2016年9月21日水曜日

京都市〇〇〇売ります(前)

京都市〇〇〇売ります(前)

京都市は「京都市美術館」の命名権売却を決定して、本年2016年9月30日まで購入希望の法人を募っている。その要項によれば売却期間は50年以内、金額は50億円メドとのことである。その他条件として、かんむりに「京都市」を残すことなど。おおむね「京都市〇〇〇美術館」いうことになろう。

京都市美術館案内板

しかしなんとも長いはなしだ。たとえば売却責任者の門川大作市長が現在65歳であるから、50年後は115歳。京都市には現在20代の市議もいるのだが、50年後には70代である。その昔、京都市で何があったからこうなったのかを、2070年前後にきちんと説明できる人が、その時どれだけいるだろう。未来へのツケ回しなどではない、とはとても言えたものではない。

ところで、この50億50年の想定は、2011年に契約を締結した「京都会館」の命名権売却を参考にしていると言う。

場所が同じ岡崎地区の事だから50億とか言う。数的な算定基準もなく、説得力のない説明が当局からあるばかりだ。ところでその京都会館の命名権の売却では、買い上げは京都の企業、ロームであった。(正確には52.5億)

それは公募によるものではなかった。それどころか、具体的な命名権販売の予告も、その想定すら公表されてはいなかった。いきなりの50年。そしてこれは市側も認めたことだが、秘密交渉によるものであった。詳しい経緯は今も分からないが、トップ級の商談があったことは、市議会の答弁からしても確実だ。

命名権の売却は、地方自治法でいう財産の処分には該当しない、したがって議会承認は不要だという。そのため市の幹部は、約半年の間、交渉の途中経過を、議会与党にも一切相談しなかった。突然の発表を新聞で知った与党自民党の議員は、議会の委員会で市の当局者に怒りをぶつけたのものである。

しかし京都市はともかく、ロームへの風当たりは穏やかだった。「ローム・ミュージック・ファウンデーション」でどれだけ有望な新人を支援してきたかを知っている関西の好楽家は、わたしもそうだが、このことのためにロームを睨むということはしなかったはずだ。ロームの援助を受けた者は、プロフィールにその経歴をよろこんで記す。現在、京都市交響楽団のコンサートマスター、泉原隆志氏もその一人である。

さて、はなしを美術館にもどす。京都市も前回に懲りてか、今回はさすがに公募の形式を採ってはいる。とはいえ、「京都会館」の売却の際と同様に、たとえば京都市長のトップセールス、担当者と応募企業との接触などは禁じられてはいないようである。要項(正式には『京都市美術館ネーミングライツパートナー企業募集要項』)を読む限りはそうだ。

『京都市美術館ネーミングライツパートナー企業募集要項』のpdfファイルは、以下から取得が可能。
【広報資料】京都市美術館ネーミングライツパートナー企業の募集について
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000204820.html

総合審査
(要項より「総合審査」とその表)

選定方法
(要項より「選定方法」等)

やれ公募だ、それ選考に関与する委員会を作って評価だ採点だ、といっても入札があるわけでなし、もし破格の高額を提示したところで、募集要項の「表」にある通り、その配点比率は異様に低い。それに引き換え、名づけの企業についてはヤケにうるさい。

委員会の審査結果に関しても、その公表は、「応募企業名、第一候補の提案内容、全体講評」程度の扱いで済ますつもりらしい。要項の限りでは、委員会の採点や発言が公開されるとは、まったく読めない。「京都会館」の時と事情はほとんど変わっていない。

市が説明するように、市民負担を軽減しなくては、という目的が第一にあるのだとすれば、入札が最善の方法である。これはだれにでもわかる話であろう。透明性も高い。

近年、児童の虐待が問題になることが多いとはいえ、子供の名づけに関していえば、公権力は余程のことがないかぎり介入しない。基本的に性善説に立っている。それと同様で、数十億の出費をする者が、京都市に迷惑をかけるような名前を付ける(またその反動でみずからの価値を毀損する)かもしれないと考えるのは、やはり変であるし、なにより応募者に失礼というものであろう。

だいたい「京都市」の施設に企業名が入ることで、ある程度、名前が珍妙な物になるのは命名権売却の前提であって、「どの名前にすれば傷が軽いか」ということで気に病んだり、名前次第では値段は低くてもよい、というのであれば、もともと売るだけの理由があったのか、と疑った方がよい。

そもそも50億ですべてが解決するのではなく、新館建設と本館改修で(現段階の概算ですでに)100億のプロジェクトでなのである。50+50。(ちなみに「京都会館」ではローム約50:京都市約40の予定が、ローム約50:京都市約60に膨らんだ。)市民負担を避けるために名前を売る。しかし本館が古いままでは名前は売れない。名前を売るためには、派手な施設にせねばならず、そのためには市民負担が50億必要ということだとすると、まったくケッタイな堂々めぐりである。

この特異な募集要項を通じて京都市は、「京都会館」の命名権売却の場合とほぼ同様に

「金額ではありません。売りたい相手があるから売るのです」

と宣言しているようにさえわたしには見える。

(しかしこれが東京都での出来事であったなら、今頃、この案件、どれだけテレビ新聞雑誌に露出していることだろう。いや、いまさら「既存メディア」でもないか。)

・・・以下は月末の「京都市〇〇〇売ります(後)」に続きます。その(後)では、「もしこの企業が美術館命名権に応募したら」といった視点で、種々考えてみたいと思います。

(2016年9月30日夕・補)
さきほど応募も締切となりました。それにあわせて
京都市〇〇〇売ります(後)
をアップしました。

2016/09/20 若井 朝彦

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2016年9月20日火曜日

蕪村二つの顔と展示二つ

蕪村二つの顔と展示二つ

春のことだったが、このアゴラに若冲について書かせていただいた。生誕300年記念の展示などでの、ひと騒動からはなしをはじめてすこし語ってみたのだったが、これが同じ生誕300年でも、蕪村の周囲は実に落ち着いたものだ。

落ち着いているどころか、伊丹市の柿衛文庫にしても、天理市の天理大学図書館にしても、昨年2015年の秋の内に、蕪村のしっかりとした展示や、研究成果の公表を早々と済ませていて、実際の300年祭の本年は、各自、静かに迎えましょうという申し合わせでもあったのか、といった状況だ。
(もちろんそんな申し合わせはありません。でも蕪村ファンは、むしろこういった様子に納得しているかもしれません。)

2000年以前の状況であれば、確実に蕪村イヤーとなったはずの今年、若干とはいえ、京都でも、蕪村の優れた展示があるので、その二つをご紹介したいと思う。


その1 京都国立博物館

さきに京博を持ってきたのにはわけがある。館長の佐々木丞平氏は、江戸絵画が専門で、なかんずく応挙、そして蕪村にも責任をもって取り組んでこられた方。世が世であれば、蕪村の大回顧展をこの京博で開催していたことはまちがいないところだ。

今回の展示では特別陳列ということで、自館所蔵のものを中心に十数点のみ。名前の通ったものでは

『奥の細道図巻』

だろうか。ただ、俳諧宗匠としての蕪村のものがまったくない。これはさすがに寂しい。蕪村の書簡や刊本を借りてくる、または所蔵の参考資料などから展示することは、決してむつかしいことではなかった思うだけに、やや残念である。

文人蕪村の足跡ということであれば、同じ京博で2010年にあった「没後200年記念・上田秋成展」が秀逸で、蕪村にも多くの場所を割いており、それはそれだけで「画人俳人としての蕪村展」、といった趣であった。言いにくいことではあるが、その2010年の蕪村の展示の方が、今回2016年の蕪村の展示よりもずっと迫力があった。

2010年は、同時代の画家の業績も大々的に集められていて、竹田、大雅、若冲はかなりのものが出ていたし、また始興もよかった。佐々木館長渾身の企画だったのであろう。(ポスターとチケットにしてからが、応挙の画が大きく刷られていたくらいだった。これが本当に「秋成展」? というほど。)

数年の内にもこういう企画がなされて、蕪村にも、また数多の江戸の文人画人にも、あらためて注目が集まることを期待したいものだ。
(こちらの蕪村展は、もうすぐ期末なのでご注意下さい。)
京都国立博物館


2.角屋もてなしの美術館

この美術館は、春と秋の期間を決めて開館。蕪村の『紅白梅図屏風』『紅白梅図襖』を所有するが、館の宝だけあって、いつもいつも出される、といったものではない。しかし300年の今年は、この梅が期間を区切って交互に展示されている。じつはわたしはこの展示をしばらく待っていたのである。すでに春季に三度訪れている。

ほの灯り 蕪村がむめに 眼をあらふ  立立

もちろんこの梅もすばらしいのだが、この角屋は、かつての京の俳諧連中の拠り所でもあった。ここに残された、種々の手筆などによって、その俳人たちの交遊の拡がりを示す。小さいものがほとんどだが、深み厚みの感じられる展示である。

展示は展示室で行われているのだが、重文である角屋の建物そのものにも上がることができる。蕪村の展示に、月居の『庭松四季句扇面』も出ていたが、これはこの角屋の庭を称えたものだ。そこにしたためられてあった

蓬莱の 松や居ながら 庭ながら  月居

から読み取れるような風情は、その揚屋の奥の庭に、今もしっかり残っていると言える。
角屋の夜

(さて、以上が両館の紹介ですが、全国の皆さん、とくに春の若冲展に並んだ猛者の皆さん、9月下旬の京都はまだ空いている方ですから、ふらっと新幹線に乗るなどしてお越しになり、午前には、京都駅から東に1.5kmほどの国立博物館を訪れ、その後どこかでお昼などして、午後はそこから西に3kmほどの角屋に回り、夕暮れ時にまた新幹線でふらっと日帰りなどいかがでしょう。若冲とは180度ちがった筆致ではありますが、それなりの感興があるかもしれません。とくに提灯を持つというわけでもありませんが、今年が若冲ばかりではもったいないな、と思い、すこし宣伝をさせていただきました。しかしこのプランで稼ぎらしい稼ぎになるのは、博物館と美術館ではなくて、JR東海だけですね。)

2016/09/17 若井 朝彦

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2016年9月12日月曜日

ストビュー撮影車との遭遇

もう先週のことになる。金曜の夕方だった。市街を移動中のこと、風変わりな車が目に入った。パーキングに停まっている。興味を持って、こちらも停止した。

ストビューの撮影車なのである。しかし車体にはかなり傷がある。現役の、本物の撮影車なのだろうか。狭い道に入り込んで撮影するとなると、車体も傷むのだろうな、とは思うものの、それにしても傷だらけである。そしてけっこう古傷だ。サビが深い。昨日今日の京都の狭い路地の撮影で付いたものではない。

カメラは低位置に下げられていてカバーがかかっているし、だれも乗っていない。挨拶も質問も世間話もぜんぜんできない。残念であったが、しかし撮影中の車であったら、こちらの姿も画像として取り込まれていたかもしれない。あまりいい感じはしなかったはずだ。駐車中でちょうどよかったのである。たぶん月曜までここで週末の休息なのだろう。

そういうわけで、当方もこの車を、とくに断りを入れることもなく、公道から何枚か撮影。

ストヴュー車

ストビュー自体、プライバシーの問題で訴訟などになって、写り込みの車のナンバーについてはボカすことになっているくらいだから、この写真でも消しておいた方が無難じゃないのか、というまったく弱気で消極的な理由でナンバーは消すことにしたが、しかし単純に消すだけでは芸がない。車体塗装とおんなじ地図模様の仕様で、つたない塗り絵にして遊ばせてもらった。

だがwikiを見ると、堂々とナンバーが写った画像を出している。wikiの車は成田ナンバーである。この車も同じ成田だった。京都のだれかが、塗装もそのまま、カメラ付きの中古を買った、というものではやはりないようだ。現役の車なのであろう。

このように好奇心があって近寄ってみたわけだが、じゃあストビューに魅力があるかというと、これがまったくなのである。今日すぐになくなっても、わたしは困らない。

日頃から、いずれ日刊新聞は絶滅するぞ、などということをつぶやいていながら、しかし明日、急に新聞がなくなったら困るのである。それはWEB版というものが、今よりも充実していたとしてもやはり困るのであって、わたしにとっては、紙の新聞がなくなると、情報の反芻に困難を来たして、一日の生活が乱れてしまうと予想されるのだ。もっとももしそれが現実となってみると、おそらく数日の内に慣れてしまうだろうが、いま現在のわたしに抵抗感があるのはたしかだ。

しかしストビューは、今日すぐになくなっても、わたしは困らない。ストビューなるものが登場した時は、そんなものがあるのかと驚き、この先、ネットで何年も退屈することはないだろうなと感嘆したというか、ほとんど熱狂したものであったが、すぐにも冷めてしまった。

たしか2008年、鎌倉のやや込み入ったところに行くのに、ストビューで下調べしてから行ったのだが、結局は地図ほどは役に立たないのである。以後はほとんど使わない。今回すこし触ってみたが、将来、使い勝手が格段によくなっても使わないと思う。

ストビューを有効に、そして猛烈に使っておられる方も多いはずだ。しかし普段の会話で、ストビューがどうした、どう使ったなどという内容になることはまったくといっていいほどない。

ストビュー・カーの車体の傷もこのあたりの事情を物語っているのではあるまいか。傷がつくのも仕事の内、というような撮影作業なのだろうが、IT(この言葉がすでに古い)界隈の花形であれば、やはりバリッとした車を走らせているはずだろう。

しかしストビューに限らず、新しい電脳のシステムがどんどん古くなるのは、より新しいものが古いものを呑み込んでゆくからなのか、それとも人間の飽き性がそれほどまでに強いのか。またその一方で、もちろん人間には執念深い面もあって、これが国家単位に準ずるまでにもまとまると、それはそれで著しく統御がむずかしくなるのだが。

このようにいろんな断想が浮かんでは消えたストビュー撮影車との遭遇であったのだが、最後にまだ付け加えるならば、(新聞はともかくとしても)印刷による地図、書籍という古典的な情報伝達の形式は、まだまだ電脳の骨格であることは確かで、電脳の内部に取り込まれても意外としぶとく形を守り、電脳の外でも、そう簡単にヘタりそうにはない、ということである。

2016/09/11
若井 朝彦・ストビュー撮影車との遭遇

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