2016年6月26日日曜日

「地方議会議員と首長選挙」考


都知事が辞任に至るまでいろいろとあった。例によって周回遅れの感想だが、国際政治ならびに近世近代史に通じているはずの舛添要一氏らしからぬ退却戦だった。

政治学と軍事学とは別物だとはいえ、言いわけの逐次投入と、包囲が狭まりつつある中での挑発や威嚇は、兵法からしてかなりまずかったのではあるまいか。

ところでこのゲーム? 最初のうちは、野党が知事を叩き、与党もそれなりに叩きつつも、落し所として、どうやって知事を延命させるのかというルールだったように思う。それがある瞬間から、与党野党入り乱れての落武者狩りになってしまった。

「知事を庇いぬいた者」が優勝のはずが、一転して「首を挙げたもの」が表彰台となったわけで、結局、抜駆けの公明党が一等賞、後詰めで解散を防いだ自民党が技能賞だったらしいが、さて、じゃあ勝者が前知事にとって代わって主導権を握るかというと、そういう筋書きにはなっていない。

『朝まで生テレビ』で売り出していたころの壮年の舛添要一氏だったら、第三者として、

「だったらお前が代わりにやってみろってことですよ!」

と、あの口ぶりで切り捨てていたにちがいない状況である。知事選への立候補を擬せられる者の中に、与党の都議は一人もいないようである。もし今度の選挙で、非自公の知事が当選したら、彼等はいったいどんな顔をするつもりなのだろうか。

以上がこのおななしの長いマクラ。東京のケースはひとまずここまでで、ここからは日本の首長選挙に関しての一般論。

多くの場合、政令市の市議や県議府議などは、市長選や知事選には立候補しないし、したがらない。そういった市議や県議は、国政選挙にはけっこう挑戦するし、当選もするのに、しかし首長選にはなかなか立候補しない。それを望まれることも多いだろうに、この現象は何故なのか。おおまかにいって二つの理由があるように思う。

まず地方議会の選挙区が、かなり小さく区切られているということ。端的にいって、彼等の多くは、地盤の専門家であって政策通ではない。その一方で一度地盤に精通してしまうと、再選はかなり楽になる。もし野心(向上心ともいうけれども)がある者ならば、その地盤をそのまま活かして国政に打って出る。しかし市長選挙は本来の選挙区とは較べものにならないほど広い。知事選なんてもってのほかだ。

一般の市長村の場合は、大選挙区であるわけだが、それでも地盤に特化して、特定の地域の票を集める者が優位だ。議員によっては、その地域に詳しいとさえも言えず、自分に票をくれるものだけに詳しいといった状態になっているものと思われる。

彼等の多くは地方議員であることに満足してしまう。したがってさらに脱政策に磨きがかかる。階層社会学でいう「終着駅症候群」である。※1

そしてもうひとつ自動失職の問題がある。

議員は他の選挙に立候補すると失職してしまう。

昨年行われた大阪市長選の場合、自民党から市議のエースが立候補した。おおさか維新と舌鋒を交わした市議だったが、地位を捨てての立候補である。結局この選挙はおおさか維新の新人の勝ち。市議は退場した。維新が勝って自民が負けたようにも見えるが、大阪市全体からみればこれはまるごとの損失だったのではあるまいか。

議員がその居所の自治体の首長選に立候補した場合は、選挙が済むまで失職を免除してやることはできないものか。わたしはいつもそう思う。

たとえば京都市の市議が京都市長選や京都府知事選に立候補する場合、また都議や区議が都知事選に立候補する場合などである。もしめでたく当選した場合には、市議なり府議なり区議なり都議を失職させればよい。

残念ながら落選した場合には、そのまま議会にとどまり、ふたたび首長のよき論敵となればよい。

老舗政党所属の地方議員にすれば、そのままずっと居座れれば至極快適。そしてもちろん兼職も可。次の選挙で落ちることは論外だし、そうなったら瞬時にして破滅だが、上を目指すのはいたって難儀でしんどい。そんなことは考えたくもない。

おおよそはだいたいこんなもので、本人がよほどしっかりしていないと、ぬるま湯の中で能力がどんどん退化しかねない現況である。一方で首長は、予算編成権はほぼ丸ごと、人事権のほとんど、議会が叛いた場合は解散権、と権力が強すぎる。地方議員のほとんどは、首長のおこぼれ頂戴といった風情である。なんと情けないことか。

ところで今回の東京都のような場合だが、こういった場合こそ、せめて知事の残りの任期、議会議員の互選で知事補でも任命できないものだろうか。こんなひと工夫があってもよいはずだ。しかしともかく現在の自治体の選挙制度は不便である。

※1 もったいをつけて階層社会学といったが、そんな複雑なことではなく、いわゆる「ピーターの法則」のこと。

 2016/06/25
 若井 朝彦(書籍編集)

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2016年6月8日水曜日

「オバマ氏と広島スピーチ」考


スピーチと、そのスピーチの主というものは、親子のようなものではないかと思う。

あきらかに強い関係で結ばれてはいるが、完全な一体だとは言えない。時が経つとともに、親が子を忘れることもあれば、子が親よりも偉大になる場合もある。双方が背を向けることだってあるだろう。

オバマ氏が広島を訪れ、広島平和記念資料館を参観し、17分のスピーチをしてから10日ばかりが過ぎた。この間、日本国内では消費税率の引上げの再延期の決定があり、参院選挙日程の確定があって、5月27日もすこし遠くなってしまったが、このいま、オバマ氏の広島訪問とそのスピーチについて考える。

むろんのことこの件については、(人によっては訪問の以前から)さまざまな論評がなされた。肯定的なもの、否定的なもの、いずれも種々の歴史、事実、背景と引き比べて論評しているので、わたしなどは大変に勉強になる。

そうやって勉強になる一方で、論評の仕方が多様であるのには、いささか困惑もした。それぞれがいくらかすれちがっていて、論評同士を組み合わせてみても、論争に発展しそうにない。論評というよりも、個々や集団の、立場の表明のようなものも多い。

これはいってみれば異種格闘技みたいなもので、土俵あり、リングあり、フィールドあり。総じて論壇を形造っていないのである。それぞれの論評から事実の要素を抜き出すことはできても、論評そのものが参考になるものは少なかったとわたしは思う。

しかしこのスピーチについては、さまざまな面からの分析が必要であろう。問題はそれをどうやって統合するかなのだが、今回の場合、訪問そのものからして、とりわけ多様な意味を含んでいたということも確かである。

広島に、原爆投下国の大統領がはじめて来るということ。これはスピーチの内容をはるかに凌ぐ最大のシグナルだった。このためにどれだけの根回しが必要だったか、勉強をしたか、勇気が要ったかは次第に判ることだろう。

また時代が経つと、そのスピーチよりも、オバマ氏が広島平和記念資料館を参観したという事実の方が、高い価値を持つかもしれない。

そして重要なのは、オバマ氏が広島にのみ集中したわけではなかったということ。同じくアメリカが大量の爆弾を投下したベトナムをまず訪問し、そして志摩のサミットに参加し、軍人として岩国ベースを経て、そして広島に来たのである。この一連の行動に含まれる外交的シグナルも見落すべきではない。

日米越の深い和解と協調の表明。広島において、広島とアジアと世界を語ったのである。またスピーチ(文面)にもあったようにテロ国家、テロ集団への警戒の呼びかけ。新しい時代の戦争への注意喚起。

冒頭では、親子のたとえを持ち出したが、このスピーチがオバマ大統領にとって軍縮スピーチの「末の子供」だとすれば、「第一子」としてのプラハスピーチがある。多くの人は、プラハスピーチと比較して、広島スピーチには具体性が欠けるといって矛盾を突くけれども、任期も残りわずかとなった大統領は、この広島においては追悼を第一とするために、理念の伝達にむしろ専念したということではなかろうか。これは好意的に過ぎるであろうか。

ただオバマ氏の意図はどうであれ、現代のわれわれは、歴史的事実として、プラハ広島の両スピーチの長所を選んで活かすべきなのであろう。今後このスピーチの価値を決めるのは、オバマ氏だけでもなく、アメリカだけでもないのだから。

オバマ氏にしても今現在の評価よりも、将来を期してのスピーチであったろう。それは文面からもうかがえる。このスピーチと、オバマ氏と、アメリカは、まもなくそのあまりにも強い絆から離れ、それぞれの運命を生きてゆかねばならない。その点からすれば、大統領のスピーチと謂わんよりも、すでにノーベル平和賞受賞者としてのスピーチであったのかもしれない。

いずれにせよこのスピーチは生れたばかりだ。この子供が今後どんな人間になるのかというのは、即断することができない。また本人の意志もさることながら、環境というものもある。もしこの夏から秋にかけて、アメリカが大規模な軍事行動に出たとすれば、このスピーチはそのための偽装だったとさえ言われかねない。(これはスピーチではないが、1938年秋、独伊はむろんのこと、仏英でもほとんど熱狂的に歓迎されたミュンヘン会談の結果が、実際は平和の礎ではさらさらなく、地獄の入り口であること、これを西欧が理解するまで、多くの時間を必要とはしなかった。羊の皮は半年とすこしで剥げたのである。)

ところでオバマ氏はやはり演説、スピーチの名手で、その要諦のひとつに、聴衆との間合いがあるのではないかと思う。その点からすれば5月27日の広島でのスピーチでは、参加者に同時通訳のイヤーフォンを配るよりも、むしろ逐次通訳を立てるべきであったろう。

録画で確認していただければと思うが、彼は、その冒頭、「71年前、」という語りかけとちがって、スピーチの中間部分ではあきらかに緊張していた。はじまって10分を過ぎたあたり、声のピッチは上がり、つまりうわずっていた。語数は増えて早くなり、だが声は小さくなっていた。一語一語に対する反応を掴めなかったからなのであろう。

いまとなっては逐次通訳は古風ではあるが、聴衆の反応を確かめることに関しては有利な場合もある。この日もしそうであったなら、彼も通訳が喋っている間、複数の聴衆とアイコンタクトをとることもできて、落ち着いたスピーチになったことだろう。

さらに言えば、このスピーチには、(それが直前に仕上げられたものであっても)確定原稿があったはずだから、この訳を、大統領と交代に読む役を、日本の首相か外相が受け持っていたなら、さらにどれだけ効果があったろう。諸国から寄せられる好意のコメントや、また反発は、比較にならないほど大きかっただろう。(しかしこの広島に至るまで、アメリカ政府ではきわめて慎重に検討が重ねられていたはずで、とても日本を巻き込んだ演出にまでは至らなかっただろうが。)

だがなんといってもこの訪問とスピーチは、現代の世界にとっては貴重な種子なのだ。貶すにしても、称えるにしても、1ヶ月後、1年後、願わくば10年後にも、この広島訪問とスピーチが忘れられることなく、そしておだやかに話題にのぼる世界であることを、心底から望むし、またそうあらねばと、わたしは思う。

 2016/06/06
 若井 朝彦(書籍編集)

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