2016年4月24日日曜日

「衆議院京都3区」考

「衆議院京都3区」考

東京から新田編集長が京都3区の情勢分析されておられるのに、京都に在住のわたしが一言もないのでは、まことに恥ずかしく、かつ申し訳なく。ただわたしの地域は京都1区なので、この補選そのものの分析はご勘弁をいただいて、選挙区としての現「京都3区」の癖といったものを説明できればと。全国にも似たような状況の選挙区事情はあると思い、ご参考になればうれしく存じます。

さてこの京都3区、名神高速が東西に駆け抜ける京都市伏見区、向日市、長岡京市、大山崎町が該当しますが、端的にいって顔のない選挙区と申せましょう。
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稲荷山から霞む京都3区を望む

中選挙区の「旧京都2区」を4つに分けて、小選挙区の「新京都3区」に分区、移行する際、この地域には、ボスとなる国会議員がいなかった、という事情がまずありました。

この「旧京都2区」というのは実に広く、北は日本海、南は奈良、三重の県境まで。その上に京都市の右京区、西京区、伏見区を含みます。この広さ、そして長さが曲者でした。

ちなみに「旧京都1区」といいますと、京都市の、上京区、中京区、下京区、北区、南区、左京区、東山区、山科区。旧制度で京都市が1区と2区とに別れていたのは、昭和初期の京都市への編入時期が関わっているのですが、このあたりも、おそらく井上章一氏を刺激するネタではあるわけです。
(井上章一氏の著書「京都ぎらい」については、また稿を別に起こして分析できればと思っています。)

ところで中選挙区では、候補者はじつにたくみに棲み分けをしていたものです。しかしその空白のエリアがこの「新京都3区」だったのでした。

「旧京都2区」出身の自民党、谷垣禎一氏は、その父、谷垣専一氏譲りの福知山が地盤。同じく自民党の野中広務氏は口丹中丹の亀岡園部が地盤。

民社党の玉置一弥氏はこのあたりでも弱くはありませんでしたが、父の玉置一徳氏時代から、ここよりさらに南の山城地域が地盤。小選挙区になっても「新京都6区」の議員だったのでした。

共産党で「旧京都2区」というと、寺前巌氏がビッグネームだったのですが、得意にしていたのはむしろ京都府北部。旧「京都2区」で2議席を狙っていた共産党は、この南部を地盤として有田光雄氏(民進党参院・有田芳生氏の父)を二人目の候補として擁立したこともあったのです。ですが寺前・有田で票割りを失敗してしまい、共倒れという事故もありました。叩き出す票が多いとはいえ、共産党もこの「新3区」あたりは、疑惑のあった元府会議員の過去もひきずって、国政選挙ではいささか鬼門。

現在立候補している泉健太氏が北海道出身。前職の宮崎謙介氏が東京都出身といった事情も、このあたりにあるといえましょうか。老舗の諸政党、京都3区に関しては、いまだ扱いあぐねている、といった状況かもしれません。

といった具合で、前職辞任の責任を負う自民党が、この「新京都3区」にスラッと候補者を立てられなかったというのは、だらしがなかったにせよ、理解できなくはない事だったですが、不可解なのが共産党が候補を立てなかったこと。

この夏の参院選挙では、京都選挙区2議席の内、自民党が当確。残る1議席をめぐって、民進党と共産党が激突の真っ最中。

岡田氏と志位氏が、手をつなごうが、抱擁しようが、キスしようが、この京都における参議院議員の1議席をめぐっては因縁の対決といってもよく、わずか数ヶ月先の参院選の集票をめぐっては、共産党が不戦敗を決め込んだのはまったくもって不可解でした。支持者の高齢化にともなって、京都の共産党も足腰が弱っているのかもしれません。敗戦は想定内とはいえ、本年2月の市長選挙でも、共産党の候補者は、戦術ミスの上に、かつてない大差をつけられましたから、その後遺症であるのかもしれません。

以上、粗略ながら衆院補選よりも参院選が進行中の京都よりお伝えいたしました。編集長におかえしいたします。

 2016/04/23
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年4月18日月曜日

「上医は国を医す」考

「上医は国を医す」考

「上医は国を医す」。これは現在ほとんど使われることのない言葉だが、今、あらためてかみしめるべきと思う。

なにかしらの情熱もなしに、すぐれた医師になるものはほとんどいないだろう。だが診断と治療には、あくまで冷静さが必要である。「医」と「上医」というものを分けるのは、まずここかもしれない。

症状の訴えはどこまでも聞き届けなければならない。だがその患者の叫びに動揺してはならない。すぐれた「医」の態度は、「為政」にも通じるものと思う。

この事情は精神科医でもかわらない。患者とは接点を多く持ち、深く聞くことが必要である。しかし強く恐怖の感情を抱く患者とともにある医師は、患者と一緒になって決断するのは危険である。

医師は痩せても枯れても知識人である。「上医は国を医す」の通俗的な意味も、やはりここにあると思われる。したがって患者に先んじて、精神科医が一定の結論を準備すこともあるだろう。だがこれも危険をはらむ。なお避けなければならない。あらかじめ決められた方針が本当に有効であるかどうかは、その瞬間になってみないことにはわからない。省察を欠いた知識、歴史の試練を経ていない思想は、役に立たないことが実に多い。

恐怖の感情は、恐怖の対象が去った後、怒りに容易に変わりうる。時間と集団のはたらきによって同じまま持続はせず、さらには恨むことや憎むことにも移行する。しかし人間は自然を恨むことはできても、憎むことはむつかしい。自然の根元に対しては、復讐することができないからだ。人間が憎むのは人間である。不幸なことだが、自然を憎むことを拒まれた人間は、憎むべき人間を探し出し、それができない場合は、その憎むべき人間像や仮想の集団を創造することだってなくはない。

こういったひどく硬直した感情をどう解きほぐすのか。ばらばらになって孤立しそうな人々の心をどうまとめるのか。ここにも医と為政には、通じるところはあると思うものだ。

地震はまず自然災害である。しかし個々人の心はもちろん、集団や社会にもインパクトをもたらさずにはおかない。これからこれをどう医すのか。

地震が発生してまだその余震、連動地震の収束も見えず、また怪我を負った方の治療もままならない今ではありますが、上はとくにこの5年ばかり考えてきたことどもを書きつらねてみたものです。お読みいただいた方には、どうか諒としていただければと存じます。

 2016/04/16
 若井 朝彦(書籍編集)

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