2016年12月28日水曜日

PPAPとリズムとナンセンス

PPAPとリズムとナンセンス

いまさらながらだが、PPAPが癖になっている。

それこそ最初のころは、

「ピコ太郎っていったい誰」

だったわけだが、それから何度も聞くうちに、シンプルなように見えて、リズムに仕掛けがあって、飽きるということはなくて、プロデューサーの『古坂氏』とピコ太郎(藝人にとって最高の敬称は敬称抜きで呼ばれることだろうと思うので、敬称抜き)の音の引出しの多彩さと、その多彩さに引きずられないサジ加減の上手さ、ブレンドの巧さに気がつきはじめたのが今。

序奏は4ビート。4小節でひとつのブロック。これが2度くりかえし。単純でありきたり。ちょっと油断させている。

セリフ? が入るともっと単純な2ビート。ところどころでアクセントに変化が入って、途中「pineapple‐pen」で刻みが細かくなって疑似8ビート。

で、最後に見得。「pen‐pineapple‐apple‐pen」で変化をつけた16ビート。おやおやという間に乗せられてしまう。

この「pen‐pineapple‐apple‐pen」がリピートして、最後は小噺のサゲみたいにサッとおしまい。この間約60秒ほど。

割り切ってしまえばこれはナンセンス藝なのだが、ナンセンスほどセンスやリズム感が要るものもない。ギャグに合わせてコケル藝だって微妙な間で成り立っているわけで、タイミングを外したら、舞台客席とも瞬間冷凍である。

ナンセンスには意味も思想もないが(ほとんど同義反復。しかしこれは澤田隆治氏の「ナンセンスには意味はありません」という名言の借用の焼き直し)、意味だらけの世間や生活や職場を、ナンセンスは一瞬真空にしてくれて、無用のこわばりをリセットするのだ。(それゆえ、超独裁国家ではナンセンスは生息が極めてむずかしい。)

しかしこんな風にしてナンセンスというものに意味や意義を求めすぎると、ナンセンスが野暮なハイセンスに化けてしまって、その価値を削いでしまいかねないので、はなしを少しずらすが、わたしの以上の年代の者は、PPAPを聞いて、ああこれはトニー谷だ! と思った人も多いのではあるまいか。

実際検索をかけてみると、とっくに日刊ゲンダイのオンラインが、その線でピコ太郎を扱っている。

『ピコ太郎の原点? 往年の芸人「トニー谷」と数々の共通点』(2016年11月6日付)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/193321

わずか数ヶ月で、週刊誌に揶揄られるだけピコ太郎が偉い、ということだが、しかしもし、誰かがトニー谷をなぞったとしても、それでサマになるのは滅多にないことだし、ましてそれで爆発的に売れるなんていうことは、ほとんど起こり得ないことだ。やっぱり『古坂氏』とピコ太郎の勝ちなのだ。それに『古坂氏』とピコ太郎には、往年のトニー谷以上のリズムの「持ちネタ」がまだまだあるはずだ。

しかしリズムというものは、とことん強い。「音楽は世界の共通語」とか「音楽は国境を越える」といった成句があるけれども、これらはほとんど本当ではない。ただ、リズムとなると、そんな壁を簡単に越えてゆくことがある。速くて細かくてアクセントが強くて、繰り返しがしつこいと一層効果的で、これは『運命』(ベートーヴェン)だって『ヴァルキューレの騎行』(ワーグナー)、『トルコ行進曲』(モーツァルト)、『イタリア』(メンデルスゾーン)だってそうだ。したがってその分用心も必要で、政治家のワンフレーズだって、シュプレヒコールだってリズムがその良し悪しを決めていたりする。

ところでピコ太郎は暮の紅白に登場。わざわざPPAPを封印することはないだろうが(それはそれでおもしろいかもしれない)、まったく同じヴァージョンではないはずで、どんなリズムのひねりを入れてくるのかと、とても楽しみ。

2016/12/27 若井 朝彦

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2016年12月18日日曜日

當る酉歳・顔見世先斗町興行

當る酉歳・顔見世先斗町興行

暮の京都というと、これは南座の顔見世である。芝居好きが、他の街と較べてとくに多いということもないだろうが、南座は、藝どころの花街と背中合わせの一体で、やはりここに大きな芝居が立つと、四条界隈の空気も変わる。京都市街にとっては、なくてはならぬ、にぎわいの要穴である。

ところが本年年初のこと、南座は休館する旨、経営の松竹から突然広報があった。

「改正耐震改修促進法による耐震診断を実施した結果、安全性向上を図る工事を検討することになりました」
http://www.shochiku.co.jp/notice/play/2016/02/015421.html

という次第。

松竹は、京都での興行の一部を、すでにすこしづつ他の劇場に振り替えはじめていたから、その兆しがなかったわけでもないのだが、やはり驚かされた。しかしわたしが、自宅にいるのと、南座で芝居を見ているのと、どっちが危険かと問われても、どっちもどっちだとしか言えない。鉄筋コンクリートで八十何歳の南座よりも、京都にはもっと老齢の木造住宅も多い。この

「改正耐震改修促進法」
http://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/build/jutakukentiku_house_fr_000054.html

というものは、はたして大多数の安心安全を主眼にしてできたものなのかと、わたしにはどうしても疑念が生じてくるのだが。

耐震問題はこの程度にしてはなしは今年の顔見世に。もし南座が休館したとしても顔見世がなくなる、とはだれも夢にも思わない。1990年から翌年にかけて南座が大改修をした際には、祇園甲部歌舞練場に会場を移したという例もすでにある。しかし今回は甲部には持ってゆかれなかったにちがいない(サラリと理由は省きます)。なんと先斗町の歌舞練場に持ってきた。ところが南座約1000席に対して先斗町は約500席しかない。

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その南座だって歌舞伎の小屋としては大きい方とはいえない(現在の歌舞伎座1800、国立劇場1600はもちろんだが、江戸三座にしてからが2000人は入ったものもあったと、森鴎外と三木竹二などが表にして示していたほどだ)。それをもっと小さい劇場で、客席も半減。チケットは値上がりしはしないのだろうか。それより演目はどうなるのか、と芝居好きは皆それぞれに心配したのだが、松竹は、顔見世の昼の部、夜の部の二部制の興行を、一部、二部、三部の三つに切り直して、チケットの単価の高騰を防いだ。また演目についていえば、南座の回り舞台のようなものは先斗町にはないので、装置や転換の大がかりな狂言は避けた。演出についても同様。

以上は松竹の止むを得ぬ措置とはいえ、じつはこのことに期待する向きもあったのだ。小さい小屋の芝居でだったら、どの席からも役者が近い。舞台の役者から見ても客席が近い。芝居もおのずとちがうものになるはずだと。

わたしが見たのは中日を過ぎた頃ということも手伝って、元が人形浄瑠璃の丸本物など、南座での上演とはちがった、独特の間が生れていたように思われ、なんとも言えぬ濃い芝居になっていた。あえて冷静に抽象的に書くけれども、この親密な空間で、あんな所作の芝居をされたら、気持ちがふっと向こう側に持ってゆかれそうになる。

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興業もまだ一週間は続く。またわたしが出かけた日は、NHKのカメラが入っていたようだったから、その収録分も例年通り年末に放送されるだろうが、来年の顔見世は一体どうなるのだろう。

わたしとしては、やはり南座に戻ってもらいたい。しかしそう思う一方で、小さい劇場の密度の高い芝居も捨て難い。実に悩ましい。

また今年の三部制よりも、元の昼夜の二部制の方が、断然腰をすえて楽しめると思う。そうは思うものの、今年の夜の部は、開演が5時45分ということもあって(二部制だったら、普通は4時前後に開演)、そのせいか客席も若返ったようで(ご老齢のファン皆さまには申し訳ありません)、また男性も多く、その男性も一人で来られる方も多く、これはこれで成功していたように見えた。東京の劇場が三部制で回している理由もこのあたりにあるのだろうか。

松竹としては、南座を休ませた上にも、客席数の少ない他の劇場を借りているわけで、その負担も並のものではないだろう。しかし当の松竹からは「安全性向上を図る工事を検討することになりました」に続くお知らせはなく、いま事態がどこまで進展しているかは、まったく以って不明。

歌舞伎座の建て替えのように、高層ビルの膝元に劇場を収めるのは、京都で、ましてあの立地では完全に無理。かといってあの外観を保ったまま耐震化工事ができるものだろうか。劇場の内部構造も絡んで、容易なことではあるまい。松竹にも難問なのかもしれない。

2016/12/17 若井 朝彦

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2016年12月13日火曜日

創作と盗作の間で

創作と盗作の間で

柔軟で、捉えどころがなくて、その姿をどんどん変えてゆくネットというものの上で、途方もないほどの情報がやりとりされて、その情報が大量に複製される一方で、紙による出版というものがその主座から去ろうとしているいま(記録を確定させる力と保存性ではまだまだ捨てたものではないが)、創作と引用と参考と模倣の境界は曖昧になるばかりだ。盗用盗作はもちろん論外だが、オリジナルとはいったい何なのか。

著作権法やその解釈、判例ももちろんあり、おおむねその示すところにしたがって判断して行動しているわけだが、今後も次々とあらわれるであろう事態に、このままでどこまで追いついてゆけるものなのか、心許なささえ感じる。

しかし創作、創造、新発見、というものであっても、先行著作、文化の蓄積と無縁のところからは、まず生まれてくるものではない。オリジナルといっても、その基盤は、もともとが微妙なものなのである。

たとえば現地現場にでかけて、調査し、ルポするという行為であっても、ルポにはルポなりの作法というものがある。無秩序に情報だけを並べても誰も読んだりはしない。

一人の小説家が、かなり奇矯なものを書いたとしても、小説という形式からは簡単に逃れられない。またそれ以前に作家は、文法、正書法、書式、印刷形態、造本というものと、完全に縁を切ることもできない。普通があってこそ、作家作品の突飛が目立つのである。

画家の筆がどんなにあばれても、たいていは方形のカンヴァスか紙の上のことに過ぎない。むしろ四角い境界があるからこそ、画家は暴発も可能だ、というべきであろう。じつはこの点では、プロレスとかなり似通っているのかもしれないが。

現代においても、模倣やすでに確立された形式の中から、部分的な独創や発見や意見が生れてくるのであって、だから模倣や参考や引用を軽々に恥じることはないのだ。(わたしが今書いている内容だって、同様のことは、もちろん多くの人がすでに書いている。何らかの値打ちがあるとしたら、今現在あらためて書いている、という事かもしれない。)

そこでわたしはだいたい次のように考えるようにしている。

まず学術的な著述に関して。

たとえ先行する論考や資料の整理に過ぎないものであっても、有益な視点が加わっているのであれば、それはすでに一個の論考であると。

これは引用の例だが、吉田秀和はその手では名人で、ただし引用文をしばしば勝手に書き換えていた。吉田はその都度、

(×××著・△△訳 『○○○○』から自由な書き換え)

という風に注記するのがつねであったが、それでトラブルがあったとは聞かない。たいていの場合は吉田の添削によって、引用の目的は明解になり、そして引用元のオリジナルも映えたからである。ほとんど引用藝術だったのだ。

そして藝術作品に関して。

たとえ先行する作品からの大幅な模倣であっても、オリジナルの持つ魅力を凌駕していたら(または別の次元で展開していたら)、それはすでに独立した作品であると。

したがって優秀な模倣の下敷きにされてしまったオリジナルは、たいてい情けないことになってしまうものだ。しかしもっと惨めなケースは、魅力に欠ける模倣(盗用)作品が、そこそこヒットしてしまった場合である。この場合は隠れようがない。服部克久氏の『記念樹』がそうだったと思うが、良心の有無以前に、腕前の良し悪しがまぎれもなく顕わになってしまう。もし『記念樹』の方が、(合唱編成と器楽編曲と録音とを含めて)オリジナルより優れた作品になっていたら、あれだけメロディーラインを踏襲していたとしても、「盗用」の声は挙がらなかったにちがいない。いまもわたしはそのように考えている。

この2016年12月現在、槍玉に挙がっているキュレーションなるものにしても、適切に広く集め、見通しのよくなるように並べ、各々の説に注釈を施し、参照すべき事柄にも触れる、といったやり方でやれば、これは立派に人の役に立つものである。誰が集め、何を参考にし、どこから引っ張ってきたかを明示すれば、堂々とした著作物である。

ネット以前、1990年前後までは花形だった『現代用語の基礎知識』にしろ、おおむねそういう形態で編集されていたのであるし、この『現代用語の基礎知識』には、さらに模倣同種の『イミダス』や『知恵蔵』が一時追従していたのも、よく知られる通り。

しかしネット上の情報の増殖は、印刷出版の比ではない。その量と速度のもの凄さに、著作権法はすでに息切れをしているように見える。とはいえ、今回、盗用指南とその粉飾手法まであきらかになった「welq」等の例が示したように、問題があれば法が追いかけるよりも先に、ネット上で放置はされない場合もあるということだ。

今後もいろいろとカラクリのあるメディアは現れるだろうが、広告のサイトであれ、報道であれ、政党や組織のキャンペーンであれ、それがネット上で展開される限りは、何かをこっそりすることは、もはや簡単にはできなくなってはいる。

2016/12/12 若井 朝彦

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2016年11月18日金曜日

ロビュションと「旬」の思想

ロビュションと「旬」の思想

すこし古いはなしで恐縮だが、先月10月25日の朝のこと、テレビをつけるとチャンネルはNHKだったもので、8時すぎからの『あさイチ』がはじまったところだった。

いったい朝の番組でどんな特集をすればそんなことになるのか、どうもよく判らないのだが、おどろいたことに、その『あさイチ』にロビュション氏が登場した。

ほかでもない料理人のジョエル ロビュションである。あこがれのまなざしを向ける若い調理学校の生徒たちを前に、朝から陽気に腕前を披露して、『ジャガイモのピュレ』と、(これは新作の創作として)『ご飯のガレット・目玉焼き乗せ』(NHKの説明によると『目玉焼きを乗せたガレット』)を作ってみせた。

わたしのロビュション経験といえば、これはまったくおはなしにならないなもので、恵比寿にタイユヴァン・ロビュションが開店してすぐに、カジュアルな方の一階の「カフェ・フランセ」で牛頬肉のミジョテのランチが一度と、その数年後に(これはきちんと二階での)昼のコースが一度きりだ。

そんな20年ほども昔の経験で、とてもロビュションの料理を語る資格などないのだが、しかしその時にメインで出された仔羊の料理のお皿に添えられていた『ジャガイモのピュレ』の印象は、いまも新鮮で、とても忘れられたものではない。テレビを見て、まざまざとその口に含んだ時のおどろきがよみがえってきた。

ところで氏には著書も多い。『ロビュションの食材事典』(監修・服部幸應、翻訳・福永淑子、柴田書店1997)はそのころに購った一冊で、愛読書なのである。ロビュションに全然食べにはゆかれないけれど、写真と文で楽しみましょうというわけである。
(当時の日本には、まだバブルの名残のようなものがあって、ロビュションが日本に店を出したのもそんな流れがあったからなのだが、画集のような料理本の出版も比較的容易だった。)

テレビでしゃべっていたように軽妙で、歴史に根ざし、食材への関心感謝に満ち、信仰の裏打ちもあって、読んでいて飽きることがない。その一項目と料理の写真を紹介(引用)してみよう。
「そら豆」

東洋原産のそら豆は、父祖伝来の野菜。古代ギリシャ・ローマの時代から栽培され、聖書にも、マハナイムにいたダヴィデ王に貢がれた食べものの中に大量のそら豆があったことが記されている。

どんな料理にするにしても、そら豆は絶対に新鮮でなければ困る。見分けるこつは、簡単。莢の上からさわるだけ。中に豆が入っていることを確かめればよい。莢がふっくらとしていても中が空なことがあり、よくだまされる。

・・・(調理法など中略)・・・

偉大な食材の例にもれず、そら豆にも象徴的な意味がある。1月6日前後の日曜日に行われるカトリック教の祝日、公現祭の食事では、最後に出される菓子<ガレット・デ・ロア 王様の菓子>の中に乾燥そら豆が隠されている。これから生まれる生命、萌芽をあらわしているという。結婚式では、そら豆を神へ奉納し、こども(そら豆)を授かりますように、家族の血筋が永遠に続きますようにと祈った。春がめぐるたびに生まれるそら豆、それ自身が永遠の象徴ではないだろうか。
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この一節だけでは紹介しきれないが、ロビュションには、日本の「旬」の感覚とも似た思想が身体に備わっている。この本を手にとるたび、わたしはいつもそう思う。きっとこういうこともあって、氏は日本と相性がいいのだろう。

日本でも、たとえばアワビでもって、ロビュションと同じような語りができるのではなかろうか。神話から説き起こして、長崎俵物で輸出されたアワビ、また途中には落語の『祝熨斗』をからめもし、今年2016志摩サミットで饗された高橋忠之シェフ由来のアワビのステーキのことなどなど。

ところで氏は今度は、日本酒のフランスへ紹介と輸出に精力を傾けるようだ。ネット上のニュースでも、かなりの記事が目に入ってくる。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFB28H4C_Y6A021C1000000/
http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10105/315074

「旬」といえば、普通は季節の旬のことだが、人にも物にも旬というものがある。そういった意味で、ロビュションは日本の「酒」の旬というものを見つけたのだな、とつくづく思う。(ボージョレー2016解禁の日に)

2016/11/17 若井 朝彦

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2016年10月17日月曜日

蓮舫氏問題の今後の重要性

蓮舫氏問題の今後の重要性

現在、民進党代表である蓮舫氏の問題は、早ければここ数日、遅くとも数週の内に、その本質の輪郭が、だれにとっても明瞭になるものと思われる。

そうなればそうなったで、今まで曖昧な表現で蓮舫氏擁護を続けていたいくつかのメディアも、突然「われわれはだまされていた」とうわずった声を上げるかもしれない。またしてもそんな場面に遭遇すると思うと、まったくうんざりだが。

しかしそんな大手マスコミはともかく、日本にとって肝心であるのは、その後ではないだろうか。

この問題は、最初はほんとうに小さな問題だった。政治家としての蓮舫氏一個人の問題であり、せいぜい民進党内部の問題であった。そう考えていたわたしは、

「どんな爆弾を抱えているにしても、民進党のみなさんが、蓮舫氏を代表にお選びになるのなら、それはそれで結構でしょう」

と傍観していた。

しかし蓮舫氏が、「日本にとって中国とは中華人民共和国のみ」という「一つの中国」論による弁明を突然表明した時は唖然とした。

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(上は野嶋剛氏による単独インタヴュー・2016年9月9日掲載のヤフーニュース『国籍放棄問題の渦中にある蓮舫氏』http://news.yahoo.co.jp/feature/349より引用。なおインタヴューがあったのは前日とされる。)

これは到底通用するような議論ではなかったのだが、このことによって、本来的には一個人の日本における法律上の問題を、ほとんど外交問題にしてしまった。

日本においては中華民国つまりは台湾は、法的に国として扱う必要がない旨を、台湾に一方のルーツを持つ蓮舫氏がわざわざ明言してしまった。これはやはりある種の裏切りであろう。

日本と台湾との、とりわけ民間における、デリケートではあるが良好な関係に、容易に修繕できないヒビを入れたと言っても決して大げさではないはずだ。まったく政治家としての資質にかかわる発言であった。

だがこの発言は、もし蓮舫氏が一民間人となったとしても、なかったことにできるものではないだろう。このことを根拠に今後、蓮舫氏を殉教者にしようとする集団もあらわれるかもしれない。

またすでに本人が、たとえ冗談にせよ

「私は岡田克也代表が大好きです。ただ一年半一緒にいて、ほんとにつまらない男だと思います。」
(2016年8月23日・日本外国特派員協会での発言)

と言ったように、今後、出身党である民進党を、台湾を、日本をなんと言うのか判ったものではない。

この問題は、まだまだ慎重に扱わざるを得ない。「二つの日本」というものを望んでいる国は、たしかに存在するからである。

2016/10/16 若井 朝彦

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秋

2016年10月1日土曜日

京都市〇〇〇売ります(後)

京都市〇〇〇売ります(後)

京都市〇〇〇売ります(前)」では、

1. 京都市が京都市美術館の命名権を販売すること。
2. それが入札ではなく、金額は二の次であること。
3. 前例同様、市長をはじめトップセールスが可能であるようだ、ということ。
4. 最終的に判断するのは委員会ではなく、市長をはじめ京都市だということ。

を説明したのだが、ここで研究である。もしかすると今後京都市長を目指す人も、この記事を読んでおられるかもしれない。ケーススタディーとして、上記のような4条件の場合においては、「この企業が応募してくれれば、あなたにとってあとあとが好都合」という例を二つ紹介したい。ぜひとも参考にしていただければと思う。

なお見出しは、ケーススタディーの想定上のこととして、命名権売却後の仮の名称を使っている。

大礼記念京都美術館銘
(「京都市美術館」は当初、昭和天皇ご即位ゆかりの「大礼記念京都美術館」であった。上はその来歴を示す銘板)

・想定その1 京都市JR東海美術館

現在京都市は、JR西日本とすこぶるよい関係を保っている。同社の京都の目玉である「京都交通博物館」、その今春のオープンに際しては、市長みずから率先して宣伝役を勤めた。

このJR西の立場に対して、同じ鉄道でも、阪急、JR東海と京都市とは、そういう良好な関係にあるようにはとても見えない。とくにJR西と対峙する阪急に対しては、中心部の不動産開発について、京都市がダイレクトに要望書を送りつける例さえある。

また「京都商工会議所」の「観光・運輸部会」、「京都市観光協会」ともなると、人事においてもJR西の優位が通例だ。そんな事情もあって、観光において奈良に南進気味のJR東海も、やはり京都の市内の文化施設に橋頭堡を作りたいのではあるまいか。

また京都市、京都府、会議所にとって、(なにをいまさらだが)リニアの京都誘致は市是であり府是であり所是となってしまっている。JR東海の引き入れに成功すると、(リニアが本当に来るかどうかは別としても)与党の支持は暫時高まる。市議会は与野党総じて美術館の命名権には反対しているが、その議会対策に極めて有効である。

けれども現在、そのJR東海と、京都市京都府とのリニアのパイプは、ほぼ閉止状態。かつてはJR東海の初代社長であった須田寛氏との接点もあったのだが、ある時ひどく怒らせてしまった。しかしである、須田氏は京都市出身であるだけでなく、画家須田国太郎氏の子息であって、(現在の名称)京都市美術館はその須田国太郎の優品を多く有している。現に4年前には須田国太郎の回顧展もここで行っている。話のいい接ぎ穂はあるのだ。

JR東海が本気になれば、50億は安いものであろう。もしこの企業が本命であるのであれば、予定価格を、倍の100億ほどにしておいた方が無難かもしれない。他社参入の阻害のためである。ただ問題は、JR東海がリニア蒸し返しを嫌った場合であろうか。

これは相手次第の案件ではある。しかしもしあなたが市長の立場にあるとすれば、アプローチするだけの値打ちは十分にある。

もっともJR東海は、近日取沙汰されている、二条城の天守復元計画の方に関心があるかもしれない。その命名権とともに、優先利用権も併せて獲得できれば、その方がJR東海にとっては申し分なしであろう。

・想定その2 京都市オムロンミュージアム

現在3期目の京都市長は、政党人からの支持が強いとはいえない。伊吹文明衆議院議員は2016年年初の市長選挙でのこと、街頭での応援演説の際、市長である候補者の隣に立って

「いまの市長は、もっと市民の意見を聞かなくてはいけません。しかし対立候補が当選してよいものでしょうか」

といった風に話をはじめるといったありさまである。しかし京都商工会議所幹部は、現市長の応援には熱心だ。ばらばらになりがちな与党の結着剤のようなところがある。いずれの都市であってもそうだろうが、商工会議所の影響力は侮れない。その京都商工会議所の現会頭が立石義雄氏。

立石会頭は、オムロン(元は立石電機)の第二世代。創業者の子息である。同じ電機関係といってもオムロンは、京都会館の命名権を購入したロームの倍の規模はある会社である。

京都では、ほどほどの会社でも、画家を援助応援したりするところはある。だが、会社の大きさの割りには、オムロンからはそのような話はあまり聞えてこない。しかしここで美術館に50億出すとなると、状況は一気に改善される。募集するあなたにとっては「売り手よし」、オムロンにとっては「買い手よし」であるはずだ。

ただこのケースで想定される難点は、オムロンがこの50億に価値を見出してくれるかどうかだ。もっとも「京都会館・ローム」の場合のように、今回も内々で商談が可能な状況が確保できているのであれば、打診や勧誘や応募要項の調整は、いたって楽なはずであろう。

けれどもオムロンが一旦に応募するとなれば、むしろ「ロームが京都会館に50億だったのに、我が社も同額の50億でよいのか」ということになるだろう。そこはすこしは色をつけて60億でどうだろう。しかしそれだけでもまださびしいので、要項にもあらかじめ書かれていたように「50年内」の「内」を活用し、期間を短縮して30年。1年あたりでは2億ということにしておいて、年間あたりの単価はロームの倍。このあたりで手を打てれば、会社の体面も保てて上首尾であろう。

やや膨らんだ支払いに関しては、これも都合よく募集要項4の(3)にあるように
(支払いは、平成29年度末までの一括納付を希望しますが、リニューアルオープンまでの間での分割納付を希望される場合は別途協議します。)
を適用すればよろしい。

ただ、オムロンのカタカナが名称をゴツゴツとさせるかもしれない。よく知られていることだが、このオムロンというのは、京都の地名、御室(おむろ)から採ってきたものではある。しかしここは創業家の名前をもらって

 京都市 立石美術館

でどうだろう(「京都市立 石 美術館」ではない。念のため)。字面はそれなりに落ち着いている。京セラと稲盛財団との関係のように、オムロン側も立石財団を設立して(既存の法人があればそれを活用して)、地域貢献、文化貢献も併せて唱えば、募集要項の「配点表」に落し込んで、ハイスコアはむろん、オムロンは満点だって射程圏だ。
総合審査
(募集要項より「総合審査」とその配点表)

もっともオムロンは、計画策定が進行中の京都市役所の本館改修、新館増設の方の命名権とシステム導入にむしろ興味があるかもしれない。そちらの方がはるかに実利になるからである。

・・・(以上でケーススタディーは終り)・・・

しかしこうやって2社を検討してみたわけだが、今般の「京都市美術館」の命名権販売の募集要項というものは、表向きは淡彩に見えていながら、これまでの京都市の色々な来歴というか、伏線というか、かなりの着色がある。とくに「配点表」からは、知恵でもって練り上げられたような物語が感じられるのが不思議だ。

さて、本日9月30日が、(この記事の想定の方ではなくて)本物の方の応募締切であった。実際には、どのような企業がどういった内容で応募したのであろう。

2016/09/30 若井 朝彦

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2016年9月21日水曜日

京都市〇〇〇売ります(前)

京都市〇〇〇売ります(前)

京都市は「京都市美術館」の命名権売却を決定して、本年2016年9月30日まで購入希望の法人を募っている。その要項によれば売却期間は50年以内、金額は50億円メドとのことである。その他条件として、かんむりに「京都市」を残すことなど。おおむね「京都市〇〇〇美術館」いうことになろう。

京都市美術館案内板

しかしなんとも長いはなしだ。たとえば売却責任者の門川大作市長が現在65歳であるから、50年後は115歳。京都市には現在20代の市議もいるのだが、50年後には70代である。その昔、京都市で何があったからこうなったのかを、2070年前後にきちんと説明できる人が、その時どれだけいるだろう。未来へのツケ回しなどではない、とはとても言えたものではない。

ところで、この50億50年の想定は、2011年に契約を締結した「京都会館」の命名権売却を参考にしていると言う。

場所が同じ岡崎地区の事だから50億とか言う。数的な算定基準もなく、説得力のない説明が当局からあるばかりだ。ところでその京都会館の命名権の売却では、買い上げは京都の企業、ロームであった。(正確には52.5億)

それは公募によるものではなかった。それどころか、具体的な命名権販売の予告も、その想定すら公表されてはいなかった。いきなりの50年。そしてこれは市側も認めたことだが、秘密交渉によるものであった。詳しい経緯は今も分からないが、トップ級の商談があったことは、市議会の答弁からしても確実だ。

命名権の売却は、地方自治法でいう財産の処分には該当しない、したがって議会承認は不要だという。そのため市の幹部は、約半年の間、交渉の途中経過を、議会与党にも一切相談しなかった。突然の発表を新聞で知った与党自民党の議員は、議会の委員会で市の当局者に怒りをぶつけたのものである。

しかし京都市はともかく、ロームへの風当たりは穏やかだった。「ローム・ミュージック・ファウンデーション」でどれだけ有望な新人を支援してきたかを知っている関西の好楽家は、わたしもそうだが、このことのためにロームを睨むということはしなかったはずだ。ロームの援助を受けた者は、プロフィールにその経歴をよろこんで記す。現在、京都市交響楽団のコンサートマスター、泉原隆志氏もその一人である。

さて、はなしを美術館にもどす。京都市も前回に懲りてか、今回はさすがに公募の形式を採ってはいる。とはいえ、「京都会館」の売却の際と同様に、たとえば京都市長のトップセールス、担当者と応募企業との接触などは禁じられてはいないようである。要項(正式には『京都市美術館ネーミングライツパートナー企業募集要項』)を読む限りはそうだ。

『京都市美術館ネーミングライツパートナー企業募集要項』のpdfファイルは、以下から取得が可能。
【広報資料】京都市美術館ネーミングライツパートナー企業の募集について
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000204820.html

総合審査
(要項より「総合審査」とその表)

選定方法
(要項より「選定方法」等)

やれ公募だ、それ選考に関与する委員会を作って評価だ採点だ、といっても入札があるわけでなし、もし破格の高額を提示したところで、募集要項の「表」にある通り、その配点比率は異様に低い。それに引き換え、名づけの企業についてはヤケにうるさい。

委員会の審査結果に関しても、その公表は、「応募企業名、第一候補の提案内容、全体講評」程度の扱いで済ますつもりらしい。要項の限りでは、委員会の採点や発言が公開されるとは、まったく読めない。「京都会館」の時と事情はほとんど変わっていない。

市が説明するように、市民負担を軽減しなくては、という目的が第一にあるのだとすれば、入札が最善の方法である。これはだれにでもわかる話であろう。透明性も高い。

近年、児童の虐待が問題になることが多いとはいえ、子供の名づけに関していえば、公権力は余程のことがないかぎり介入しない。基本的に性善説に立っている。それと同様で、数十億の出費をする者が、京都市に迷惑をかけるような名前を付ける(またその反動でみずからの価値を毀損する)かもしれないと考えるのは、やはり変であるし、なにより応募者に失礼というものであろう。

だいたい「京都市」の施設に企業名が入ることで、ある程度、名前が珍妙な物になるのは命名権売却の前提であって、「どの名前にすれば傷が軽いか」ということで気に病んだり、名前次第では値段は低くてもよい、というのであれば、もともと売るだけの理由があったのか、と疑った方がよい。

そもそも50億ですべてが解決するのではなく、新館建設と本館改修で(現段階の概算ですでに)100億のプロジェクトでなのである。50+50。(ちなみに「京都会館」ではローム約50:京都市約40の予定が、ローム約50:京都市約60に膨らんだ。)市民負担を避けるために名前を売る。しかし本館が古いままでは名前は売れない。名前を売るためには、派手な施設にせねばならず、そのためには市民負担が50億必要ということだとすると、まったくケッタイな堂々めぐりである。

この特異な募集要項を通じて京都市は、「京都会館」の命名権売却の場合とほぼ同様に

「金額ではありません。売りたい相手があるから売るのです」

と宣言しているようにさえわたしには見える。

(しかしこれが東京都での出来事であったなら、今頃、この案件、どれだけテレビ新聞雑誌に露出していることだろう。いや、いまさら「既存メディア」でもないか。)

・・・以下は月末の「京都市〇〇〇売ります(後)」に続きます。その(後)では、「もしこの企業が美術館命名権に応募したら」といった視点で、種々考えてみたいと思います。

(2016年9月30日夕・補)
さきほど応募も締切となりました。それにあわせて
京都市〇〇〇売ります(後)
をアップしました。

2016/09/20 若井 朝彦

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2016年9月20日火曜日

蕪村二つの顔と展示二つ

蕪村二つの顔と展示二つ

春のことだったが、このアゴラに若冲について書かせていただいた。生誕300年記念の展示などでの、ひと騒動からはなしをはじめてすこし語ってみたのだったが、これが同じ生誕300年でも、蕪村の周囲は実に落ち着いたものだ。

落ち着いているどころか、伊丹市の柿衛文庫にしても、天理市の天理大学図書館にしても、昨年2015年の秋の内に、蕪村のしっかりとした展示や、研究成果の公表を早々と済ませていて、実際の300年祭の本年は、各自、静かに迎えましょうという申し合わせでもあったのか、といった状況だ。
(もちろんそんな申し合わせはありません。でも蕪村ファンは、むしろこういった様子に納得しているかもしれません。)

2000年以前の状況であれば、確実に蕪村イヤーとなったはずの今年、若干とはいえ、京都でも、蕪村の優れた展示があるので、その二つをご紹介したいと思う。


その1 京都国立博物館

さきに京博を持ってきたのにはわけがある。館長の佐々木丞平氏は、江戸絵画が専門で、なかんずく応挙、そして蕪村にも責任をもって取り組んでこられた方。世が世であれば、蕪村の大回顧展をこの京博で開催していたことはまちがいないところだ。

今回の展示では特別陳列ということで、自館所蔵のものを中心に十数点のみ。名前の通ったものでは

『奥の細道図巻』

だろうか。ただ、俳諧宗匠としての蕪村のものがまったくない。これはさすがに寂しい。蕪村の書簡や刊本を借りてくる、または所蔵の参考資料などから展示することは、決してむつかしいことではなかった思うだけに、やや残念である。

文人蕪村の足跡ということであれば、同じ京博で2010年にあった「没後200年記念・上田秋成展」が秀逸で、蕪村にも多くの場所を割いており、それはそれだけで「画人俳人としての蕪村展」、といった趣であった。言いにくいことではあるが、その2010年の蕪村の展示の方が、今回2016年の蕪村の展示よりもずっと迫力があった。

2010年は、同時代の画家の業績も大々的に集められていて、竹田、大雅、若冲はかなりのものが出ていたし、また始興もよかった。佐々木館長渾身の企画だったのであろう。(ポスターとチケットにしてからが、応挙の画が大きく刷られていたくらいだった。これが本当に「秋成展」? というほど。)

数年の内にもこういう企画がなされて、蕪村にも、また数多の江戸の文人画人にも、あらためて注目が集まることを期待したいものだ。
(こちらの蕪村展は、もうすぐ期末なのでご注意下さい。)
京都国立博物館


2.角屋もてなしの美術館

この美術館は、春と秋の期間を決めて開館。蕪村の『紅白梅図屏風』『紅白梅図襖』を所有するが、館の宝だけあって、いつもいつも出される、といったものではない。しかし300年の今年は、この梅が期間を区切って交互に展示されている。じつはわたしはこの展示をしばらく待っていたのである。すでに春季に三度訪れている。

ほの灯り 蕪村がむめに 眼をあらふ  立立

もちろんこの梅もすばらしいのだが、この角屋は、かつての京の俳諧連中の拠り所でもあった。ここに残された、種々の手筆などによって、その俳人たちの交遊の拡がりを示す。小さいものがほとんどだが、深み厚みの感じられる展示である。

展示は展示室で行われているのだが、重文である角屋の建物そのものにも上がることができる。蕪村の展示に、月居の『庭松四季句扇面』も出ていたが、これはこの角屋の庭を称えたものだ。そこにしたためられてあった

蓬莱の 松や居ながら 庭ながら  月居

から読み取れるような風情は、その揚屋の奥の庭に、今もしっかり残っていると言える。
角屋の夜

(さて、以上が両館の紹介ですが、全国の皆さん、とくに春の若冲展に並んだ猛者の皆さん、9月下旬の京都はまだ空いている方ですから、ふらっと新幹線に乗るなどしてお越しになり、午前には、京都駅から東に1.5kmほどの国立博物館を訪れ、その後どこかでお昼などして、午後はそこから西に3kmほどの角屋に回り、夕暮れ時にまた新幹線でふらっと日帰りなどいかがでしょう。若冲とは180度ちがった筆致ではありますが、それなりの感興があるかもしれません。とくに提灯を持つというわけでもありませんが、今年が若冲ばかりではもったいないな、と思い、すこし宣伝をさせていただきました。しかしこのプランで稼ぎらしい稼ぎになるのは、博物館と美術館ではなくて、JR東海だけですね。)

2016/09/17 若井 朝彦

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2016年9月12日月曜日

ストビュー撮影車との遭遇

もう先週のことになる。金曜の夕方だった。市街を移動中のこと、風変わりな車が目に入った。パーキングに停まっている。興味を持って、こちらも停止した。

ストビューの撮影車なのである。しかし車体にはかなり傷がある。現役の、本物の撮影車なのだろうか。狭い道に入り込んで撮影するとなると、車体も傷むのだろうな、とは思うものの、それにしても傷だらけである。そしてけっこう古傷だ。サビが深い。昨日今日の京都の狭い路地の撮影で付いたものではない。

カメラは低位置に下げられていてカバーがかかっているし、だれも乗っていない。挨拶も質問も世間話もぜんぜんできない。残念であったが、しかし撮影中の車であったら、こちらの姿も画像として取り込まれていたかもしれない。あまりいい感じはしなかったはずだ。駐車中でちょうどよかったのである。たぶん月曜までここで週末の休息なのだろう。

そういうわけで、当方もこの車を、とくに断りを入れることもなく、公道から何枚か撮影。

ストヴュー車

ストビュー自体、プライバシーの問題で訴訟などになって、写り込みの車のナンバーについてはボカすことになっているくらいだから、この写真でも消しておいた方が無難じゃないのか、というまったく弱気で消極的な理由でナンバーは消すことにしたが、しかし単純に消すだけでは芸がない。車体塗装とおんなじ地図模様の仕様で、つたない塗り絵にして遊ばせてもらった。

だがwikiを見ると、堂々とナンバーが写った画像を出している。wikiの車は成田ナンバーである。この車も同じ成田だった。京都のだれかが、塗装もそのまま、カメラ付きの中古を買った、というものではやはりないようだ。現役の車なのであろう。

このように好奇心があって近寄ってみたわけだが、じゃあストビューに魅力があるかというと、これがまったくなのである。今日すぐになくなっても、わたしは困らない。

日頃から、いずれ日刊新聞は絶滅するぞ、などということをつぶやいていながら、しかし明日、急に新聞がなくなったら困るのである。それはWEB版というものが、今よりも充実していたとしてもやはり困るのであって、わたしにとっては、紙の新聞がなくなると、情報の反芻に困難を来たして、一日の生活が乱れてしまうと予想されるのだ。もっとももしそれが現実となってみると、おそらく数日の内に慣れてしまうだろうが、いま現在のわたしに抵抗感があるのはたしかだ。

しかしストビューは、今日すぐになくなっても、わたしは困らない。ストビューなるものが登場した時は、そんなものがあるのかと驚き、この先、ネットで何年も退屈することはないだろうなと感嘆したというか、ほとんど熱狂したものであったが、すぐにも冷めてしまった。

たしか2008年、鎌倉のやや込み入ったところに行くのに、ストビューで下調べしてから行ったのだが、結局は地図ほどは役に立たないのである。以後はほとんど使わない。今回すこし触ってみたが、将来、使い勝手が格段によくなっても使わないと思う。

ストビューを有効に、そして猛烈に使っておられる方も多いはずだ。しかし普段の会話で、ストビューがどうした、どう使ったなどという内容になることはまったくといっていいほどない。

ストビュー・カーの車体の傷もこのあたりの事情を物語っているのではあるまいか。傷がつくのも仕事の内、というような撮影作業なのだろうが、IT(この言葉がすでに古い)界隈の花形であれば、やはりバリッとした車を走らせているはずだろう。

しかしストビューに限らず、新しい電脳のシステムがどんどん古くなるのは、より新しいものが古いものを呑み込んでゆくからなのか、それとも人間の飽き性がそれほどまでに強いのか。またその一方で、もちろん人間には執念深い面もあって、これが国家単位に準ずるまでにもまとまると、それはそれで著しく統御がむずかしくなるのだが。

このようにいろんな断想が浮かんでは消えたストビュー撮影車との遭遇であったのだが、最後にまだ付け加えるならば、(新聞はともかくとしても)印刷による地図、書籍という古典的な情報伝達の形式は、まだまだ電脳の骨格であることは確かで、電脳の内部に取り込まれても意外としぶとく形を守り、電脳の外でも、そう簡単にヘタりそうにはない、ということである。

2016/09/11
若井 朝彦・ストビュー撮影車との遭遇

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2016年8月15日月曜日

戦時下日本と欧州情報

戦時下日本と欧州情報

わたしの父は先の戦争で従軍している。陸軍であった。学徒出陣で出征し、士官候補試験を受け(受けさせられ)、朝鮮半島で輸送隊の小隊長をして、馬に乗っていたという。引き上げ後はしばらく博多で、復員事務に従事したということだ。最前線に出てはいない。

またわたしには叔父が4人いるのだが、この4人の内、3人が従軍している。いずれも陸軍で、その内、戦後捕虜となり、シベリアに抑留された者が2人。シベリア抑留といっても、その内1人はウクライナまで移動させられていた。ドイツ人の捕虜のこともよく知っていたし、ヨーロッパ・ロシアの見聞があることから、帰還後、東京のGHQ(実際のところ米軍)に招かれて、現地事情を訊ねられたということだ。

父の世代のこの5人の男も、いまはすべて他界してしまって、当時のことをもう訊ねる術もないのだが、それでも聞き取るべきことは聞き取ったような気がする。

しかしわたしは、父からよりもむしろ叔父からさまざまな話を聞いたように思う。父とはほとんど毎日顔を合わせているわけだが、叔父となると一年に数度といった具合である。だから深刻なことでも、すこしは気楽に話題にできたのだろう。

そんな叔父たちの中で、とくに興味を持って話を聞いた叔父がいる。

その叔父は1923年生。招集を受け、陸軍に入隊して千葉の戦車学校で訓練を受けていた。しかしある時、特務機関の選抜試験に出向かされる。

面接試験で、

趣味は何か、好きなものは何か

と問われて、自動車の運転であること告げると、それをここでやってみろ、と言われたらしい。エア・ドライブである。また天皇に反したことばが言えるか、といったことも試されたらしい。誘導面接、逆圧迫面接とでも言えばよいのか。

このあたりで大抵の者はアタマに血が昇って席を立つということだが、叔父はそれなりに遣りすごしたようであって、その結果、終戦間際までこの機関で教育を受けて、1945年の8月には、配属配置を待っていたらしい。

しかしこの叔父は、父やほかの叔父たちとはちがって、真っ先に帰郷していた。実家に帰ってきたのは8月14日であるという。だとすると前日の13日には除隊になっていたはずである。これは本人から聞いたのではないが、その家族によると、実家の庭で、その14日の内にもいろいろと焼却していたという。もっともこれは軍機に触れるものではなくて、おそらく当人の身分に関わるものであったろう。

もしかしたら含みを残した解散であったのではないか、とも思うのだが、この焼却のことからしても、すくなくとも当時の国内にいた関係者は、足跡をきれいに消して、ひとまず次の時代を生きようとしたようである。

その叔父が70才を過ぎたころ、ちょっと話になった。

「やっぱりね、知らされてなかったんだよ」

そう叔父は言ったのだった。それはたしかにそうだろう。しかしそれだけでもあるまい。そう思って、たまたま手に入れていた朝日新聞の縮刷版を見てもらったのである。昭和19年7月の一冊である。もともと紙質が悪い上に、保存も悪く、経年劣化が著しくてボロボロである。

asahi19440727

だが内容となると、まさにサイパンが落ち、東条内閣が倒れた月のものである。来るべき空襲に関しても詳細である。叔父は10分ほどもページを繰っていただろうか、静かにこう言ったのだった。

「みんな書いてあったんだねえ」

この静かな口調を、わたしは今でもなかなか忘れられない。

たしかに日本の戦況に関しては、誇大であり、嘘スレスレ、また真実とは言いがたい記事は多い。一通りのことは書いてはあるが、それはなにもかもではもちろんない。だが西ヨーロッパ戦線やドイツ・ロシア戦線となると、その質は今の新聞の外報と大きな違いが見られない。地図も豊富だ。これは想像も含めてのことだが、当時の新聞編集では、自国のニュースが窮屈な分だけ、ヨーロッパの戦況を仔細に紹介したのではあるまいか。またそのヨーロッパの運命に、日本の将来を暗示しようとする意図もあったのではなかろうか。

これは叔父には見せなかったが、今も手許にある

大場 弥平 著 『第二次世界大戦前史』 (弘学社・1944年8月)
赤神 良譲 著 『独ソ戦争史』 (国際反共聯盟・1943年12月)

などを見れば、当時の日本において、ヨーロッパのニュースは決して不足していたわけではなかったのである。知ろうとすれば、かなりのことはできた。朝日新聞にしても、ドイツのV‐1爆弾に関しては、やけに詳しい。

戦争によって分断されていたとはいえ、外信ニュースの出所はあった。ドイツ・ロシア戦線ではベルリンとモスクワの双方。また中立国としてのスイス、スエーデン。とくにイギリス・アメリカの動向となると、ポルトガル・リスボン発の有力な外電が存在した。

ポルトガルは中立国であっただけでなくその位置関係から、ロンドンの新聞が空輸されており、発行のその日の内に届いていたのである。こういった意味からも、当時のリスボンというところはスリリングなところだったようだ。

これはポルトガルのお隣の中立国スペインでのスパイ合戦のはなしだが、このアゴラでも矢澤豊さんが

(2015年06月18日)

という、興味深い記事をアップされておられる。これと同様に、リスボンの外交官の仕事も気の抜けないものであったろう。

リスボンからは同盟通信の電信が送られる。公使館からは外務省へ、また陸海の武官が陸軍へと海軍へと、英米情報を送っていたのである。

ここからは疑問である。

1945年の5月、ドイツが連合国に降伏してから、在ポルトガル・リスボン公使館の最大の関心事は、連合国のドイツ処分であったにちがいない。武装解除、戦犯の処分、占領軍政と統治形態。

日本はリスボンにかろうじて耳を持っていた。ポツダム宣言受諾まで、外務省、陸軍、海軍は、これをどう活かしたのだろうか、それとも活きることはなかったのだろうか。終戦史というと、東京での一連の動きか(今夜のテレビでも映画が放送される)、スエーデン工作がよく取り上げられるが、リスボン情報はどうであったのだろう。リスボンを通じて得られた英米の(東部と比較して)寛大な占領政策は、以後6月、7月と、かなり終戦を後押ししたのではないかとわたしは想像している。また英米も、このラインを有効に使っていたのではと思うのだが。

そしてもうひとつ、現代の日本に関する疑問も加えておこう。これも終戦工作に似ているかもしれない。

陸軍には陸軍で、戦争の終結を模索するセクションがあり、それは少数派ではあったけれども懸命に活動していたということが最近は伝えられている。

それと同様に、今の日銀であり財務省にも、レンテンマルクに至るドイツ、ペンゲーからフォリントに至るハンガリーなどの事例を検討したり、独自に現代の何らかの情報を収集するといった、主流とはすぐにはなり得ないセクションがあるのであろうか。戦争末期の大蔵省には、戦後の通貨体制に対する系統的な予備研究はあったはずだが。

そういう人たちがいて、しかし自分たちには出番のないことを願いながら、それでも結構陽気に仕事をしてくれているようだったら、わたしとしては心強いのだが、実際はどうなのであろう。

2016/08/14 若井 朝彦

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2016年8月9日火曜日

今上陛下のお言葉に接して

今上陛下のお言葉に接して

もう昨日となってしまったが、8月8日午後、今上陛下のお気持ち、お言葉が一斉に放送された。

あらかじめ想像されていたこととはいえ、ご自身のご老境について、ならびに高齢に至った天皇の帝位の問題をお話しになられたのだが、わたしの聞き取った限りでは、御一身のことよりもむしろ、今後、天皇の位をどのように平穏の裏に継いで行くのかということに、お心を配られていたように感じられた。

7月14日のこと、

今上陛下のニュースに接して

に書いたように、昨日のお言葉は、やはり新帝の即位前後の日本に、無用の波の立たぬようにというお気持ちのあらわれであったと思われる。

まことにありがたいお気持ちであり、そしてお心配りであると、あらためて感謝を申し上げずにはいられない。

この度のお言葉から察して、陛下のお気持ちが一代限りのものであるとは思われず、今後、国会はその政治的権能を以って、十全にかつ迅速に事にあたらねばなるまい。衆参両院には、その覚悟を求めたい。

またこのお言葉に関し、いささか内容からは離れもするだろうが、以下さらにいくつかの感想を附したいと思う。ご容赦いただければと願う。

まず「退位」という言葉である。これも先の稿でもいくらか触れたように、もし陛下がもし退位されても、すでに皇太子がおられ、帝位はまちがっても空位にはならない。したがって、これはあくまで「譲位」と呼ぶべきであろうと考える。新聞マスコミ各社もいずれそのように表現するであろうが、それがすこしでも早いことを願う。

そしてこのご表明の日取りである。

それは終戦の日でもなく、広島、長崎に想いを致す日でもなく、祖霊を招くお盆でもなく、また報道が手薄になる週末でもなかった。そして経済にも影響の少ない時間帯でもあった。

陛下のご意志がこの日取とどの程度関係あったかは判らないが、しかしそれが間接的であったにせよ、この日取には、やはり今上陛下のお気持ちが籠っていたのではないだろうか。わたしはそう思うものである。

そしてこの稿の最後に述べたいのは、このご発言はやはり政治に関わるものであろうという、つまり憲法に抵触するのではないかという、一部法曹界からの反応であり見解についてである。

しかしわたしはその方面の意見を持つ方にどうしても問いたいものである。今上陛下の献身的なご公務から発した想い、そしてご高齢のご自身のこと、また国の平穏を願っての発言が、もし憲法に違背しているのだとしたら、憲法の方になんらかの欠陥があるのではないか、そういう疑義には至らないのであろうかということである。

お言葉に関し、法との衝突を示唆した意見は、やはり狭量というべきものであろう。

現在の憲法と、望ましい日本とは、すべてにおいてかならずしも一致しない。そんな神がかった法律があるはずもない。そしてそうであればこそ、われわれは未来への開拓に希望が持てるのではないだろうか。

今こそ識者の一考を願いたい。

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2016/08/09 若井 朝彦

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2016年8月2日火曜日

偽善不足

偽善不足

ネットやテレビや新聞で都知事選の推移を眺めていて、当事者の分別のない言動には愕然とした。この稿のタイトルに沿っていうと、偽善にすら達していない不様な行いがあまりにも多い。援護射撃にもならず、味方に銃を向けている者さえいたが、困ったことにそういう人間に限ってその自覚がない。首都の知事選をやっているというのに、まじめにやっているのかどうかを問いたいほどのレベルである。

「善」と「偽善」を比べれば、もちろん「偽善」の方が分が悪い。政事世事に偽善はあふれているが、そのほとんどは、いわゆるタテマエの世界に棲息している。

体面を保たったり、また見栄を張ったり、言いつくろったり、ごまかしたり、うやむやにしたり、時間稼ぎをしたり、あるいは責任転嫁に偽善は役立っているわけだ。

この点では、「嘘も方便」と似ていなくもないが、その目的、こころざしにおいてまったく別物である。だが偽善を演じられる者は、すくなくとも物事の良し悪しは知っているはずだろう。そうでなければ「善」のフリはできない。

その限りにおいては偽善者には交渉のための接点がどこかに見える。

ということで偽善概論をひとまず終って、以下は偽善にも達していなかったのではないか、という例。

極めつきが民進党岡田党首。投票日前日に秋の党首選不出馬を表明したわけだが、支援候補が劣勢の中、

「私として自身の達成感がある。」
(毎日新聞のWEBより)

という能天気な発言は、一体なんなんだろう。日本中から「来週にせえよ!」という突っ込みがあったものと思われるが、氏は参院選でもう満ち足りたのであろうか。岡田氏のプロフィールには

「趣味は選挙」

と書いてあるのかもしれない。それとも新聞に「都知事選の結果などを踏まえて不出馬」と書かれるのが、よほど嫌だったのだろうか。どっちにしたって迷惑で気の毒なおはなしだ。

野党党首と対になるのが与党自民党安倍党首。結局のところ推薦候補の応援演説には入らなかった。「地方創生」なんてどこ吹く風。

増田候補は、党首がみずから口説いた候補ではなかったわけだし、手元に劣勢の情報があったからだろうが、このネグレクトは、ただでさえ人材払底の折から、今後、候補者スカウトにも影響が出るだろう。

対立する小池候補が当選確実だったとしても、自党の候補の応援をするのは偽善というより義務に近い。敗戦の処理をし、講和に至るにしても、小池氏はいかにも継ぎ手の多い人であるし、なんとでもなるだろう。偽善の力を借りても、党首としての信義を維持すべきだったと思う。もっとも与党も与党で、先の参議選においてすでに「達成感があった」ようではあったが。

その他、数え出したらキリがない。告示直前に参戦を表明。だが東京都知事としての政策はほぼノープラン。街頭演説はあまりやらないし、しゃべりたがらない。討論会はしばしばキャンセル、スキャンダルにはジャーナリスティックな反撃よりもまず訴訟という候補者がいたが、あれは青島選挙の再現を狙っていたのだろうか。そこまでの考えがあったとも思われないが、どうもよくわからない。

開票がはじまってもインタヴューや記者会見を受けたがらない人が多かった。また自民党東京都連会長の石原氏はいみじくも

「議員の皆さま、各種団体の皆様、本当に申し訳ございません」
(日刊スポーツのWEBより)

と述べたようだが、その前段として、有権者である支持者一般にはどの程度お詫びをしたのだろうか。身内に詫びたければ、いくらでもどうぞご自由にだが、すくなくともそれは後回しにすべきであって、偽善の論理から言えば、非公開の場が望ましい。

またその父で、元代議士元東京都知事で、かつ作家の石原氏は、女性としての年齢と容姿をからめて候補者を批判。発言は利敵行為だともオウンゴールだとも評された。このあたりになると善悪を飛び越して幼児の悪口以上のものではなかった。

氏の世代の日本人のそれも男性は、「男を上げる」だとか「下げる」だとかいう言葉には敏感であったはずで、高齢とはいえ、氏の脳裏にもまだこの語彙は残っていると思うのだが、どうも違ったようである。

そのうち日本にもアメリカの大統領候補、トランプ氏のような放言派が増えてくるぞ、とわたしは思っていたけれども、むしろそれより先にTOKYOにいたのか。

だが、大英帝国保守党党首選から逃げ出したボリス・ジョンソン氏の例もある。自身の立場を忘却した心神喪失的行動は、政治の世界では国際的に流行しているのかもしれない。

こう考えてくると、ぎりぎりの偽善というものは、責任感の最後の砦であるともいえる。

2016/08/01 若井 朝彦

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2016年7月19日火曜日

「ジンクス」と「自爆」と

「ジンクス」と「自爆」と

ジンクスというものがある。大雑把に言って縁起かつぎのようなものだ。

いくらか呪術めいているし、またいくらか宗教的でもあって、絶対者に祈ることもある。だからといって厳密なものではなく、非宗教でも一向にかまわない。だからジンクスをこしらえるのに、別に聖職者に教えを乞うこともなく、聖典に通じていなくてもよい。要は個人の思いつきだ。

服の色、数字、たべもの、しぐさ、言葉、偶像。あらゆるものがジンクスの素材になろう。ジンクスというものは、基本的に個別のものなのである。

教会の儀礼だって根元はジンクスのようなものであったかもしれない。だが教会は公認してくれないだろう。しかしだからといってジンクスに凝るものが背教者の扱いを受けたり、まあ現代では火あぶりになることもない、たとえば日本や北米や西欧の場合。

呪術と宗教との間で、戯れているといった風情だ。心性としてはフェティシズム、ナルシズムにもいくらか接近しているものかもしれない。

こういったことが人間の余裕、遊びの範囲で納まってくれていれば、害は生じない。まれに「ジンクス通りに行かない!」だとか「縁起が悪い!」といってカンカンに怒る者にも出交わすが、心にゆとりのない人はどこにでもいるもので、そんな人はジンクスと関係ないところでも怒りちらしているにちがいないと思う。

本格的に信心のあるという人からすれば、そんなインスタントなものは一段下に見ているのかもしれないが、こういうことができる世の中というものは決して捨てたものではない。教会や教団の力がなお弱まっている現代、宗教や呪術はよりパーソナルになってきているのではあるまいか、おそらく日本や西欧や北米の場合は。

ところで、この宗教的なものの個別化が、先鋭化した人間を生み出すこともある。

自分で絶対者を想定し、その下命を受けて、綿密に計画を立て、実行の段階では短時間の間に見ず知らずの人間を殺し、そして殺されて死んでゆく。

宗教的な情報が、過去の例の参照が、必要なものが、いずれも容易に得られる現代に、そういう個人がいっそう増えてきた。それは教団でもなく、集団でもなく、部族でもなく、家族でもなく、個人なのだ。

宗教との関係は慣習以上のものではなく、自分に信仰心があるともないとも考えず生きてきて、ジンクスどころか戒律も守ることがなかった者が、何かを契機に変貌し、こういう行動に出る。

わたしの生温い考えではこうだ。宗教とは、人間とその生命を尊重する限りにおいて絶対者の栄光がある。だが彼等はまったくそうではないらしい。

わたしの頭ではこのあたりが一杯一杯だ。たとえば心理学者や精神医学者に、ジンクスに関する専門家がいたとして、そのような人は、このテロリズムの個人化について、どう考えているのだろう。そういう人の見解をぜひ聞きたいと思うのだが。

2016/07/19 若井 朝彦

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2016年7月14日木曜日

今上陛下のニュースに接して

今上陛下のニュースに接して

昨日13日の
「今上陛下生前退位のご意志」
のニュースは、さすがにびっくりした。

だがすぐにもこう思った。陛下のご年齢からも不思議ではないことであるし、皇太子殿下のご年齢が、今上陛下の即位の際と、もはやならんでいる、ということもあるのだろうと。

もちろん、これは感想であるし推測に過ぎないのだが、本日14日の京都新聞でも、識者のコメントとして次の三つが載っている。

その見出しは次の通りである。

「象徴の役割 困難と判断か」 所 功 氏
「慰霊に区切りで決断か」 半藤 一利 氏
「国民とのつながり意識か」 原 武史 氏

いずれにせよ、だれにせよ、推察の範囲はすぐには越えられない。

だが、もし陛下のお考えに
「改元や即位が突然起こることによって、国民の生活が混乱することは避けられないものか」
といったものもあるのだとしたら、これはありがたいことだと思わずにはいられない。

ただ、このニュースに関しては、ご退位をいうよりもむしろご譲位というべきで、その点ではデリケートな問題もなくはないだろう。古いようだが、後水尾帝の退位譲位の場合など、徳川幕府への明確なメッセージを持っていたことがある。

しかし現代の日本では、今上両陛下のご健康ご長寿を念頭に、判断や法の改正を進めてゆけば、大過は生じないのではないかと考える。またこれが、今後にも生ずるであろう諸問題への、解決の一歩となるかもしれない。逃げるべきことではないように思う。

京都は御所、御陵、また泉涌寺を通じて皇室とのつながりは深い。そのために、しばしば御帰りがある。だが、繰り返すようになるが、まず今上両陛下のご健康ご長寿を願って、京都府も京都市も、またしばしば強いアッピールを発する京都商工会議所も、暫時は静かに見守るべきだろうと述べておきたい。

2016/07/14 若井 朝彦

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2016年7月12日火曜日

「氷と贅沢とイノヴェーション」考

「氷と贅沢とイノヴェーション」考

現代の日本、氷というものは、夏でもなんとも簡単に手に入る。

行列のできる店が作る有名なかき氷もあるし、バーテンダーが巧みに砕く純氷といったものもあるわけだが、自宅で冷蔵庫で作る氷や、レストランでサッと出てくる氷水の入ったグラスなど、ほとんどタダに近い。京都の北山にあった氷室から御所宮中へ献氷、といった時代と比べると大違いである。

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(今治を歩いていて、たまたま通りがかったお店。登泉堂さん。あとで友人に聞けば、かき氷の名店だったとのこと。素通りして、もったいないことをしました。旧店舗の写真。)

さて京都は、いま「水無月」の季節である。三角形の白い「ういろう」の上に、甘煮の小豆が散らしてあるといった、どちらかというと素っ気ない感じのお菓子のことである。

この小さなお菓子も、その元をたどれば「氷」に行き着く。夏に宮中に献じられた「氷」がその起り。上生菓子といったものではないが、ちょっとした甘味で、気持ちだけでも暑気払いができるのは、毎年のことながらうれしい。

冬からずっと氷室に保存されてきた氷は(旧暦の)6月1日に御所に運ばれ、聖上これを賞でられていたわけだが、また臣下にも頒つ。この日が「賜氷節」といわれるのはそのためだ。それが次第に、この日に饗宴を催すのが恒例となって、氷をかたどった菓子が作られるようになっていった。

一方で庶民は、そんな禁中の事情は知ってはいるが、氷はまったく無理。高価な砂糖を使った菓子もまだまだ無理ということで、ある時期までは、削った白い餅を氷に見立てていたようだ。

氷_640

このテキスト(画像)は17世紀後期の『日次紀事』(愛媛大学図書館HPより)だが、

民 間 食 欠 餅 以 是 比 氷
(この日、民などはかきもちを食べて、これを氷の代わりとする)

ということである。これが甘い水無月にとって代わるまでは、かなりの年月を要したにちがいない。

ところで「かきもち」が「水無月」古い形であったとすれば、小豆なしの「白いういろう」だけを食べていた時期もあったのだろう。もっとも現在は、黒砂糖をつかった「黒水無月」もあれば、緑の「抹茶水無月」もある。本来の氷の白のイメージを離れての展開ということだが、じつはわたしは「黒」が好きである。とくに夏場、汗で逃げたミネラルの補給にもすぐれると思う。

もともとは(くどいようだが陰暦=旧暦の)6月1日の行事。現在では、月末の「夏越の祓」と習合して、6月30日が水無月の日になったようである。どこの和菓子屋の店頭にも、そういうタテ長の案内が貼り出される。たしかに現在の6月1日は、もっぱら衣更の日であろうし、旧暦を現在のグレゴリオ暦に当てはめると、約一ヶ月強うしろにずれるから、この期日の引越しは、和菓子組合の方々にとっても上首尾であるように思う。

氷の価値の低下と比べると、元来は「氷」の代用品だった方の、われらが「水無月」は、歴史の持つ意味も加勢してだが、大健闘というべきか。この氷の物語を有するお菓子は、全国のデパ地下を通じ、またスーパー季節商品としてより広く日本に展開中である。むしろこのお菓子があることで、かつての「氷」の威光を今に伝えているとも言えるだろう。

現代のこの瞬間、氷は、そのままでは贅沢品とは言えない。江戸時代の京都江戸の人だって、冬の氷まで珍重はしなかったであろう。しかしながら「たかが氷です」などとは言うべきではない。今後、上ぶれ、下ぶれ、どんな展開があるかわからない。

ただ人類というものは、珍しいもの、新しいもの、人の持っていないもの、また曰くあるものをどうしても好きになる。いくら最新のイノヴェーションだの何だのといっても、それが商業的である限りは、この人類の性癖から、決して遠いところの出来事ではないのである。

 2016/07/10
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年6月26日日曜日

「地方議会議員と首長選挙」考


都知事が辞任に至るまでいろいろとあった。例によって周回遅れの感想だが、国際政治ならびに近世近代史に通じているはずの舛添要一氏らしからぬ退却戦だった。

政治学と軍事学とは別物だとはいえ、言いわけの逐次投入と、包囲が狭まりつつある中での挑発や威嚇は、兵法からしてかなりまずかったのではあるまいか。

ところでこのゲーム? 最初のうちは、野党が知事を叩き、与党もそれなりに叩きつつも、落し所として、どうやって知事を延命させるのかというルールだったように思う。それがある瞬間から、与党野党入り乱れての落武者狩りになってしまった。

「知事を庇いぬいた者」が優勝のはずが、一転して「首を挙げたもの」が表彰台となったわけで、結局、抜駆けの公明党が一等賞、後詰めで解散を防いだ自民党が技能賞だったらしいが、さて、じゃあ勝者が前知事にとって代わって主導権を握るかというと、そういう筋書きにはなっていない。

『朝まで生テレビ』で売り出していたころの壮年の舛添要一氏だったら、第三者として、

「だったらお前が代わりにやってみろってことですよ!」

と、あの口ぶりで切り捨てていたにちがいない状況である。知事選への立候補を擬せられる者の中に、与党の都議は一人もいないようである。もし今度の選挙で、非自公の知事が当選したら、彼等はいったいどんな顔をするつもりなのだろうか。

以上がこのおななしの長いマクラ。東京のケースはひとまずここまでで、ここからは日本の首長選挙に関しての一般論。

多くの場合、政令市の市議や県議府議などは、市長選や知事選には立候補しないし、したがらない。そういった市議や県議は、国政選挙にはけっこう挑戦するし、当選もするのに、しかし首長選にはなかなか立候補しない。それを望まれることも多いだろうに、この現象は何故なのか。おおまかにいって二つの理由があるように思う。

まず地方議会の選挙区が、かなり小さく区切られているということ。端的にいって、彼等の多くは、地盤の専門家であって政策通ではない。その一方で一度地盤に精通してしまうと、再選はかなり楽になる。もし野心(向上心ともいうけれども)がある者ならば、その地盤をそのまま活かして国政に打って出る。しかし市長選挙は本来の選挙区とは較べものにならないほど広い。知事選なんてもってのほかだ。

一般の市長村の場合は、大選挙区であるわけだが、それでも地盤に特化して、特定の地域の票を集める者が優位だ。議員によっては、その地域に詳しいとさえも言えず、自分に票をくれるものだけに詳しいといった状態になっているものと思われる。

彼等の多くは地方議員であることに満足してしまう。したがってさらに脱政策に磨きがかかる。階層社会学でいう「終着駅症候群」である。※1

そしてもうひとつ自動失職の問題がある。

議員は他の選挙に立候補すると失職してしまう。

昨年行われた大阪市長選の場合、自民党から市議のエースが立候補した。おおさか維新と舌鋒を交わした市議だったが、地位を捨てての立候補である。結局この選挙はおおさか維新の新人の勝ち。市議は退場した。維新が勝って自民が負けたようにも見えるが、大阪市全体からみればこれはまるごとの損失だったのではあるまいか。

議員がその居所の自治体の首長選に立候補した場合は、選挙が済むまで失職を免除してやることはできないものか。わたしはいつもそう思う。

たとえば京都市の市議が京都市長選や京都府知事選に立候補する場合、また都議や区議が都知事選に立候補する場合などである。もしめでたく当選した場合には、市議なり府議なり区議なり都議を失職させればよい。

残念ながら落選した場合には、そのまま議会にとどまり、ふたたび首長のよき論敵となればよい。

老舗政党所属の地方議員にすれば、そのままずっと居座れれば至極快適。そしてもちろん兼職も可。次の選挙で落ちることは論外だし、そうなったら瞬時にして破滅だが、上を目指すのはいたって難儀でしんどい。そんなことは考えたくもない。

おおよそはだいたいこんなもので、本人がよほどしっかりしていないと、ぬるま湯の中で能力がどんどん退化しかねない現況である。一方で首長は、予算編成権はほぼ丸ごと、人事権のほとんど、議会が叛いた場合は解散権、と権力が強すぎる。地方議員のほとんどは、首長のおこぼれ頂戴といった風情である。なんと情けないことか。

ところで今回の東京都のような場合だが、こういった場合こそ、せめて知事の残りの任期、議会議員の互選で知事補でも任命できないものだろうか。こんなひと工夫があってもよいはずだ。しかしともかく現在の自治体の選挙制度は不便である。

※1 もったいをつけて階層社会学といったが、そんな複雑なことではなく、いわゆる「ピーターの法則」のこと。

 2016/06/25
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年6月8日水曜日

「オバマ氏と広島スピーチ」考


スピーチと、そのスピーチの主というものは、親子のようなものではないかと思う。

あきらかに強い関係で結ばれてはいるが、完全な一体だとは言えない。時が経つとともに、親が子を忘れることもあれば、子が親よりも偉大になる場合もある。双方が背を向けることだってあるだろう。

オバマ氏が広島を訪れ、広島平和記念資料館を参観し、17分のスピーチをしてから10日ばかりが過ぎた。この間、日本国内では消費税率の引上げの再延期の決定があり、参院選挙日程の確定があって、5月27日もすこし遠くなってしまったが、このいま、オバマ氏の広島訪問とそのスピーチについて考える。

むろんのことこの件については、(人によっては訪問の以前から)さまざまな論評がなされた。肯定的なもの、否定的なもの、いずれも種々の歴史、事実、背景と引き比べて論評しているので、わたしなどは大変に勉強になる。

そうやって勉強になる一方で、論評の仕方が多様であるのには、いささか困惑もした。それぞれがいくらかすれちがっていて、論評同士を組み合わせてみても、論争に発展しそうにない。論評というよりも、個々や集団の、立場の表明のようなものも多い。

これはいってみれば異種格闘技みたいなもので、土俵あり、リングあり、フィールドあり。総じて論壇を形造っていないのである。それぞれの論評から事実の要素を抜き出すことはできても、論評そのものが参考になるものは少なかったとわたしは思う。

しかしこのスピーチについては、さまざまな面からの分析が必要であろう。問題はそれをどうやって統合するかなのだが、今回の場合、訪問そのものからして、とりわけ多様な意味を含んでいたということも確かである。

広島に、原爆投下国の大統領がはじめて来るということ。これはスピーチの内容をはるかに凌ぐ最大のシグナルだった。このためにどれだけの根回しが必要だったか、勉強をしたか、勇気が要ったかは次第に判ることだろう。

また時代が経つと、そのスピーチよりも、オバマ氏が広島平和記念資料館を参観したという事実の方が、高い価値を持つかもしれない。

そして重要なのは、オバマ氏が広島にのみ集中したわけではなかったということ。同じくアメリカが大量の爆弾を投下したベトナムをまず訪問し、そして志摩のサミットに参加し、軍人として岩国ベースを経て、そして広島に来たのである。この一連の行動に含まれる外交的シグナルも見落すべきではない。

日米越の深い和解と協調の表明。広島において、広島とアジアと世界を語ったのである。またスピーチ(文面)にもあったようにテロ国家、テロ集団への警戒の呼びかけ。新しい時代の戦争への注意喚起。

冒頭では、親子のたとえを持ち出したが、このスピーチがオバマ大統領にとって軍縮スピーチの「末の子供」だとすれば、「第一子」としてのプラハスピーチがある。多くの人は、プラハスピーチと比較して、広島スピーチには具体性が欠けるといって矛盾を突くけれども、任期も残りわずかとなった大統領は、この広島においては追悼を第一とするために、理念の伝達にむしろ専念したということではなかろうか。これは好意的に過ぎるであろうか。

ただオバマ氏の意図はどうであれ、現代のわれわれは、歴史的事実として、プラハ広島の両スピーチの長所を選んで活かすべきなのであろう。今後このスピーチの価値を決めるのは、オバマ氏だけでもなく、アメリカだけでもないのだから。

オバマ氏にしても今現在の評価よりも、将来を期してのスピーチであったろう。それは文面からもうかがえる。このスピーチと、オバマ氏と、アメリカは、まもなくそのあまりにも強い絆から離れ、それぞれの運命を生きてゆかねばならない。その点からすれば、大統領のスピーチと謂わんよりも、すでにノーベル平和賞受賞者としてのスピーチであったのかもしれない。

いずれにせよこのスピーチは生れたばかりだ。この子供が今後どんな人間になるのかというのは、即断することができない。また本人の意志もさることながら、環境というものもある。もしこの夏から秋にかけて、アメリカが大規模な軍事行動に出たとすれば、このスピーチはそのための偽装だったとさえ言われかねない。(これはスピーチではないが、1938年秋、独伊はむろんのこと、仏英でもほとんど熱狂的に歓迎されたミュンヘン会談の結果が、実際は平和の礎ではさらさらなく、地獄の入り口であること、これを西欧が理解するまで、多くの時間を必要とはしなかった。羊の皮は半年とすこしで剥げたのである。)

ところでオバマ氏はやはり演説、スピーチの名手で、その要諦のひとつに、聴衆との間合いがあるのではないかと思う。その点からすれば5月27日の広島でのスピーチでは、参加者に同時通訳のイヤーフォンを配るよりも、むしろ逐次通訳を立てるべきであったろう。

録画で確認していただければと思うが、彼は、その冒頭、「71年前、」という語りかけとちがって、スピーチの中間部分ではあきらかに緊張していた。はじまって10分を過ぎたあたり、声のピッチは上がり、つまりうわずっていた。語数は増えて早くなり、だが声は小さくなっていた。一語一語に対する反応を掴めなかったからなのであろう。

いまとなっては逐次通訳は古風ではあるが、聴衆の反応を確かめることに関しては有利な場合もある。この日もしそうであったなら、彼も通訳が喋っている間、複数の聴衆とアイコンタクトをとることもできて、落ち着いたスピーチになったことだろう。

さらに言えば、このスピーチには、(それが直前に仕上げられたものであっても)確定原稿があったはずだから、この訳を、大統領と交代に読む役を、日本の首相か外相が受け持っていたなら、さらにどれだけ効果があったろう。諸国から寄せられる好意のコメントや、また反発は、比較にならないほど大きかっただろう。(しかしこの広島に至るまで、アメリカ政府ではきわめて慎重に検討が重ねられていたはずで、とても日本を巻き込んだ演出にまでは至らなかっただろうが。)

だがなんといってもこの訪問とスピーチは、現代の世界にとっては貴重な種子なのだ。貶すにしても、称えるにしても、1ヶ月後、1年後、願わくば10年後にも、この広島訪問とスピーチが忘れられることなく、そしておだやかに話題にのぼる世界であることを、心底から望むし、またそうあらねばと、わたしは思う。

 2016/06/06
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年5月25日水曜日

「江戸時代の小食主義」考

「江戸時代の小食主義」考

つい先だって今月22日のこと、ヤフーニュースのヘッドラインに
【糖質制限 ライス残しに店困惑】
糖質制限ダイエットがブームとなっている影響で、飲食店でのライス残しが多発しているという。従業員からは困惑の声。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160522-01114242-sspa-soci
という記事が出ていた。

『日刊SPA』からの転載。記者は北村篤裕氏。提言としては有益な記事だと思うのだが、やや生煮えの感があるものだった。

あるレストランが、ランチタイムの作業効率、客席の回転を考え、ライスの量は一定にすると決めているのだとすれば、ライス残しはレストランの責任でもあろうからだ。(わたしの若干の経験からしても、これが普通の町場のレストランだと思う。そもそも「定食」という名称は、個々の事情には対応しませんよ、という意味であって、定食=サービスランチの価格は、規格品であるからこそである。)

それでもライスを残す人が多いのが気になって仕方がないというのであれば、お客さんが気軽にライスの量を指定できるシステムをレストラン自身が構築すべきであろうし、それがレストランにとってもあらたなチャンスになるはず。たしかに記事もこのあたりを追っている。

だが取材したレストランが少なかったためなのか、それとも店員の談話の整え方が強引だったためか、記事全体の構成はいくらか弱い。その弱さを補うように、逆に尖った言葉を使っている。
「米粒を残したら、目が潰れる」という言い伝えが日本にあるように、食が豊かでない時代には米は貴重なものだった。
さてここからが今日の本題である。記事にあった、因果めいた言葉

「米粒を残したら、目が潰れる」

は日本のもったいない精神の代表的な言葉かもしれないが、それはどこまで一般的であるといえるのだろうか。

お客として呼ばれたときに、出された食事をきちんと食べなくては失礼だ、という民族もあれば、残さなければ失礼だという民族もある。これはそれぞれの民族の習俗に属することなので、どちらが正しいともいえない。ただ日本は残さないという方向の国であることはたしかだ。

江戸時代の文献をあたっていると、すくなくとも文化文政のころ(19世紀初頭)には、出されたものは平らげないと先方の機嫌を損ないかねないので心配になる、といった内容に遭遇することがある。

だがこれに隣接して、無理をして食べきってもからだにいいことはひとつもない、という主張も現れる。

余計に食べるということは、余計に消化せねばならず、その分まず余計にからだを使う。しかしそれだけでは済まず、余計に体内に入った栄養を代謝するのにさらに余計にからだを使わなくてはならない、というわけである。江戸時代のことであるから、「消化」「代謝」という言葉は使わないが、余分に食べるくらいなら残せという主張はたしかに存在していた。(貝原益軒もこれに近いのだろうが、具体的な観察よりも、むしろ教条的な説明が勝っているようである。)

例をひとつ挙げよう。井上正鐵の『神道唯一問答書』。以下はその中にある「麁食少食」の項目を現代の言葉に置き換えたもの。(原文はこの記事の最後に掲出)
 人というもの、美食大食に耽るようになれば、身体は壊れ、気分も沈みこんでしまう。身辺かならずや貧しくなり、やがて慢心まで生じよう。
 美食大食になじんだ者は、食に困る者を思うこともなく、人の苦しみをどうにかしようともせず、わが身のことだけを考えるからそうなってしまうのだ。
 自分の食事をすこしでも残すことで、人の飢えを救おうとする心がない。田畑を耕す人に感謝しようともしない。
 それに加えて美食大食は、血を重くし、気を弱らせ、怠ける心を起こさせる。
 神の意に背くとはこのことだ。やがて加護も薄くなり、苦労や禍から逃れられなくなるだろう。
 また美食ばかりで働くことをしない者には、癇癖があらはれる。塞ぎ込んだり、また怒りちらしたり、そうかと思えば性欲の虜になる。
 豊かな家に育つて、子供時分より怠惰美食だった者はなおさらだ。
 恐るべきは美食大食であり、絶対に避けるべきなのだ。
美食大食は、徳も体も心も壊す、そう井上正鐵は言っているわけだ。論の運びにやや粗いところがあるが、これは天保13年(≒1842)、身辺の危機に際して、短時間に自分の思想を口述したからであろう。

このごろの小学校ではどうか知らないが、我々のころの給食は全部食べろというもので、残すことは極度に嫌われた。食べ残しが多いということは、たしかにとても悲しいことではあるが、かといって個人個人が、その体と体質に応じた食事が摂ることが容易ではないというのもまた理不尽である。美食を一概に否定することもない。その一方で、小食はまだまだ肯定的に扱われるべきではないかとも思う。

「米粒を残したら、目が潰れる」という言葉が歴史的にどこまでさかのぼれるのかさしあたって不明だが、その社会的語相はかなり統制的で一面的であり、もし使うにしても細心の匙加減が必要な言葉だと、わたしには思われる。
『神道唯一問答書』より「麁食少食」
(1898年の加藤直鉄版に句読点を附し、改行を施した)

 問曰
 其許は常に麁食少食がよろしきとの御教に御座候が、いかゞのゆゑに候や。
 答曰
 美食大食を好み候へば、身體を破り、心はくらくなり、必ず身貧に成行申候て、慢心おこり申候。
 其故は大食美食を好み申候者は、人の食の不足するを思ふ心なく、人の苦を助け救ふの心なく、只々我身の益のみ思ふものなり。
 我一飯をのこして人の飢を救ふの心なく、百姓の労を思ふ心なし。
 又大食美食は気血濁りて、心自ら惰弱になりゆくものなり。
 故に神明の御心に適ひ申さず、加護うすくなり候まゝ、苦労禍絶ずして貧なるものなり。
 又常に美食のみなして身體を働ざるものは、癇症の病強くなりて、塞ぎ又は怒り或は深く色に溺るものなり。
 故に福貴にして身を働さず小児の時より美食をなしたるものは、必ず癇症の病強く色に溺るものなり。
 恐れ慎むべき事なり。
 2016/05/24
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年5月2日月曜日

「画禅の行者としての若冲」考

「画禅の行者としての若冲」考

持ち上げるだけ持ち上げて、しかしその限界に突きあたると、すみやかに貶める、これが現代というものである。勝ち馬と思えばだれもが相乗り。しかし潮目は一瞬にして変わる。

はじめのうちは珍重はするが、その内面、裏面が気に入らないとなると捨てて省ない。衆議院議員にせよ、スポーツ選手にせよ、バラエティの藝能人にせよ、遺伝子工学のプロフェッサーにせよ、グラフィックデザイナーにせよ、教育評論家にせよ、ひとたびこのジェットコースターに乗らされてしまうと、自分の意志で途中下車することはほとんど不可能だ。

この傾向は人間にだけではない。たとえば「恐怖」というものにだって、類例の流行りすたりがあって、消費材みたいに扱われる。新しいものがどんどん上書きしてゆく。これは情報の流通量、流通速度がかつてないほど高まった結果の必然ではあろうが、辟易とすることはなんとも多い。

藝術家も、また過去の藝術家であってもあやうい立場に置かれかねない。4月24日にNHKで放送のあった
「NHKスペシャル・天才絵師 若冲 の謎に迫る」
は、なんともナレーションの「盛り」がすごかった。若冲を持ち上げるというよりも、その若冲をダシにして、近日の展覧会や、自身の番組の値打ちを嵩増しするという点で。

『動植綵絵』については・・・
「生誕300年の今年、公開された」
と、今年だけの公開であるかのごとく。

『信行寺花卉図』については・・・
「200年間、非公開とされてきた秘蔵の天井画の撮影が、今回特別に許された」
とはじめての撮影であるがごとく。

その『花卉図・秋海棠』については・・・
「描かれていたのは日本だけでなく、世界中の花々だった・・・中国の花・秋海棠・・・実物を取り寄せたのか、書物を見たのか、京都の野山では見られなかった外来種の色や形が、正確に描かれていた」
と、まるで秋海棠が、その当時の日本になかったかのごとく。
(ちなみに、若冲よりはるかに先んじて、芭蕉にすでに「秋海棠 西瓜の色に 咲にけり」の一句あり。)

以上は、一時よくTVで放映されていたJAROのCM、その三ヶ条、
「事実と違う」
「まぎらわしい」
「誇大な表現」
に立派に該当していると思う。

このところNHKは若冲でもって数本立てつづけに製作しているので、局の内々では競争状態なのかもしれず、そのために表現が過度に傾いたのであろうか。しかし指摘したような難はあるものの、番組そのものにはやはり得るところがあって、それはそれで結構なことだったのだが、藝術家または藝術よりも解説の方が過熱している状態は、かえって本質への接近を妨げかねない。2000年に行われた、
「若冲没後200年大回顧展」
から今日まで16年間、途切れなく人気が続くとはいえ、商業的には、いよいよその扱いが乱雑になりつつあるのかもしれない。

しかし若冲は、いまのこの熱波が去ったとしても、その独自の価値まで軽んぜられるようにはなるまい。同時代の、別の画家と置き換えることは到底できようもないし、そもそも絵への意識が、他の画家とは隔絶しているからだ。

それにつけ加えて言うと、色彩をともなった若冲は、白描の若冲ともまた別人であろう。それはそれでもちろん美質であるのだが、多くの画家がするように、時に荒く、時にかぼそな筆の軌跡によって、人の意識、無意識に働きかけるということはまったくしない。筆致ではなく、色と質感と面への信仰。

また若冲の余白は、他の日本の画家のような、含意余情の余白でもない。

若冲の彩色と長時間正対していると、描かれているものだけでなく、若冲が丹念に描いていたその時間が、強く意識されてくることがある。微細なものほど濃密な時間を注いで描く。決して楽には描いてはいない。とりわけ、値をつけるための絵ではなかった『動植綵絵』の、途方もない篤実な時間の重み。

これが若冲のいまの人気を底から支えているわけであるし、消費的な扱いをぎりぎりのところで遠ざけているわけであろう。若冲にとってこの絵に対する没入は、おそらく行のようなものだったのだろうと、そうわたしは想像するものだ。

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 2016/05/01
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年4月24日日曜日

「衆議院京都3区」考

「衆議院京都3区」考

東京から新田編集長が京都3区の情勢分析されておられるのに、京都に在住のわたしが一言もないのでは、まことに恥ずかしく、かつ申し訳なく。ただわたしの地域は京都1区なので、この補選そのものの分析はご勘弁をいただいて、選挙区としての現「京都3区」の癖といったものを説明できればと。全国にも似たような状況の選挙区事情はあると思い、ご参考になればうれしく存じます。

さてこの京都3区、名神高速が東西に駆け抜ける京都市伏見区、向日市、長岡京市、大山崎町が該当しますが、端的にいって顔のない選挙区と申せましょう。
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稲荷山から霞む京都3区を望む

中選挙区の「旧京都2区」を4つに分けて、小選挙区の「新京都3区」に分区、移行する際、この地域には、ボスとなる国会議員がいなかった、という事情がまずありました。

この「旧京都2区」というのは実に広く、北は日本海、南は奈良、三重の県境まで。その上に京都市の右京区、西京区、伏見区を含みます。この広さ、そして長さが曲者でした。

ちなみに「旧京都1区」といいますと、京都市の、上京区、中京区、下京区、北区、南区、左京区、東山区、山科区。旧制度で京都市が1区と2区とに別れていたのは、昭和初期の京都市への編入時期が関わっているのですが、このあたりも、おそらく井上章一氏を刺激するネタではあるわけです。
(井上章一氏の著書「京都ぎらい」については、また稿を別に起こして分析できればと思っています。)

ところで中選挙区では、候補者はじつにたくみに棲み分けをしていたものです。しかしその空白のエリアがこの「新京都3区」だったのでした。

「旧京都2区」出身の自民党、谷垣禎一氏は、その父、谷垣専一氏譲りの福知山が地盤。同じく自民党の野中広務氏は口丹中丹の亀岡園部が地盤。

民社党の玉置一弥氏はこのあたりでも弱くはありませんでしたが、父の玉置一徳氏時代から、ここよりさらに南の山城地域が地盤。小選挙区になっても「新京都6区」の議員だったのでした。

共産党で「旧京都2区」というと、寺前巌氏がビッグネームだったのですが、得意にしていたのはむしろ京都府北部。旧「京都2区」で2議席を狙っていた共産党は、この南部を地盤として有田光雄氏(民進党参院・有田芳生氏の父)を二人目の候補として擁立したこともあったのです。ですが寺前・有田で票割りを失敗してしまい、共倒れという事故もありました。叩き出す票が多いとはいえ、共産党もこの「新3区」あたりは、疑惑のあった元府会議員の過去もひきずって、国政選挙ではいささか鬼門。

現在立候補している泉健太氏が北海道出身。前職の宮崎謙介氏が東京都出身といった事情も、このあたりにあるといえましょうか。老舗の諸政党、京都3区に関しては、いまだ扱いあぐねている、といった状況かもしれません。

といった具合で、前職辞任の責任を負う自民党が、この「新京都3区」にスラッと候補者を立てられなかったというのは、だらしがなかったにせよ、理解できなくはない事だったですが、不可解なのが共産党が候補を立てなかったこと。

この夏の参院選挙では、京都選挙区2議席の内、自民党が当確。残る1議席をめぐって、民進党と共産党が激突の真っ最中。

岡田氏と志位氏が、手をつなごうが、抱擁しようが、キスしようが、この京都における参議院議員の1議席をめぐっては因縁の対決といってもよく、わずか数ヶ月先の参院選の集票をめぐっては、共産党が不戦敗を決め込んだのはまったくもって不可解でした。支持者の高齢化にともなって、京都の共産党も足腰が弱っているのかもしれません。敗戦は想定内とはいえ、本年2月の市長選挙でも、共産党の候補者は、戦術ミスの上に、かつてない大差をつけられましたから、その後遺症であるのかもしれません。

以上、粗略ながら衆院補選よりも参院選が進行中の京都よりお伝えいたしました。編集長におかえしいたします。

 2016/04/23
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年4月18日月曜日

「上医は国を医す」考

「上医は国を医す」考

「上医は国を医す」。これは現在ほとんど使われることのない言葉だが、今、あらためてかみしめるべきと思う。

なにかしらの情熱もなしに、すぐれた医師になるものはほとんどいないだろう。だが診断と治療には、あくまで冷静さが必要である。「医」と「上医」というものを分けるのは、まずここかもしれない。

症状の訴えはどこまでも聞き届けなければならない。だがその患者の叫びに動揺してはならない。すぐれた「医」の態度は、「為政」にも通じるものと思う。

この事情は精神科医でもかわらない。患者とは接点を多く持ち、深く聞くことが必要である。しかし強く恐怖の感情を抱く患者とともにある医師は、患者と一緒になって決断するのは危険である。

医師は痩せても枯れても知識人である。「上医は国を医す」の通俗的な意味も、やはりここにあると思われる。したがって患者に先んじて、精神科医が一定の結論を準備すこともあるだろう。だがこれも危険をはらむ。なお避けなければならない。あらかじめ決められた方針が本当に有効であるかどうかは、その瞬間になってみないことにはわからない。省察を欠いた知識、歴史の試練を経ていない思想は、役に立たないことが実に多い。

恐怖の感情は、恐怖の対象が去った後、怒りに容易に変わりうる。時間と集団のはたらきによって同じまま持続はせず、さらには恨むことや憎むことにも移行する。しかし人間は自然を恨むことはできても、憎むことはむつかしい。自然の根元に対しては、復讐することができないからだ。人間が憎むのは人間である。不幸なことだが、自然を憎むことを拒まれた人間は、憎むべき人間を探し出し、それができない場合は、その憎むべき人間像や仮想の集団を創造することだってなくはない。

こういったひどく硬直した感情をどう解きほぐすのか。ばらばらになって孤立しそうな人々の心をどうまとめるのか。ここにも医と為政には、通じるところはあると思うものだ。

地震はまず自然災害である。しかし個々人の心はもちろん、集団や社会にもインパクトをもたらさずにはおかない。これからこれをどう医すのか。

地震が発生してまだその余震、連動地震の収束も見えず、また怪我を負った方の治療もままならない今ではありますが、上はとくにこの5年ばかり考えてきたことどもを書きつらねてみたものです。お読みいただいた方には、どうか諒としていただければと存じます。

 2016/04/16
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年3月31日木曜日

「京都市役所用語としての【説明不足】」考

「京都市役所用語としての【説明不足】」考

京都市議会に陳情をし、また請願を準備している関係で、ときおり市議会のネット中継を見ている。すると繰り返しあらわれて、気になることばがあった。

【説明不足】

である。かなり癖のある使い方をしている。理解するまでにやや時間が必要だった。京都ではこの年初に市長選があったのだが、【説明不足】は、この機会に市役所、市議会の外に出て、いよいよ活動の場を拡げたようである。無論、これは望ましいことではない。

十年ひとむかし・市役所前の日曜日_800
(市役所前の日曜日・ひとむかし前の2006年ごろ)

京都市役所や京都市議会では、この【説明不足】またはその語幹 ?【説明】に、種々の修飾を施して、かなり複雑な表現を可能にしている。

たとえば市長が「この件については、説明不足でした」と言ったとすると、これは
・・・その施策については、関係者の理解が得られず、進捗していない
ということである。

部長局長が「今後説明をしていく」と言ったとすると
・・・その施策については、継続する
ということである。

与党議員が委員会で「説明しっかりして下さい」と棄てゼリフで言ったとすると
・・・その件は会派として賛成はしたが、問題が発生している。あとは市が責任をもって始末するように
といったニュアンスを含む。

中間派の議員が「そんなことは市がきちんと説明すれば済むことだ」というのは
・・・仕事がいいかげんで中途半端だ
という意味のようである。半分与党のスタンスを維持しながら、けれども市に可能な限りケチをつけているのであろう。

「この問題について、市長が直接住民に説明する意志はありますか」
と直接市長に問うた別の中間派議員もいたが、京都市議会の【説明】の用法からすると、これは進行中の計画についての反対宣言とほぼ同義。ほとんど市長の責任を追及しているといってよいのだが、とはいえ、なんとも間接的な反対ではある。

この【説明】云々を用いて議論するというのは、他の議会でもやっているのだろうか。しかし問題はどうして【説明不足】という表現が、京都で活躍するかということである。

そもそも市側が、ことの発端から、しておくべき説明をしていないケースが多いのである。

市役所の持っている情報と、地元の京都新聞や市議会議員の持っている情報をくらべると、後者の方がいくらか分が悪い。したがって市側が議案を提出する際には、「説明」というものが、市議の質問をかわすに充分な程度に止まる傾向がいたって強い。

だが最悪なのは、外部に対する説明不足の習慣が、市役所自身による計画の事前検証の不足をも惹起しているということだ。

それが集約的にあらわれたのが、四条通の車線減少における大混乱である。

工事がはじまって車線が減少するとすぐに、文化的にいって、また商業的にいって、京都筆頭の中心道路である四条に、当初説明とはケタが二つほども程度の違う渋滞が発生するようになったが、この案件に賛成した会派は容易に反対には転じられない。ゆえに「なんとかしろ」「とりやめろ」と、市長にダイレクトに言うことはできず、

賛成会派「今後、住民に説明するように」
市長「事前の説明が不足していました」

といったような、市民にとっては理解のむずかしい、愉快ならざる小芝居が展開されるわけだ。こんな言葉のやりとりだけで問題が解決するはずもなく、本当の勝負はここではつかない。

この車線減少(歩道拡幅)の計画は、東山通に第二期工事が予定されていたのだが、新聞によると、与党はこの第二期問題を市議会のリングから場外に持ち出して、時間外取引で計画の中止にもっていった、ということらしい。

しかしこれは市や市議会だけの問題ではない。市政選挙では投票率が慢性的に40%前後。このモチャモチャした状況はこれにほぼ応じているのだと、わたしは考える。

 2016/03/27
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年3月21日月曜日

「世界遺産と遺産くいつぶし」考

「世界遺産の遺産くいつぶし」考

文化庁の京都移転が決定の運びだそうである。法律で決まった消費税率の変更期日であっても、現政府与党はけっこう容易に変更するほどであるから、これが実際の移転になるまで(または移転の取止めになるまで)、これからどんなドラマがあるのだろう。

関係各位には、騒動を面白がって申し訳ないが、わたしとしてはこのアゴラに移転反対をすでに書いているところ。だがどうしても文化庁が京都にくるのであれば、名称に一字を足して

  古 文 化 庁

にすること、この際ぜひおすすめしたい。東京には知財専門の「新文化庁」を設置するくらいで、ちょうど塩梅がいいと思う。

さてその文化庁が、直接間接こもごもに関係するのが世界遺産登録の文化遺産である。京都滋賀には、その地域を一帯として17個所の文化遺産があるのだが、しかしこの文化遺産も近年、「文化」でも「遺産」でもなくなりつつある。

不動産価値が上がって、周囲が、そして本体が蚕食されているのである。サンプルを挙げると

 《世界遺産に隣して住まう》

といった具合に、マンションがどんどん増えている。上記は即席に作ってみた例だが、そっくり類例のキャッチは、すでにあること疑いもない。

そして行政としての京都市役所も、すでにこの流れに乗っている。

市が所有する物件である二条城、そこに隣接した阪急のマンション建築には、市も異様なほどの反対圧力をかけたが、北陸新幹線のルート選定や在来線の新駅開業で関係浅からぬJR西の下鴨神社の開発に関しては、明確なアッピールを出すこともなく、なんとも簡単に開発許可を下ろした。その対応を振り返ってみるとき、これはほとんど、「どうぞどうぞ」とばかりの促進だったのではあるまいか。

京都の文化観光的価値が上がる、すると不動産価値が上がる、といった連鎖がある。その結果、神社も寺院も市街をはじき飛ばされて、移転する例が少なくない。また京都の文化は、かなりの度合いで代々の家業が支えている。建築だけではなく、人があればこその文化。そういった家族が、相続に際して京都を離れなければならなくなるケースも加速している。不動産価格の高騰は、環境と景観と古建築を侵蝕するだけにはとどまらない。

それでも京都が観光的にやっていけるのは、(首都圏から比較して)周回遅れのトップランナーの状態を、どうにかこうにか維持しているからだ。しかしおくれおくれしつつも、京都市全体が開発のトラックを走り続けていることには変わりない。京都市はこの状態でありながら、またみずからが、開発という名目で破壊することもありながら、よくも文化庁の招致ができたものだ。実に恥ずかしいことに思う。

ところでその世界遺産であるが、京都滋賀が文化遺産の登録を受けたのが1994年。しかし当時はこの仕組みが何であるのか、社寺も行政ももうひとつよく分からず、申請をしなかった古刹もなくはなかった。いまでもその方面から、後悔の言葉が漏れてくることがある。

実際、昨年あらたに社殿の国宝指定を受けた石清水八幡宮は、世界遺産の追加登録に前向きである。この八幡宮は、京都市街からすると、淀川をはさんで南対岸、八幡市の男山(おとこやま)の森厳としたいただきに御鎮座。

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(ある日の石清水八幡宮)

明治の廃仏毀釈があって、この八幡宮もその際に大きく改まり、古体そのままとはいえないのだが、すでに登録の他の社寺また建築と比して、世界遺産であることには、まったく問題はないだろう。しかし男山一帯がどこまでも神域というわけではない。

京都から大阪に電車で行く時、JRでも阪急でも(おそらく新幹線でも)山崎にさしかかると、対岸にはっきりとわかるので、一度ご覧いただければと思うのだが(京阪はまさにそのふもとを走る)、この男山は、大阪側の西半分はとっくの昔に造成済みである。

東側の神域は神域として、また西側の団地は団地として落ち着いた住空間があり、それは現在でも適度に区切られてはいるのだが、こののち、静かな東側はどうなってゆくのであろうか。

世界文化遺産というものは、商業的不動産的にはたしかに正の記号であるが、肝腎の文化的にはまったく心許ない限りだ。下鴨神社がそうであったように、世界遺産の「遺産」は、いとも簡単にくいつぶしの標的に変わる。男山の神職みなさまには、どうかいま一度立ち止まってご検討をと、ぜひにも申し上げたい。

 2016/03/17
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年3月17日木曜日

「〇〇新書」考

「〇〇新書」考

なにをいまさら紙媒体の「新書」のはなしを、と言われるかもしれないが、新書を通じて出版と書店と読者の今をすこし考えてみたい。2016年現在においても、出版はやはり社会一般の縮図のひとつであろうかと思う。

本屋にでかけると新書の棚の前に行く。新書はかなりの新刊が出る。諸社一切合財で、毎月100冊前後の新刊があるのではなかろうか。新刊本が潤沢に供給されているここは、静かになった現代の本屋でも、まだまだにぎやかな感じがする。

どんな本が出ているのかは、ネットでわかる。ネット上でも数ページなら「立ち読み」もできる。ネット上の書店にはコメント書評も附属している。だが、ここにあるあらゆる本の任意のページを、思いのままに「立ち読み」できる書店の機能は、やはりたいしたものだ(たいしたものだった)と、いまさらながら思う。

そこでどんな新書が出ているのか、というと、それは情報、情報、情報。

目立つものは「利殖(経済)」、「健康(医療)」に関するもの。

しかしこれが曲者で、たとえば病気に関する内容など、ある一冊が正しいとなると、その近くの本棚にある数冊の新書は「トンデモ本」ということになる。よく言えば百家争鳴なのであるが。

この「利殖」「健康」に「宗教」を加えると、これはもともとがペテン師のホームグラウンドであるわけで、ここに大量の書籍が投入されつづければ、その分野全体が怪しい感じになること、やはり避けがたい。

しかしA社が○○派ならB社は××派、というのならまだ解るが、一社の中で、相矛盾して、内容が喧嘩しているようなラインナップにさえなっていることが、ままある。これは出版の自由といわんよりも、出版社の身勝手というべきか。

結局のところ、詐欺から自分をどう護るのかと同じ事情で、読者諸賢にお任せ、自己責任で読め、ということになるのだろう。だが、積極的に評価はできないものの、昔の権威主義的な新書形態から見て、悪いことばかりではないようにも思われる。

ところで、新書本というものは、そもそもルポが得意で、学術を紹介している場合でも、豊富な臨場感を持たせて書くのが普通だった。古典を扱う「文庫」に対して「新書」という名称が与えられて定着した事情も、このあたりにあるのだろうが、総じて研究者の半自伝のような仕上がり。それでも研究そのものに対して、広い目配りは抜かりなく。

大古の昔の「新書本」が上記のように作られたわけだが、現在の新書には、思考や、考察や、ましてや模索、といったテーマの展開も、なかなか見られない。

したがって、新書に乗っかった情報というものが、古くなって不用となると、ふたたび読み直すべき内容は残りわずかで、ほとんど故紙となることが避けられない。たとえば「新古書店」の新書の棚の一部などには、どうしても廃墟感が漂うことになる。

紙媒体である必然性が薄れていることは、このことからもよく分かるわけだが、だからといって電子書籍として、タブレットやPCモニター上でこの新書が戦うとなるとどうなるのか。

ネット上の最新の、そして無料の情報との戦いになる。

こう考えると、新書というものの基地はやはり紙上にあることになる。ではその紙に展開する、物質としての新書の現在どうであろうか。

製本の糊が強固。それはそれで堅牢な本造りのつもりなのかもしれないが、ページが軽くは披かない。机に置いてさえも、手を触れつづけなければ活字を追うことができない。これらはかなり以前からのことだったのだが、近年、印刷機と製本機械(折丁)の精度が一層向上して、文字がページいっぱいいっぱいにまで印刷されている。

したがって、奥の方の行を読もうとすると、より強い力で本をグイと披かなければならないのだが、新書には特有の事情があって、本の背が高い割りに、ノドから小口までが短い(ページの横幅が狭い)。そのため糊の利き目がより強く出る。まさにバネである。

はなしは古くて恐縮だが、岡本太郎の万博の作品に、「座ることを拒否する椅子」があったのと同様に、「読まれることを拒否する新書」。

両手の親指で小口を押さえ続けなければ、ページはすぐ閉じてしまう。手に触れた心地よさが皆無、どころではなく、不快なのである。

大出版社の幹部は、インタヴューを受けると、若年層の活字離れをしばしば嘆く。この事情は新聞社幹部と似たりよったりだが、しかし、手にすること、ページに触れることに魅力がない本を、ずっと造りつづけて今に至っていることに、自覚はあるのだろうか。いつもそう思う。

新書には可能性がある。そういうジャンルなのだ。だが新書文化? というものが今後どこまで寿命を保つか、ということに関しては、その内容もさることながら、流通も含めて書物としての物質的な基礎が大きく影響すると、わたしは考えている。

2016/03/06
若井 朝彦(書籍編集)

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2016年2月23日火曜日

「論評における非名指し」考

「論評における非名指し」考

ややこしいタイトルになってしまったが、これは広い意味での「匿名論評」についての問題である。ここでいう「非名指し」というのは、論者が相手となる対象の名前を伏せたり、ぼかしたりすることを想定している。相手を曖昧にするのであるから、その手法はいくらでもあるわけだが、相手を実名ではなく「某が」であるとか「ある研究機関の責任者によれば」であるとか、さらに茶化しを入れて「大先生」「その筋の権威」「黒幕」などと呼んだり、もっとあやふやにしてしまうような場合。

匿名による発信については、もちろんよく問題にされている。ネット上ではそれは匿名というよりも「無名」ともいうべきであって、特定されない発信源が、容赦ない意見を飛ばしてくる。

ただ無名匿名発信では、対象相手の名前が伏せられることはあまりない。どれだけ攻撃的になっても、反撃を心配する必要がほとんどないからである。したがって無名匿名論評が、総じて無責任に傾きがちであり、またその弊害も小さいものではなく、時には放置できないレベルになるわけだ。そうなると、結局のところ何らかの方法で発信者は特定されてしまうわけだが。

たしかにあらゆる論評が実名であることにこしたことはない。実名での論評では、発言の責任の度合いは高くなる。では実名の論評が、それだけで責任を全うしているかというと、これはもちろんそうではない。

根拠が十分に示されていなかったり、引用がいいかげんであったりといった論考としての質の問題も前提としてあるわけだが、だがすくなくとも実名であれば注意や批評を受け入れる準備はできているとはいえる。

しかし実名発信者が、対象をどう扱うのか、という問題もまたある。

対象を個人とするのか、集団とするのかによっても論のはこびはちがってくるが、発信者がたとえば「これは現段階では確言できないが、注意喚起しておく必要がある」などと判断した場合、相手の名前をぼかしたり、または対象を集団として論を進める場合も、やはりあるだろう。

対象を隠語で呼んで仲間内だけの話題にしてしまうこともあるわけだし、また返り血は絶対に浴びたくないという人もいて、こんな場合は、相手をイニシャルで済ませて平気である。

しかし論評もこの程度にまで落ちるとなると、発信者が実名である意義はほとんどない。むしろ、「非名指し」で批判された相手が(それが誰であるかは、周囲から見てもあきらかであっても)反論ができなくなってしまう。名乗りを挙げられなくなるのである。ある種の封殺。

つまり「非名指し」で発信された論評は、無名匿名による批評よりも厄介である場合もあるわけだ。たとえ無名匿名の論評であっても、発信者が相手を「名指し」さえしていれば、発信媒体、発信ページなどに向かって、最低限の反論をすることは可能だからである。

遠慮というものがある。自己規制もある。確信が持てない場合もある。発信者はだれしも、その時々にいろいろなレベルで対応しているものだ。実際のところノーガードの、実名同士の打ち合いというものはなかなかないのである。

ただ立場の弱いものが、権力を「非名指し」で批判する場合はまだしも、権威も権限もあるものが「非名指し」で批判をしたら、これはもうたまらない。新聞の社説やコラムでも、この傾向はないわけではない。

またそういった大手マスコミが多用する、自分の言いたいことをコメントとして識者に代弁させるといった手法もこれに絡む。上手にいったら新聞社の手柄、失敗したら識者の責任。あらかじめ「逃げしろ」を準備しているわけだ。無名匿名以上の複雑な何か。

このように発信者と対象者の「間合い」がどうであるかといった観点も、匿名の問題とならんで、いますこし重んじられてもいいのではないか、わたしとしてはそう考えるところである。

 2016/02/21
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年1月31日日曜日

「チリワイン」考

「チリワイン」考

ここのところ、新聞にチリワインの記事が続いた。数日前に「日本のワイン輸入量でチリが首位フランスに肉薄」というものが出たばかりだったのだが、最新の数字では「ついにチリが首位に」ということになったようだ。紙上はほとんどペナントレースの扱い。

しかしこのチリワインは、とりわけスーパーに向いていた。

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500円前後のワインいろいろ
説明するまでもなくここ数年、スーパーやコンビニの酒類の棚はチリワインが花ざかり。フランスワインは1,000円前後からだが、チリだと関税優遇の追い風もあって500円前後。この500円のものが1,000円のフランスよりもしっかりとしたボディーと酸を持っている場合も多いものだから、街場の店舗ではとっくに勝負はついていた。

500円で750ccである。発泡酒のファンも、時には振り向かせることが可能な価格だ。

スーパーの棚にだって、2,000円のブルゴーニュや、店によっては5,000円程度のシャンパーニュ(どちらもフランス)も置いてあるわけだが、そんなワインがスーパーで回転がよいはずもなく、実際のところはチリワインのコスパを際立たせるディスプレイのような扱いなのかもしれない。

スーパーというところは、ワインでは定番をおいておかなくても、まあ許される。あるインポーターからのチリが売り切れたら、別の系統のものを仕入れればいい。価格本位で選び、評判で絞っていけば当たりがとりやすい。身軽に戦えるわけだ。

数日おきにスーパーの棚を見ていると、回転のいいワインは自然と目につく。チリに限らず、気に入ったものがあって買い増ししようとでかけても、もう残っていなかったりするのだが、そんな時は、だれかと評価が共有できたような気がして、なにかうれしい。

一方で「どうしてもフランスのあの村のものでなければ」という層は、店頭で買ったりはせず、ネット通販でさがして購入するのが普通になっているのだろう。ワイン専門の店舗は、この両方の勢いにどうしても飲み込まれてしまう。つらいところである。

チリワインもしっかりとしたボディーがあるので、1~2年放置しておいても、赤、白、ともに気になるようなバランスの崩れは起こさないだろう。かといって、わざわざ熟成を楽しむものではなさそうだ。フランスの立派な肩書きのあるワインのように、年月とともに香りが開いてくるということは、普通はない。

だがここ数年のチリは本当に楽しかった。同じラベルのワインが、毎年どんどんおいしくなっていったからだ。これはヴィンテージによる変動ではなくて、チリ全体のグレードが上がったからだとしか思われない。

このごろはチリのものでも、部分的にはていねいに樽熟成をし、そののち瓶詰して出荷、というものもよく見かけるようになった。そういう規格があるからだが、価格はやや高く、1,500円から2,000円程度。まだ試行の段階とはいえ、やがてはフルボディーの長期熟成向きのラインナップが充実してくるかもしれない。

南アフリカ、チリ、アルゼンチン、ニュージーランドのワインなどは、旧大陸(フランス、ドイツ、イタリア、スペインなど)のワインに対して、ニューワールドワインと称されてきたのだが、南アフリカはもちろん、とくにチリは店頭の立派な顔になっていて、いまではとてもニューワールドワインとは言えないだろう。

これから新たに名前が売れてくるとすればメキシコだろうか。あるときスーパーでじつに安価な発泡性のワインがあって、これがメキシコ産だった。安くて二の足を踏みそうになったが、それは杞憂。飲みもしないのに、価格だけで勝手な判断をするのはワインに失礼だし、第一自分が損をする。これがわたしにとって生まれてはじめてのメキシコワイン。そのあとも時々飲んでいるのだが、年々品質が向上しているのがわかる。普通の赤や白も、ぜひためしてみたいものだ。

このメキシコの発泡性のワインも、シャンパーニュと同じように、ワインを瓶に詰めてから二次発酵させ、ワインに豊かな炭酸ガスを含ませ、最後に澱を集めて除くといった手間のかかる方法で作られている(ところでシャンパーニュなど発泡性のワインに言及する場合、事情あって、このように説明が長くならざるを得ない)。手のかかる分だけ、メキシコは人件費の点で有利なのだろう。

ワインの世界地図が、今後どのように変わるのかは興味が尽きない。葡萄をはぐくむ土は容易に変化しないが、気候には短期長期の変動が起こりうる。あらたな国が伸してくるかもしれない。日本のワインも、もはや価格では闘えないだろうけれども、その分こまやかな造りで、独自性をどんどん発揮しはじめている。チリがそうだったように、いつかブレイクスルーに立ち会える楽しみが待っているかもしれない。

2016/01/29
若井 朝彦(書籍編集)

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2016年1月23日土曜日

「制限選挙」考

「制限選挙」考

日本には日本の、世界各国にはそれぞれの選挙事情がある。議会制国家といえども、形態はさまざまだ。

イギリスの小選挙区制、ドイツの5%条項、最近注目の度合いが高まったギリシャの選挙では、第一党へのボーナス配分があるのだという。ドイツは切捨て主義、ギリシャはオマケ主義である(切捨ても併用)。わかりやすすぎて思わず笑ってしまうが、それぞれの国にはそれなりの背景がきっとあるのだろう。

現在は解消の方向らしいのだが、フランスの場合、国民議会と地方議会、または首長などとの掛け持ちが許されている。公職にとどまったまま別の公職への立候補も可能であるようだ。ミッテランと大統領の座を争ったシラクは、パリ市長のまま立候補し、ミッテランに二度敗れても、パリ市長のままであった。

この大統領の選出方法も個性ゆたか。アメリカの「州別総取り方式による代理人選挙」というのは(日本人からすれば)じつにわかりにくい。ごく一部の州では比例配分するというのだからなお複雑。先日の中華民国の総統選挙は、ただ票を合算するだけだったから、こちらの方が合理的だと思うのだが、国の大きさもちがえば歴史もちがって、一概にどちらがいいとも言えないのだろう。

しかしどのような方法にしても死票は出るし、判定には不合理が、そして議席の配分にも偏りが生ずる。だがギリシャがそうであるように、勝者にはより多くの議席を配分して政権を安定させるという制度上の工夫は、あらわである場合もあればそうでない場合もあるけれども、多くの国に見られるものだ。かならずしもそれは悪ではないと思う。

さて、日本の制度である。

憲法前文、その冒頭いきなり、

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
とあるように、日本は代議士制度国家である。そして

第十五条
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
とあって普通選挙だということになっている。しかしこの「普通選挙を保障」という一句は、現在からすればやはり違和感がある。この憲法の制定時、いわゆる「普通選挙法」が成立してまだ20年すこししか経っていなかったという事情もあった。普通選挙というものは、国会が成立させたものというよりも、政府が許可した制度であった色合いがまだ残っているわけだ。

ところでこの日本の選挙制度はとてもややこしい。二院制で、任期の設定、解散の有無は異なり、どちらの院も選挙区と比例区を持つ二票制だが、区割りはまったく別もの。参議院は区ごとの定員もマチマチである。

ツギハギだらけの選挙制度である。こうなったについては、第一に時の与党の現職議員が、自分の選挙のことを専らに考え、自らで自らの選挙ルールを決めて(あるいは古いルール放置して)きたからである。

その結果、一票の途方もない格差も生じているし、とても「正当な選挙」とはいえなくなっているわけだが、かといって民意をまったく無視しているというものでもない。ないよりもはるかにマシ。どうにかこうにか続いている。

こういったこともいずれ糾さなければならないだろうが、しかし最大の問題は、選挙権にではなく、むしろ被選挙権にあるとわたしは考える。

立候補にとてつもなく高いハードルがいくつもいくつもあるということだ。立候補=被選挙権について、日本は立派な制限選挙である。

一般人が立候補しても、当選できないのははじめからわかっている。だからといって参入障壁が高くてもいいということにはならない。ほとんどの有権者が立候補を想像することすらできないという制度は、有益な政治的意見の醸成を困難にするからだ。

日本における「普通選挙」の欲求は明治から大正にかけて高まった。だがその概念は投票権に特化されてしまっていて、参政権全体に及んでいなかった。戦後当時には憲法が普通選挙、女性の参加を保障するだけでも十分前進だったかもしれないが、今はちがう。

しかしながら被選挙権のあり方は、戦後さらに制限の一途であった。可能年齢、高い供託金からはじまって、政党助成金による既成政党への保護、政党要件による制限、立候補者数による差別など。

新しい政党も、一皮剥けばその多くが、自民党か、自民党に近い層からの枝分かれであったのも、この制度制約と無縁ではないだろう。

このような状況が続いたために、政治的意見が、政策提言にではなくて、強硬な反対運動に集約されてしまう。国会における万年野党が、与党のスキャンダルや、いわゆる政局には関心はあっても、国家運営には無関心であるのと同じように、世論の野党化が深刻さを増す。新聞もテレビも出版もこの傾向が止まらなくなっている。

可能性としての立候補を極端に狭めることは、政治的意志だけではなく、政治一般の理解力までも弱らせる。投票権の年齢をいくら引下げても、なんら改善しない。立候補制限の低減は、もしかすると一票の格差の解消以上に重大な課題であるだろうと、わたしは考えている。

2016/01/21
若井 朝彦(書籍編集)

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2016年1月10日日曜日

「パンデミック」考

「パンデミック」考

関西はいまのところ暖冬である。

先月12月12日のことだった。例年なら暮れか正月ごろに開きはじめる蝋梅が、はやくも香りを立てているのに気がついた。すこし驚いたのだが、やはりあたたかいせいらしい。こんな様子なので、関西のインフルエンザの流行はまだはじまっていないようである。熱を出したという人も、身近にはいない。

蝋梅
近日のこと、「正月になってからこんなことがあった」という話を聞いた。その方のお宅に、近くの開業医、つまりホームドクターから電話がかかってきたというのである。

「インフルエンザの予防注射は、どうぞ1月末までにして下さい」

その方は、すでに昨年の秋の内に、そのドクターから接種を受けていたので、この電話に苦笑したとのことだが、どうもワクチンがまだたくさん残っているらしい。その上に外来患者は少なく、時間にも余裕ができて、電話でもしようか、という気持ちになったようだ。

このワクチンというものは、当たり前のことながら、インフルエンザが流行らなければ残り、流行れば足らない、ということになる。

ドクターの内情はともかく、普通人にとってこの状況はひとまず結構なお話ではあるが、油断はしてはいられない。世界はやはりいまもパンデミックの淵にいる。そう考えておくべきだ。

恐怖にも「はやりすたり」というものがあって、煽られた恐怖も、また忘れられた恐怖も多いが、残念ながらこのパンデミックは、どうもその後者に分類されてしまうようだ。しかしここ数年、世界がインフルエンザ・パンデミックを忘れていられたのは、偶然であったのかもしれない。

けれども感染症の専門家、また医療現場に立つ方が、限られた予算、限られた時間人材で、将来に備え、身構えておられること、時々見聞きする。本当に頭が下がる。

ところでわたしは、(政府の指導で作成されたものだと思われるが)小売店舗で全国展開する企業のパンデミック対応マニュアルを見せてもらったことがある。豚インフルエンザがおさまった2009年の秋のことだった。

よく考えれば普通のことが書かれてあるにすぎないのだが、またこのマニュアルにもひな形があったのかもしれないが、その中でも忘れられないのは、パンデミックの終焉期の対応項目として「死亡従業員の把握」「死亡従業員家族への弔問」があったことである。

わたしが時々パンデミックについて思い出すのは、この時の印象や、医療に献身されておられる方の言動が、ずっと記憶にあるからかもしれない。

しかしひとたびパンデミックが起これば、どの程度の速さでウイルスが世界に拡散されるかわかったものではない。重症化の例の少なかった2009年の豚インフルエンザの際も、あきらかに専門家の想像以上の速さで国境を越えていた。その2009年と現在とを比べても人の移動は、速度、量とも格段に増しているはずである。また栄養状態、衛生状態の良好とはいえない地域から、大量の移動が生じた場合、その速度は一層はげしいものになるだろう。

朝鮮半島も中東も揺れている。正月早々に夢ではなくて、怖れを語らなければならないのは、なかなかにつらいことであるが、やはりこういったことは避けては通るべきではないと考える。

 2016/01/08
 若井 朝彦(書籍編集)

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