2015年11月30日月曜日

「林達夫と認知科学」考

「林達夫と認知科学」考

林達夫(1896‐1984)とはいったい何者であろうか。職業から見れば出版人にして大学教師、ということになる。業績からすれば歴史家、思想家、文筆家としての足跡も大きい。しかしこの稿では、革命思想家としての林にまず接近してみたいと思う。
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20代の林達夫は、ブッセの『イエス』を翻訳、出版している(岩波書店・1923年)。その書が1932年に岩波文庫として再刊される際、林は凡例(前書き)をあらたにした。以下はその一節。

・・・ただ一言述べさせて貰ひたいのは訳者(つまり林)のこの書(つまりブッセの『イエス』)に対する評価は、翻訳の企てられた十年前と今日とでは可なりに逕庭があるといふことだ。訳者は今日、戦闘的無神論者の陣営にある一兵卒として反宗教的な論文を書いてゐる。訳者がこの『イエス』の翻訳を再び公けにするのは、ただ書店(つまり岩波)に対する五年前の公約を果さんがためである。・・・
林は、30代の半ばになっていた。ここでいう「戦闘的無神論」というのは、ほとんと共産主義であるといってよく、やがて起こるべき革命のために何かを準備しているのである。つまり林は、「むかしのようにブッセの『イエス』は買っていないし、いまやそのころとは全然違う立場の人間である」と宣言したわけだ。書店に対しても、官憲に対してもかなりの緊張感を持たざるを得ない内容だが、林は三木清の友人であり、野呂栄太郎とも遠くはなかった。その人脈からすれば、上記はさほど突出しているものとは思われない。

だがその後の林は、野呂や三木とは異なって、検挙されることも投獄されることもなく、戦時を切り抜ける。やがて1951年には「共産主義的人間」を著し、文藝春秋に発表した。これはスターリニズムに代表される共産主義とその国家の批判であった。そして政治的人間であることを止めてしまう。またこのころから文筆家としてもほとんど孤立してしまった。

林達夫の熟読者、愛読者からは「林達夫をそんな単純に、早送りで割り切ってよいわけがない」という声が上がりそうだ。実際のところわたしもそうだと思う。林達夫は割り切れない人物である。政治的に退却はしても、革命思想家としての林はここで終わったわけではないのだ。革命というものの本質についての関心は、その後いっそう深まったのではないだろうか。そうわたしは睨んでいる。

たとえば晩年の二つの作業、ルネサンスの天才の創造活動を通じて人間の元型を想起すること(「精神史」1969年)。ベルクソンの『笑い』を翻訳しなおす過程で最新の理論を点検し、個人の心の中の笑い意味、集団の中でこそ起こる笑いの意義を探求すること(「ベルクソン以後」1976年)。

今となってはいささか古い研究の方法だともいえるが、こういった林の問題設定は、いったいいかなるときに革命を志向する集団が発生するのか、いかなる場所でに革命の機運が成長するのか、といった、林の中に不断に湧出る疑問と不離だったとわたしは考える。

そしてこの思考は、学問のさらに新しい展開を熱望していた。70代半ばの林は、『思想のドラマトゥルギー』(久野収との共著。対談を元に大きく加筆、再構成されたもの。平凡社・1974年)の中で、こんなことを述べている。

・・・科学者としても、小説家としても一流の、イギリスのC・P・スノーは、この二十世紀のさなかに、いまだに昔風に言えば、理工科系と法文化系を志す若者が、依然として古ぼけた各々別個のカリキュラムを専門家になると称して後生大事に守っているのを嘆いていますね。どこまで行っても合流しない二本の平行線。今の工業技術世界兼情報化世界で少なくとも第一線の働き手になるには、それではもう間に合わないはずです。MITは言ってみれば、この人間と機械との共棲時代をどうやって生きるかという実験場であり、その意味で、共棲的世界の縮図ともいえるものでしょう。・・・(初版267p)
この時点で林は、ほとんど現行の認知科学を予想している。社会学とか心理学とか医学を跳びこえた「集合的脳科学」とでもいったものをこそ林は希求していたのではないだろうか(数学的ユング?)。そしてそういった手段によって、藝術的天才の秘密や、革命の本質に迫ることはできないかと。

しかし今ほどこういった思考や分析が必要とされている時代もない。林の場合、キリスト教と経済学と西洋文化が中心課題であったし、想定していたのは、その延長線上にあるべき新しい科学。しかし現代ではそれに加えてイスラム宗教学、中東文化、場合によっては麻薬の薬理と脳内化学、脳の発達機序、情報処理技術が必要必須である。その総体としての認知科学。

そしてこういった認知科学こそテロリスト集団にとって脅威になるかもしれないし、またそうでなくてはならない。テロリスト集団との闘いでは、火力がすべてではないし、他にもさまざまな貢献があるはずである。知も含めた総力戦である。

さて、はなしをもう一度林達夫に戻す。さきほどは『思想のドラマトゥルギー』からMITとその周辺について書かれた部分を引用したが、そのすぐあとにはこんな個所がある。本日の本線からはいささか外れるが、これも現代に直結した林達夫の警句予言であるから、紹介しておこう。

・・・僕自身はもうできないけれど、文科の学生に講義しながら、理工科的な知識、それに数学的な知識は最低限は必ず身につける努力をしろ、と言うんですけど、・・・理工科系の人は、必要に迫られ、足りないところをもりもり勉強してしまう、そうすると、文科系の人は無用の人間になってしまう、とおどしてみるんだが、さっぱり効果がない。・・・
繰り返すが、林は1984年没。『思想のドラマトゥルギー』は初版1974年である。

 2015/11/28
 若井 朝彦(書籍編集)

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2015年11月21日土曜日

「街ネコ」考

「街ネコ」考

街ネコという生き物がいる。食べ物は人間に依存しているが、いざサカリとなればほとんど野生。だが子育てはヘタな方。飼いネコでもなく、のらネコでもなく、準フリーランスのネコのことといったらよいだろうか。しかしネコという生物は、完全な家ネコだってどこかフリーランスなところがある。
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京都には中心部にもまだそんな街ネコがいる。四条河原町を中心として、おおよそ300m半径にはほとんど生息しないだろうが、そのすぐ外なら立派に存在すると思われる。(大阪の梅田だって、中崎町あたりにまで行けば、きっといるのではなかろうか。)

そしてそんな街ネコを見れば、景気がわかる。それは景気の本質ではなくて、株価かもしれないが。

1990年代の前半、いわゆる平成不況で街ネコは激減した。その後ゆるやかに回復したが、2008年のリーマンショックではまた減。以降ふたたび回復基調が続いて現在に至る。

これは相関関係ではなく、景気がネコに影響を与えているという因果関係である。ふらりとやってくるネコにエサをやろうという、フトコロの余裕、ココロのゆとりがなければそうはならないのであるから。(したがって、強引に街ネコを増やしたからといって、景気がよくなるということは決してなく、だからもしネコの数量ターゲットを考えている方があれば、それは虚妄である。)

さて、そんな街ネコも、最近微減である。というのも京都市の通称「餌やり条例」(正式名はあるはずだが、この稿ではくわしい調査を省略)が施行されたからである。自分の飼い猫でもないネコに、またハトとかに、エサ場をつくって勝手にエサをやってはいけません、という規則である。具体的な罰則はあったのだろうか。ご興味の方は検索してみて下さい。

ともかくこれには効果があったようである。市の係りがどうのこうのと注意する前に、周囲の人が注意しやすくなった。もちろん自制効果もあったと思われる。わたしの行動範囲では、ネコを集めてエサをやる人は見なくなったし、それにしたがって街ネコの数はやや落ち着いたようである。

わたしはこの結果に好意を持っている。最近、ネコの数はやや過飽和で、結局ふえすぎて子供を十分に育てられないネコも、目についていたからである。また放置されたエサに、イタチが寄ってくるということもあった。

京都では、街ネコのいるやや外側には、イタチもいるのである。イタチどころか、昨年のこと、まったく街中でタヌキを見た。夜間にやや遠くに個体を見た。「それは野生化したアライグマだったんじゃないか」という人もあったのだが、有効な反論ができないでいる自分が悔しい。すくなくともイヌでなかったことは確かだったと、この場を借りて主張しておきたい。

ともかく京都では、ネコへのエサやりが過ぎて、イタチまでトロトロ歩くようになっていた。これはイタチの将来にとっても、あまりよい状態ではなかったと思う。

条例そのものには反対もあった。今生きているネコを死なせるわけにはいかない、という意見である。わたしはこの意見にも反対しない。

そう考えてこっそりにしてもエサをやる人がいるから、京都の夜の裏道の風景でもある街ネコの数は保たれている。ただ、エサ場はそのままに、そこにくるネコを去勢避妊手術することでネコの数をコントロールしよう、という意見には同意しづらい。

ネコもネコによってサカリのつきかたも万別だろうが、一週間も家を空けて、やせ細ってドロドロになって帰ってくる、そんなオスネコを見るにつけ、そんな彼らの本能の誇りを人間が勝手に取り除くのは、人間の傲慢ではなかろうかと思う次第。

以上がさしあたってのわたしの考えだが、くわしい方、よく観察されている方、実際にネコの世話をしている方から意見を聞けば、再考することになるかと思う。

ところで、先ほどは株価とネコのはなしをはさんだが、株価はともかく、地価はネコにとって敵である。ひとたび高騰して木造二階建てが減ると、街ネコは確実に棲家や子育ての路地や、通行の屋根を失うからである。食は、人間とネコの相互の工夫でなんとかなることも多いのだが、住となるとさらにむつかしい問題だ。

 2015/11/19
 若井 朝彦(書籍編集)

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2015年11月16日月曜日

「異文化との接点」考

「異文化との接点」考

先日12日、『「現代とカントル」考』を書いたときのことだが、その中にわたしは、ふとこんな言葉を挟んでいた。
(日本を西洋に含めていうのだが)人生の意味はカントルの生きた時代よりもなお希薄になっているのではあるまいか。
ここで「日本を西洋に含めていうのだが」といったのは、婚姻の形態、緩やかな父系社会、男女平等の理念、教育の尊重、文化財を通じての歴史の保存、戦争に対する態度、宗教についての無関心に近い寛容、などから言えば、日本は西洋とほぼ等質とみてもいいだろう、という程度の意味であった。そして、わたしには中東イスラム圏の人々の人生観は、とても見当もつかない、という気持ちであった。

したがってパリでテロが起これば、わたしは、日本で起こったことのように思わざるを得ない。フランス人は同意してくれないかもしれないが、日本の習慣や文化や制度が攻撃されたのとほとんど同じだからだ。今日の夕刊もそうだったが、明日15日の朝刊の一面が、11月13日のパリの同時テロのニュースで埋め尽くされていることに、きっと納得することだろう。

同程度の自爆テロは中東ではしょっちゅう起こっているが、軒並みベタ記事である。このことに違和感を感じることはなくはない。人命にここまで軽重があってよいものか、と。だがこれもやはり当然ではないか思う。現地で起こっていることについて、なんら解決法を思いつかないわたしは、冷淡な人間であろうか。想像力の弱い人間であろうか。

しかしわたしはなにより危険を嫌悪する。銃口がわたしに向けられることを望まない。もし銃を持っていれば、先に撃ちたいとさえ思うだろう。

だが緊急の場面でなければ、なんとかしてその異文化と接点を持ちたいと思う。どこかに共通の概念はないだろうか。人間として同じような欲望はないだろうか、と。もしかするとこれは、すでにストックホルム・シンドロームの入口なのかもしれないが。

ところで911の実行者の一人は、その前夜、つまり明日は死ぬという日、一人で酒場にでかけ、また快楽にも耽っていたという。

これはアメリカから伝わってきたはなしなので、都合よく創作されたものなのかもしれない。死を前にした破戒。しかしわたしは、フィクションかもしれないこのはなしに、かすかな接点を感じる。明日の天国よりも、いまこの現世を貴んでいるという瞬間が、彼にもあったのではないか、と。

またわたしはいつも思う。原子力発電所を安全に運転するためにも、また廃炉にするためにも、いずれにせよ今まで以上にその専門家を、技術者を増やさなければならない。思想でも同じことである。イスラムと対話し、またイスラムを競うためには、その専門家を、増やさなければならない。

深い理解と多くの接点がなければ、正しいものであれ、また結果的にまちがったものであれ、解決法すら立てられないのである。

2015/11/14
若井 朝彦(書籍編集)

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2015年11月14日土曜日

「現代とカントル」考

「現代とカントル」考

今日のこと、調べごとがあって、二条城に出かけたのだった。そのあとお城の外に出て、東に歩くと、すぐのところに京都市立芸大のギャラリー(略称は『@KCUA』なのだそうだ)がある。表の案内をみて驚いた。カントルについてなにかやっている。
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展示のタイトルは『死の劇場 カントルへのオマージュ』。ポーランド人カントルは1915年生。1990年クラクフで亡くなっているのだが、その生誕100年を記念してとのことだ。

しかし驚いたといっても、タデウシュ カントルのことはわたしもよく知っているわけではない。帰宅してネットを叩いたが、ほとんど情報は出てこない。この企画をした@KCUAのページにすこしあるくらいだ。

わたしの記憶にあるのは、1980年代に来日して『死の教室』を公演。展示のパネルによるとこれは1982年の利賀村の演劇フェスティバルでのこと。東京公演もあった由だ。

その解説にはなかったが、これはたしかにNHKで放送された。わたしはそれを見た。収録は東京公演の方ではなかったかと思う。この印象が今もまったく消えていない。

不条理劇がだいたいそうであるように、その内容を言葉にするのはむつかしいが(簡単に言葉にできるようだったら不条理劇ではない)、喜劇が笑いによって、悲劇が涙によって何かを表すように、カントルはその『死の教室』で、わだかまりや、無気力によって何かを観客に突き付け、巻き込もうとしていたのではないだろうか。いまにしてそう思う。

死が無意味になることを嫌悪しているのかもしれなかったし、また逆に死の意味付けを拒絶しようとしていたのかもしれないが、いずれにせよテーマは死にまちがいなかった。

カントルは解釈を拒む藝術家である。きっと藝術という言葉も不興をさそったにちがいないが、それは別として、彼は演劇人であるとともに、絵も描き造形もした。しかし今回の展示は、カントルが残した何か、ではなく、むしろカントルに触発された作品がより多く並べられた。そのような作品たちが、現代の京都にもうひとつの『死の教室』を形造る、ということであろうか。

10月10日からはじまっていた展示を今日になってはじめて気がついたという次第で、突然の、ほとんどハプニングだったわけだが、これはカントルを追想するのには、まったくふさわしいことだったとも思う。

期日はあとすこしで11月15日まで。(日本を西洋に含めていうのだが)人生の意味はカントルの生きた時代よりもなお希薄になっているのではあるまいか。かつて『死の教室』を見た方、関心のある方にお知らせしたくなりとり急ぎ記事にしてみた。
(東京芸術劇場でも没後100年の記念企画があるようだが、こちらは名前を「カントール」としているくらいなので、京都の展示との関連はない模様)

ところで、暗いこの会場にはヴィデオ作品も多く出品されていたが、その一つの前に、暗い色の一人座りのソファーがあった。画像を凝視しようとそれに腰を降ろすと、係の人が静かにこちらに向かって歩いてきた。

「これは装置の一部ですから、お座りにならないでください」

現代アートでよく起こる、お約束の光景。

2015/11/12
若井 朝彦(書籍編集)

2015年11月7日土曜日

「サラダを見たらわかる」考

「サラダを見たらわかる」考

職人話を耳にするのが好きである。本人たちは右から左に、普段の通りに話しているつもりかもしれないが、その道に疎いわたしにしてみれば、あとあと役に立つ金言があったりして聞き逃せない。
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かなりむかしのことだが、年配のコックやベテランのウエイターの雑談にまぎれこんだことがある。話がふと、

 「やっぱりサラダやろな」
 「そやそや」

という展開になった。ご存知の方もあると思うが、きちんとしたレストラン、味のたしかなレストランかどうかは、サラダの扱いを見ればだいたい見当がつくというのである。

その場にいた経験豊富な人たちの言うことに、その時はいまひとつ理解が及ばなかったのだが、印象に残ったのでずっと忘れないでいた。日替りの安いランチなんかを食べるときに、小さい皿(厨房では「ぺティ皿」などと和製仏語? を使ったりする)で出てくるサラダを注意して見るようになったものである。

しばらくすると、これがかなり確度の高い言葉だったことが理解されてきた。そこで関係者に、すこしずつ、遠回しにたずねてみて、根拠を探ってみることにした。あんまり直接に質問すると、テレがあるのか教えてもらえなかったりするからだ。そんな意見を寄せ集めると、だいたいこんなことになる。

「一番の下っ端にさせる仕事がきちんとできているかどうか。丁寧であるよりも手早く盛らないとサマにならないので、その店の能率もわかる。肝腎なのは、手を抜きやすいところで手を抜いていないこと」

もちろん異論も多いだろうし、これがいつでもどこでも正しいとも思わないが、素人目に見て手を抜いてもわからないところでも手を抜かないというのは、きっと職人仕事の真髄なのだろう。しかしファーストフードのチェーン店だって、(利用者から見て)これは無関係な話ではないと思う。

これと似た話に「索引を使ってみたらわかる」がある。これはじつは、古書の値踏みの秘訣である。

古書には相場というものがある。現在では、もうそんなものは崩壊してしまったが、かつては相場というものがあったのである。

「○○年発行の漱石全集箱付月報付全巻揃美本」でならいくら、といった類ものである。古書の世界で生きてゆくのには、これを知らなければならなかったわけだ。

しかし古書店の主にしても、得意と不得意はある。不得意の分野の本の値付けをしなくてはならない、そんな時、たとえば索引をチェックする。著者も編集者も書店もしっかり力を入れた本は、(もし索引があれば)きちんとした索引になっているはずだ。

最悪なのは、巻末にページが余ったので(最近の製本事情では、ほとんどこういうことは起こらないが)、そのページの分だけ索引にしました、という本。こういう場合は、必要な項目が確実に欠落している。安心して引けない索引は、見栄えのためだけのもので、罪悪ですらある。ない方がはるかにマシ。

翻訳書の場合、原書にはあった索引が省略されていることがじつに多い。しかし丁寧に索引を作成している翻訳書もなくはない。稀には、原書よりも精確な索引を作る例すらある。こういう場合、翻訳者(たいてい大学の先生)は、その本が長く使われるはずだし、そうあるべきだ、と判断したとみてよいのである。索引まで手を抜いていない本は立派である、ということ。

索引がなければ目次の出来を確かめること。またノンブル(ページ番号のこと)の見やすさなどもチェック項目に入れてよいだろう。

さて今回もまたまた現実離れした話題になったが、世の中偽装や手抜きが横行していて、それも大規模であったり組織的であったりで、鬱々としてしまうことが多い。そこで毒消しになるような記憶をたどってみたのが上記。

しかし厨房ばなしはともかく、古書のはなしは、すでに歴史的になってしまっていて、京都でも、新刊書店も古書店も、一軒、また一軒と閉店が続いている。

 2015/11/05
 若井 朝彦(書籍編集)

2015年11月1日日曜日

「マニュアルとその魂」考

「マニュアルとその魂」考

【マニュアル】は、ふつう「手順」「手引き」などに訳される。

接頭辞「manu-」はもちろん、manualそのものも、本来が「手」「手先」を意味していることから、これはなかなか座りのいい訳語だと思う。とはいえ、現在の日本で【マニュアル】といえば、収拾のつかないほど多くの意味を背負わされているのではないだろうか。

作業の効率確保を主とするマニュアル(「効率マニュアル」)も、品質の管理を主とするマニュアル(「品質マニュアル」)も、作業における危険の排除を主とするマニュアル(「危険排除マニュアル」)も、ひとくくりである。しかしたとえば「サラダ盛付」のマニュアルも、1999年に臨界(突破)事故を起こしたJCOの「ウラン燃料製造」のマニュアル(または事故を誘発した裏のマニュアル)も、同じマニュアルの類として一律に扱うのは、無理があるとわたしは思う。

大学の産業関係の学部学科では、このあたりの事情は、どうなっているのであろう。

マニュアルそのものが研究対象となっているという前提ではあるが、マニュアルの作成法、マニュアルの使用徹底のための指針、マニュアルの使用確認のための調査法、といった具合に、マニュアルをシステムとして捕捉できているのだろうか。

また、マニュアルに反した工程が発生する度合いをあらかじめ想定し、その分の安全の余剰を見込むなどといった設計思想は、存在したりするのだろうか(これは畑村洋太郎氏の『失敗学』にいくぶん近い発想かもしれない)。

いずれにせよ、どんなマニュアルであろうとも、使われて、そして守られてこそであろう。鍛え上げられたマニュアルがあるとすれば、遵守されつつ改良が続けられたものであろう。

しかしマニュアルは簡単に覆る。とくにノルマというものは、容易にマニュアルを突き崩してしまう。監視をすり抜け、検査をごまかす。それは「品質マニュアル」だけでなく「危険排除マニュアル」であっても同様だ。

「効率マニュアル」の遵守は、実施の確認だけでよいかもしれないし、統計だけで足りるかもしれない。「品質マニュアル」は実際に検品をすれば、その実態が分かる場合も多いだろう。だが「危険排除マニュアル」はそれだけでは不十分である。遵守不足の結果が出てしまった場合は、もう手遅れなのだから。

「危険排除マニュアル」ではマニュアル使用者の事前の理解が欠かせない。何のために守るのか、守らなければ何が起こるのか。これは先に触れたJCOの事故の教訓である。

あの事故の場合、現場が「核分裂の連鎖反応」「臨界(安全)設計」という言葉を知っていたかどうか。知らなくてもできる作業だったようだが、知らなくては安全が確保できない作業だったことは明らかだ。知った上で、それをマニュアルと結びつける必要があった。なにも物理学の講義をするまでもない。マニュアルと一緒に、「なぜこの工程にはこの制限があるのか」を説明しておけば済む程度のものだっただろう。論語の子路篇にも以下の通り。「教えずの民を以て戦うは、これを棄つという」

ことわざに「ほとけ作って、たましい入れず」があるようにどうやってマニュアルに命を込めるのか。今般のビルの基礎工事の偽装では、多くの人がその結果や不明瞭な説明に苦しんでいる。しかしその原因の調査から、将来なんらかの教訓が得られれば、まだしも救いがある。

 2015/10/31
 若井 朝彦(書籍編集)