師として号は立立など多数。ときおり歌仙を巻いている。出版造本では壽岳文章博士の孫弟子であることを自認。

2015年10月13日火曜日

「大阪都構想と防災」考

「大阪都構想と防災」考

大阪の選挙が近づいてきた。なんだかんだあっても、まだまだ橋下維新の動向、これに最初に目が行く。市長選は新人戦になる見込みだが、知事選は松井知事が再出馬である。そして一度は破れた「大阪都」を公約に入れるとのこと。(橋下維新は以下「維新」と略)
大阪
吉田初三郎(1884-1955)の大阪鳥瞰図より
今年5月の大阪市の住民投票はなんだったんだ、という声もあるが、維新もやっと政党らしくなった、というのがわたしの感想。

橋下氏が知事になった当初は、念仏のように道州制を唱えていたのだが、それが関西広域連合のクラブ活動に変わり、脱原発の寄り道を経て「大阪都」構想。かつてのブレーン側からは、アイデアの食い散らしだ、偏食だ、との非難は強いが、負けてなお再度「大阪都」に固執するのは、評価に値する。

「大阪都以外、他には何もないからじゃないか!」

と批判する老舗政党だって、何かがあるというわけでもない。

わたしといえば維新のことは嫌いでも「大阪都」は嫌いではない(ただしネーミングはケッタイだと思うが)。住民サービスの(直接)自治体は小さくし、国と交渉する(権限)自治体は大きく一本化する、ということだと、大づかみに諒解しているからだ。

それにしても大阪市は大きい。20以上の区があるのだが、全部すらすら言えて、メモ用紙に略図が描けるひとがどれだけいるだろう。市長はさすがにできるだろう。そうあってほしいと思う。しかし市議あたりになると、怪しいのではなかろうか。

市議が得意なのは、自分の選挙地盤である。この土地勘だったら余人の追従を許さない。許すようだったら選挙に勝てっこない。

一方、政令市の市長はそんな細かいことを知っているわけがない。千代田区の地理の方が得意かもしれない。しかし知事と二人で永田町に精通していても、仕方がないではないか。

さて本日のお題は防災である。災害対策基本法では、避難勧告や避難指示は、おおむね市町村長がすることになっている。東京23区の場合は区長が担う。大阪市が分解されて区になった場合も同様だったろう。防災権限は細分化されることになったのである。

市町村合併が極度に進行して、自治体の首長がとんでもなく広い範囲を受け持たなければならなくなった昨今、逆行するようだが、この細分化は防災にも有利である。

発するのは首長であっても、実際に勧告や指示を決めるのは首長ではないだろう。気象庁や国土庁、府県の部局とも連絡をとる役所役場の担当者であろうかと思う。しかし首長が該当する場所を知っているかどうかは重要である。ささいなことでも担当者のコンディションを左右しかねない。

担当者が事前であれ事後であれ説明を上げるとき、首長に対して、地名、地形の説明からはじめなければならない場合と、それが省略可能な場合を比べれば、その負担の差は明らかだ。

災害の警告に空振りはつきものである。しかし見逃しはもっと怖い。この加減がむつかしい。そのあたりはやはり首長の人柄や、地元への愛着にも関わってくるのではなかろうか。

ところでフランスの県の単位はとても小さい。その昔の

「領主が、その日の内に馬で行って戻れる範囲」

がそのまま受け継がれていると聞いたことがあるが、本当かどうかは知らない。しかし当たらずといえども遠からず。だいたいその程度の大きさである。知事は仕事さえすれば不在地主でもいいくらいだが、防災にはこのフランスの県のような(または市議のような)発想が欲しい。

2015/10/12
若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月11日日曜日

「日中友好70年」考

「日中友好70年」考

ノーベル賞週間も一段落して、今日の大きいニュースと言えば、ユネスコの記憶遺産の件。日本から(京都府から)は『東寺百合文書』、『舞鶴の引揚資料』の新規登録が決まった。

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(2015年10月10日京都新聞夕刊の表情より)
『東寺百合文書』は、ユネスコに登録されようがされまいが、京都府も国も、従来のとおり、保存と活用には熱心であり続けることだろう。特に爆発的に喜ぶことはない。

しかし『舞鶴の引揚資料』は、この登録が、今後の保存と公開のために有利に働くだろうと思う。わたしにしても親の代、またその親の代に引揚者は多く、実際にソ連から舞鶴に引き上げた者も二人おり、感慨深いものがある。(私事ながら、来年の春には、親族と舞鶴に行く予定をしている)

その一方で新聞の一面は、『南京大虐殺資料』の同時登録も伝えている。日本全体にとっては、この問題の方がはるかに大きい。

ところでわたしにとって中国というと、古い話で恐縮だが、まず思い出すのは北京放送である。もうタモリ氏もそのパスティーシュはしなくなったが、1970年前後、夜にラジオのチューニングダイアルを回すと、

「ニッポンの同志のみなさん、友人のみなさん、こちらは北京放送局です」

が飛びこんできたものだ。国内のニュースとは全然タネがちがうので、新鮮に感じて聞き入ったものだ。わたしの頭には、そのころや、そのあとの日中交渉の単語とフレーズが、まだいくらか残っている。

 ・・・ アルバニア形決議案
 ・・・ 添了麻煩 = ご迷惑
 ・・・ 光華寮裁判
 ・・・ 兵馬俑損壊
 ・・・ 今の世代は智恵が足りない
 ・・・ 水を飲むときは
 ・・・ 戦略的互恵関係

1980年ごろ、準招待の視察団で中国に行った人が、帰りの飛行機で日本語版『人民中国』誌の定期購読を申し込んだ。わたしのところにも、その読了分が遅れてやってきた。

共産党肝入りの広報誌とはいえ、手に取るとけっこうおもしろかった。それよりも、中国で年々物事が進んでいる様子に興味が湧いたものだ。そのかなりが膨らんだ記事だったにしても。

1989年の一件のあと、『人民中国』もその波をかぶらないわけにはゆかなかった。しかし数ヶ月後に手にした号の内容は、予想をはるかに越える沈降だった。どこをひらいてもお通夜のような暗さである。面白さも新しさもなくなった。だからそれからはもう読んでいないし、発行がまだ続いているかどうかも知らない。

おそらくはその時に職を解かれた編集者たちは、その後どうなったのだろうか。心配してもはじまらないが。

こんな小さな広報誌の顛末とは違って、中国本体もアジア全体も、このあともっと大きく変化し、変化しつづけた。

かつての日本のように内陸鉄道建設と移民を積極的に進めたり、かつてのドイツのようにクリスタルナハトをしたり、かつてのアメリカのように武力的空白の海洋に基地を作ったり、かつての先進工業国のように、水も空気も食品も汚染まみれになったり。そんな国もあらわれたのである。上品に書いたが、実態はこんなものではなかったろう。

日本の歴史を、また歴史一般を直視して有益なのは、日本ではなくて、別の国ではあるまいか。かつて北京放送局が指弾していた帝国主義は今どこにいるのだろうか。

けれども、かつての中国が、敵国と、敵国の人民とを分けて考えたように、われわれも独裁党と独裁下の人民とを分けて考えておくべきだ。

われわれは、近隣の今の歴史を、将来の近隣人民のために残すことはできるだろう。

日本における『東寺百合文書』と同様、中華人民共和国も今回のユネスコの登録とは関係なく『南京大虐殺資料』は保存も、公開も、活用も続けるだろう。それはそれで任せておいてもよい。しかし現代史、同時代史の領域で日本が遅れをとることは、絶対にあってはならない。

日本でこそ正しいアジアの姿が報道されている、とアジア人民に諒解してもらえるようになれば、それはアジア人民にとってなんとも素晴らしいことだ。ぜひとも感謝されるようにならなければならない。

独裁下の人民にとって、取材も発表も困難である。だが日本人にとっては、すくなくとも発表はそうではない。歴史を綴るということは、だれにとっても容易なことではないが、近隣の状況を分析し、記録に残すということは日本の国益に直結する事柄でもある。

そしてこういう姿勢は、たとえば日中友好の、次の70年の礎にもかならずなるのである。

「中国の同志のみなさん、友人のみなさん」

 2015/10/10
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年10月10日土曜日

「祇園の評判」考

「祇園の評判」考

もう先月のことになるが、松井今朝子さんが京都に帰られて講演があり、とてもいいお話がうかがえた。タイトルは「祇園町に育って」。

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松井さんが祇園に住んでおられたのは、小学生から高校生までの間で、おおむね1960年代のこと。その後早稲田大学にすすまれて、以後ずっと東京を中心とした生活をされている。ご実家は祇園の割烹懐石の名店。こういったことはここに記すまでもなく、よく知られていることかと思う。

祇園町には面白いはなしがたくさんつまっているはずだが、かといってそんなはなしがそのままストレートにできるわけもない。しかしこの日の会場は、聞いている方もほとんどが京都の住人なので、微妙なあたりは、輪郭を話せばそれなりに伝わる、といった具合だった。

ところでわたしの印象に強く残ったのは、締めくくりの方にさらっと話された

「両親は祇園というところでどれだけ神経をつかってきたことか。その日が過ごせればそれでいい。何も残さなかったし、子供に店を継がせようとは少しも思わなかった」

これには心中ふかく頷くものがあった。京都はいろいろとうるさいところであるとは思うのだが、その中でも祇園はトップクラスだろう。

店の評判を落としては大変だが、しかしなめられては絶対にいかん。シンプルに言えばこういうことだが、それがお客さんとの関係にまず言え、お客さんを連れてくる芸妓さんにも言え、またみずからの店の板場、その板場の横のつながりの評判から、なにからなにまで気が抜けない町なのだ。大儲けなんかしているヒマはない。

安い料理を出せば、なにか無理があるのではないかとうわさになり、値段を上げれば上げたでいぶかしがられる。目新しい食材を使えばあてこすられ、献立が変わらなければマンネリ扱いだ。

垣間見て、プロ同士の目がまず鋭い。これがこの町の洗練の原動力であることはたしかだ。

ところで代替わりをされた現在のお店のHPにも、このような言葉が見えている。

「淡路島の鯛を始めとする鮮魚、野菜、調味料に至るまで、創業当初から変わらない仕入先との信頼関係によって祇園川上の味は保たれています」

きちんとした店が仕入先をかえるとなると、これは大きな評判になる。「なんかあったんとちゃうか?」と、どちらにとってもメリットはない。上記のような表現は、遠回しの感謝のあらわれでもあろうけど、しかしその一方で、「どうかわれわれの顔をつぶさないでもらいたい。われわれも恥をかかせたりはしない」、そういうことも併せて言っているのだろうと思う。表面上の原価と効率だけでは計れない部分である。

世界が平板化し、つられて日本も平板化する現在だが、このような厳しさがあり、しかしどこかお人よしのところがひょこっと残っていたりする祇園という町は、かんじがらめだけではない。このような批評精神にも似たうるささが生きている限りは、なかなか創造的な場所である。

かように祇園町は、特異に分化したところである。平たくいってガラパゴス化しているわけだが、このガラパゴス化も突き詰めて極めると面白いことが起こる。

この講演では話されなかったけれど、松井さんのお父さんは、スティーブ・ジョブズ氏と親交があった。当の松井今朝子さんご自身も、父の起こしたお店を託す方を、家族相談の上で決めた後に、こう言って説得されたそうだ。

「あなたは、日本中、どこに店を出してもやっていける方だけど、祇園なら世界を相手にできる」

 2015/10/9
 若井 朝彦(書籍編集)


編集部より:今回から京都在住の書籍編集者、若井朝彦さんが執筆陣に加わりました。東京目線とは一味もふた味も違う、上方文化の香り漂うエントリーにご期待ください。