2016年4月18日月曜日

「上医は国を医す」考

「上医は国を医す」考

「上医は国を医す」。これは現在ほとんど使われることのない言葉だが、今、あらためてかみしめるべきと思う。

なにかしらの情熱もなしに、すぐれた医師になるものはほとんどいないだろう。だが診断と治療には、あくまで冷静さが必要である。「医」と「上医」というものを分けるのは、まずここかもしれない。

症状の訴えはどこまでも聞き届けなければならない。だがその患者の叫びに動揺してはならない。すぐれた「医」の態度は、「為政」にも通じるものと思う。

この事情は精神科医でもかわらない。患者とは接点を多く持ち、深く聞くことが必要である。しかし強く恐怖の感情を抱く患者とともにある医師は、患者と一緒になって決断するのは危険である。

医師は痩せても枯れても知識人である。「上医は国を医す」の通俗的な意味も、やはりここにあると思われる。したがって患者に先んじて、精神科医が一定の結論を準備すこともあるだろう。だがこれも危険をはらむ。なお避けなければならない。あらかじめ決められた方針が本当に有効であるかどうかは、その瞬間になってみないことにはわからない。省察を欠いた知識、歴史の試練を経ていない思想は、役に立たないことが実に多い。

恐怖の感情は、恐怖の対象が去った後、怒りに容易に変わりうる。時間と集団のはたらきによって同じまま持続はせず、さらには恨むことや憎むことにも移行する。しかし人間は自然を恨むことはできても、憎むことはむつかしい。自然の根元に対しては、復讐することができないからだ。人間が憎むのは人間である。不幸なことだが、自然を憎むことを拒まれた人間は、憎むべき人間を探し出し、それができない場合は、その憎むべき人間像や仮想の集団を創造することだってなくはない。

こういったひどく硬直した感情をどう解きほぐすのか。ばらばらになって孤立しそうな人々の心をどうまとめるのか。ここにも医と為政には、通じるところはあると思うものだ。

地震はまず自然災害である。しかし個々人の心はもちろん、集団や社会にもインパクトをもたらさずにはおかない。これからこれをどう医すのか。

地震が発生してまだその余震、連動地震の収束も見えず、また怪我を負った方の治療もままならない今ではありますが、上はとくにこの5年ばかり考えてきたことどもを書きつらねてみたものです。お読みいただいた方には、どうか諒としていただければと存じます。

 2016/04/16
 若井 朝彦(書籍編集)

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