2017年1月28日土曜日

戦後の国語政策と「云云」

現在われわれが使う漢字のほとんどは、常用漢字表にあるものなのだが、この表を、たとえば自民党の首脳は、どのように思っているのだろうか。もし国語通がおられたら、ぜひともお答えねがいたいことの一つである。

常用漢字表というものも、敗戦後の占領下に急いで作られた当用漢字表の部分改良版に過ぎず、これもいわゆる戦後レジームであるからだ。もちろん首相の演説原稿だってそのレジームからは逃れられない。(しかしこの改革も、じつは日本陸軍の欲する所と、同一線上にあったものなのだが。)

さて、そんな質問はともかく、現行の漢字について考えてみよう。

大雑把に言って当用漢字表とは、(おおむね康熙字典体である)正字を、それまでからずっと通用していた手書きの略字体に、「置き換えらるれだけ置き換えた」といったものである。そのためほとんどの漢字で字画は減ったのだが、漢字(正字)の持つ意味構造と音の仕組みは、その簡略化の過程で、かなりが崩れてしまった。一部では立派に混乱も生じた漢字群もある。「云」というつくりを有する漢字など、その格好の例だ。

たとえば現行の

「雲」「伝」「芸」

という漢字には、おなじ「云」が使われているのだが、音はそれぞれ別々である。

「雲=ウン」「伝=デン」「芸=ゲイ」

といった具合。しかしこれを本来の正字に戻すと

「雲=雲」「伝=傳」「芸=藝」

である。こうして並べると「云」というつくりが「伝」と「芸」の音の要素でないことがわかる。「伝」「芸」にとって、つくりの「云」は仮の姿なのである。
(そもそも「芸」と「藝」は別の漢字であったのだが、戦後「藝」は略されて「芸」となり、元からあった「芸」のドメインを、完全に乗っ取ってしまった。)

「雲」を音で読むことはあまりないが、「雲量=ウンリョウ」「雲高=ウンコウ」「雲底=ウンテイ」といった用語もある。もし「云」と「雲」とが、音で通じていると知っていたなら、「云云」のヨミも覚えやすかっただろうし、まちがえるにしても「ウンウン」という風に読んだかもしれない。

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戦後の漢字は、字画は減って一見のところ覚え易くなったけれども、音や意味の類推が難しくなったのである。活字は目で見る。だから画数が多くてもさほど判別の苦にはならない。むしろ意味構造がしっかりしている方がよい。しかし手で書く時は、早くて楽に書ける字体が便利である。手書きが主流の時代は、同じ漢字であっても、印刷する時は正字で、書く時は略字で、といった使い分けの方便があったわけだ。

しかしこれは、現在の状況と似ているところがある。画数とは関係なく、キーボードなどの入力と変換によって、すばやく漢字をあらわすことができる。構造を犠牲にしてまで画数を減らした字体を使う根拠は薄れているのだ。

ではどうすればよいのか。漢字を使うからには、漢字は便利で判り易いものであってほしい。画数はやや増えてもいいから、一度覚えたら忘れにくい字体がいい。数十年後でもよいし、百年後でもよいし、それこそ再来年からでもよいが、機会があれば、「偏」と「旁」に関して、意味からも、音からも合理的な再整理をすべきだ。わたしはいつもそう考えている。

それを誰がするのか。絶対に国語審議会など、集団に任せるべきではない。何かある毎に「全部足して出席者数で割る」ような集団でできるようなことではない。統一された方針が必要で、だれでもよいから個人が提案すべきだ。そうでなければ、筋道が通らない。日本語の表記法に関心のある大学生だったら、試案くらいできないこともないだろう。PCを使えば、仮のフォントだって立派に組める。そうやって多数の案から、簡素にして意味と音に整合性の高いものを選べばよい。その発表も、インターネットで各々ができる。衆知による修正補綴はその後で十分。

以上はなかなか実現はしそうにない腹案ではあるのだが、日本語の表記に関して何かしようというのであれば、せめてこのくらいの展望は持っておくべきであろう。おおげさなようだが、立場上この字体の件は切実であって、わたしにとってそれは、憲法問題に、いささかも劣らない。

*文字例の画像「云 云 伝 伝 傳」は
奈良文化財研究所と東京大学史料編纂所による
『木簡画像データベース・木簡字典』『電子くずし字字典データベース』
の『連携検索』から作成

2017/01/26 若井 朝彦
戦後の国語政策と「云云」

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2017年1月24日火曜日

「第三のウソ」のことなど

わたしはツイッターの「ことわざbot」のたぐいを、いくつかフォローしている。同じつぶやきが繰りかえされても、その都度楽しんでいる。ことわざが好きなのである。次のものは、ことわざというよりも警句箴言だろうが、かなり気に入っているもののひとつ。

「ウソには三種類ある。ウソ、真っ赤なウソ、そして統計である。」

タイムラインに周期的に現れる。

統計は直ちにウソというものではもちろんない。だがその「統計」(実験による「統計」や観察による「統計」など)というものにもさまざまな品質がある。

「統計をする意味が不明な単なる統計」
「有効な仕分けがしてある統計」
「前提に欠陥があって誤った証明を誘発しかねない統計」
「データ捏造や仕分けの仕方にトリックのある統計によって作られた単なるでっち上げ」

この他にもいろいろだが、(数値)統計といっても要は人間次第なのだ。たしかに「第三のウソ」とレッテルを貼ってもよいものも、世間にはうんざりするほどあふれている。とくに賛否に揉まれていない統計は要注意であるし、「手法はまちがっていないし悪意も認められないが袋小路に迷い込んでいる」といった統計は、なお扱いが難しい。つい先日、1月18日の外信ニュースも、後者の一例だったのかもしれない。

共同通信47NEWS・2017/1/18 01:01
https://this.kiji.is/194119358531403778
「ダイエット実験でサル寿命延びる・論争に決着、米チーム研究発表」

・・・栄養不足にならない適度なダイエットで寿命が延びるかどうかは長年の論争の的だった。国立加齢研究所とウィスコンシン大はサルを使った研究で、2009年と12年にそれぞれ異なる結果を示していたが、互いのデータを分析した結果「寿命を延ばす効果あり」と結論を出した。・・・
(全文は300字弱)

朝日新聞デジタル 1/18(水) 7:52配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170118-00000025-asahi-soci
「カロリー制限、やっぱり長寿に効果 論争に終止符か」

カロリー制限はやはり長寿に効果がある、とする研究結果を米国の二つの研究チームがまとめ、17日付の英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズに発表した。両チームは1980年代後半からアカゲザルで実験を続け、効果をめぐって相反する結果を発表。両チームが共同で実験データを再解析し、「効果あり」で結論が一致したという。・・・
(全文は約700字)

記事は朝日の方が長く詳しい。この記事はアメリカに元ネタがあっての記事なので、この2例のほかにも配信はあったかもしれない。ここでいう「両チーム」、米ウィスコンシン大学と米国立加齢研究所がそれぞれアカゲザルで実験をして統計し、導き出された見解は相反していた。だが両方のデータを再解析したところ、カロリー制限が寿命をのばす事に有意であると結論づけた、ということであるらしい。当初の対立がめでたく和解したわけであるが、一定の期間は、相手の統計、または結論を、双方ともに疑っていたわけだ。

さらに朝日の要約によると

・・・実験開始時の年齢を若年(1~14歳)と中高年(16~23歳)に分けて改めて解析すると、若年でカロリー制限を始めた場合は寿命が延びる効果はみられなかったが、中高年で始めた場合は効果がみられ、特にオスは平均寿命の推計が全体よりも9歳ほど長い約35歳だったという。・・・

ということである。アカゲザルの普通の寿命からして実験は30年単位のものであるのだし、それをまたはじめから繰りかえすよりも、すでにある統計数値を解析しなおした方が安上がりだったはずである。もっとも、突き合わせや解析をせずにそのまま再現というわけにはゆかなかっただろうが。

解析以前の統計そのものであっても、先入見の影響は皆無ではない。また次の予算が獲得しやすい結論とそうでない結論もある。潜在する集団意図がそれに働きかけてしまうことも、もちろんある。対象群が充分大きい場合はともかく、サンプルの少ない統計に飛び抜けた数値が現れた場合、それをノイズとして撥ねるのか、それとも特異な現象として突っ込んだ研究をするのかは、それこそ当事者次第。このアカゲザルの例では、どうやら数字の区分を見直すことで、意味のある結果が導き出されたようだが、下手をすれば、双方の統計が共倒れして、まとめてガラクタにならなかったとも限らない。

また研究機関の発表する結果を、報道が煽ることもしばしば起こる。統計や結論の一部ばかりを、ウソにはならない程度に増幅したりするわけだ。今回の場合、朝日も共同も同じネイチャー・コミュニケーションズを読んでの記事のようだが、共同は「論争に決着」、朝日は「論争に終止符か」という言葉を用いている。しかし「ア大」と「加齢研」との間で手打ちがあったということで、他の団体は関与していないようだ。共同通信の「結着」はむろん、朝日新聞の「終止符」という語の使用も(朝日は、東スポ風に「か?」をくっつけているにしても)、ちょっと上ブレの感じが否めない。第三者の検証も欲しいところだし、本当の結着は、最低限のところ機序(機杼)が明らかになってからのことだ。

統計は、そのままでは統計にとどまることがほとんどで、機序本質解明のための参考である、と心得ておけばまずまちがいない。統計によって機序が究明され、解明のなされた機序によって統計の方法と精度が向上する。複数のチームで相反する結果が出ていて、検討が加えられる統計というものは、途中に紆余曲折があっても、その分だけ幸運な統計であり研究(過程)なのである。このアカゲザルのケースもなかなか恵まれた研究だったようにわたしは思う。

2017/01/22 若井 朝彦
「第三のウソ」のことなど

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2017年1月20日金曜日

『おんな城主 直虎』と狂言と鼓と国衆と

今年のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』がはじまった。

この大河の主役は井伊直虎。実在していたことは確かだろうが、史的資料のほとんどないこの直虎をどう描くかは、製作陣もとってもむずかしいところだったにちがいない。普通だったら、大河の主人公に据えるのには躊躇したはずだ。それに加えて、昨年の『真田丸』とストーリーのかなりがかぶる。

だが1月15日の第2回の放送までを見たところ、その不安はなくなったといってよい。ドラマとして面白いのである。このドラマが、史実とどのくらい乖離しているのか、決定的なことは誰にもわからないだろうが、浜名湖の奥、井伊谷(イイノヤ)の一族は、いったいこれからどうなっていくのであろうか。そんなワクワクを脚本と俳優がしっかと支えている。

俳優、脚本ともスターシステムではなく、アンサンブルのドラマである。脚本家は複数の演出担当とも、もちろん突っ込んだ摺合せをしたと思われるが、芝居のさせ方が、役によっても、また場面によってもさまざまなのである。これも工夫の一つなのだろう。

たとえば前田吟。この人が出てくるところは、いささか石井ふく子+橋田壽賀子風の味付けが顔を出す。平たく言うとNHK大河が、瞬間TBS東芝日曜劇場化するのであるが、同じ前田吟でかつ同じNHKでも、『マッサン』(2014-2015)の出演では(相手役が泉ピン子であってさえ)そこまでの演技はしていなかったから、これも演出側の意向なのだろう。井伊一族の、複雑な大人の事情をそうやって見せている。

ところが子役三人が表に出ると、一転して芝居が様式化する。様式化するといっても平板な芝居になるのではない。その逆である。第2回「崖っぷちの姫」よりセリフだけを拾うとこんな具合だ。
(井伊直盛)おとわ!

(とわ)父上!

(今川家臣)おとわ? おとわとは何者じゃ?

(井伊直盛)我がひとり娘にござる。

(井伊家臣)まことにござる。こちらは井伊の姫にて・・・

(今川家臣)ほ! では井伊の姫がなにゆえ、朝はやくあのようなところにおられたのじゃ?

(とわ)それは・・・・・・! 竜宮小僧を探しておったのです!

(今川家臣)竜宮小僧?

(とわ)井伊の里に住む、伝説の小僧です。ここのところ、ずぅっと探しておったのですが、全く出会えず、ひょっとして、朝はやくならとくり出した次第でございまする。嘘だとお思いなら、里の者に訊いてみて下され。
この場面で(後の直虎である)おとわが大人に物申す時、ふと腰を落としつつ語るといったしぐさは、ほとんど狂言に通じている。こういった所作は物語の展開に風格をもたらすし、また狂言にあるような空言がかすかなおかしみをも添えていて、筋にも奥行きをあたえる。いずれは女大将になるだけの芝居をすでに子役にさせているわけだ。

こういう読み方をしはじめると、春風亭昇太演ずる白塗りの今川義元の無言は、能の能面であるようにも見え、持道具として扱われる笛や鼓もまた能狂言の中世の隠喩であるのかもしれない。

深読みかもしれないが、脚本と演出には、江戸ではなく、安土桃山でもなく、武家中世の成分が満ちている。

戦国末期に至る前段として、国衆が時に大きい勢力に蹂躙されながらどう生き抜いていったのかというテーマは、すでに『軍師 官兵衛』(2014)の小寺家(黒田家)にも、また『真田丸』(2016)の真田家の複雑さにも現れてはいた。しかしそうはいっても、両者とも最終的には天下人に合流してゆくという筋立てである。だが今年の『直虎』では、(直虎存命中を描く限りは)おそらく近年の中世武家の研究も採り入れて、半独立の農村共同体である国衆の臨機の決断といったものに、次々と焦点を当ててゆくことになるのではなかろうか。

たしかに扱う対象が小さいと、「大河」という看板にそぐわないものになるかもしれないが、国衆をテーマにした大河というものはたしかに現代と合っているといえる。たとえば、ある大名の突発的な行動によって困難に陥った藩の一部が、その後も強固に団結して超法規的な行為に及ぶといった事件(赤穂浪士のことです)などは、一義的な団結力のすばらしさを描くとしても、また政府への反抗といった面を強調するとしても、現在ではもはや大きな注目を集めることはむずかしい。

ドラマとしての『直虎』が、これからどのように展開するかは判らない。脚本家を含めて、評判を確かめながら柔軟に対応することになるのだろう。しかしこの『直虎』のように、国衆が勝敗の中で浮沈し、国衆の内部でもユニットを組み替えながら、多くの場合は妥協し、若い人材を育てつつ時流を掴もうする物語の方が、以前のグランドスタイルの大河より、現在の若い世代の支持を得るのではあるまいか。

毎年のことながら、ドラマの出来を計る指標として、視聴率についても話題になるはずである。だがそれとともに、このドラマがどう受容されるのかということから、逆に現代が見えてくるかもしれない。

2017/01/17 若井 朝彦
『おんな城主 直虎』と狂言と鼓と国衆と

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2017年1月12日木曜日

元号存続についての折衷案

今上天皇ご譲位に関係して、新元号が新聞を賑わしはじめた。大手マスコミは、「ネットメディアではこうは行くまい」とばかりに政府系の情報を流しはじめている。これから数年、抜きつ抜かれつのスクープ合戦になることかと思う。

その報道の内容よると、新元号はその半年前に政府決定ということだ。しかしながら、わたしの周囲でもすでに2019年(平成で数えると31年)あたりの計画であったり受発注が、とっくに動き始めているわけで、こうなると、現在のところ元号表記でぎりぎり踏みとどまっている会社・法人も、次第に西暦の単独表記に切り替えてゆくことになるはずだ。

新聞報道が本当になるかどうかはわからないが、「半年前に決まる」というよりも、「半年前にしか決まらないのか」というのが実感だ。自民党が望むと望まざるとに関わらず、元号が実用から遠ざかってゆくことは避けがたい。

ところで、いささか古い論述だが、加藤周一は1970年代の半ば、こんなことを書いていた。
日本の人民が、国の主権者として、旧中国の習慣をまもり、帝政とむすびつけて年を算えるのは、時代錯誤ではないだろうか。―――しかしそのことと全く離れてみても、元号を廃した方がよいと思われる理由は他にもある。

元号の廃止に反対する議論には、元号が特定の時代の雰囲気を伝える、というものがある。「明治の男」、「化政の江戸」、「元禄の文化」など。それは「身の丈六尺」という言い回しの味が失われるから、尺貫法の廃止に反対し、「草木も眠るウシミツ時」に愛着があるから、国鉄・日航の時間表も、何時何分ではなく「明け六つの特急」とした方がよいというようなものである。しかしそういう反論をする人々の何人が、たとえば美術史家のしばしば用いる「弘仁仏」「貞観仏」という表現と、「九世紀の前半および後半の仏像」という表現の、どちらを容易に理解するだろうか。西暦に慣れれば「世紀末」とか「六〇年代の学生運動」という言葉にも、時代の雰囲気を感じること、元号の場合と変わらない。

メートル法採用は、多数決の結果ではなくて、多数の利益に奉仕するものであった。西暦の採用もまた、多数決の結果ではなくて、日本国の人民の多数の利益に役立つものであり得るだろう。なぜ年を算えるのに、キリスト誕生からはじめなければならないか。そうでなければならぬ理由は全くない。ただ皆同じところから算えて、各年に通し番号をつけるのが、大変便利だというだけの話なのである。

『言葉と人間』(朝日新聞社・1977年)所収
「廃元号論または『私と天皇』の事」から抜書き
加藤の論点は3つ。

(1)元号の存在が人民主権から逸脱していること。
(2)元号の文化的歴史的印象が西暦でも代替できること。
(3)西暦の方が便利であること。

(1)に関しては、このすぐ後に制定された元号法が効力をもっており、現在さしあたって議論にはならない。(3)に関してはその通り。西暦が便利であるというよりも、元号の不便が明らかになってきている。

(2)の論述は、しばしば言葉で見得を切る癖のあった加藤にしてもかなり乱雑で、尺貫法への無理解はここでは措くとしても、やはり時代に名が与えられていることには価値がある。数的表現では味わいがない。わたしはそう考えるところだ。

元号の価値とその通用が、日本に限られるものであるとしても、それはそれで面白いだろうし、それゆえに面白さが増すということもあろう。すでに結着のついている実用での優劣で粘るよりも、文化的象徴の陣地までサッと引く方が賢明ではあるまいか。

昭和は長く続いた。そのため、昭和を戦前と戦後に区分するだけでも足らず、「高度成長期」「万博前後」といった補助表現も数え切れない。そういった意味で、元号の文化的歴史的印象は、一世一元となったところでかなり損なわれてしまっていたともいえる。加藤の論が出てくる素地はあったわけだ。このままでも、元号がなくなることはないだろうが、残るといってもそれはやはり儀礼的な限られた範囲に縮小してゆくにちがいない。

もし今後も元号を残そうとするのであるとすれば、むしろ改元を柔軟にすべきではないだろうか。そしてそれが望ましいとわたしは考える。慶応まではそうだったのだから。

さらに言えば、使うにあたって混乱しないよう、西暦の末尾の桁と元号の値を同じにする。つまりは基本的に10年で改元するといった具合である。

これはかなり粗い意見である。それは承知している。しかし明治6年(1873)に新政府が突如として太陽暦を導入した実績、また昭和戦後、新嘗祭を「勤労感謝の日」に、彼岸の中日を「春分の日」「秋分の日」に巧みに読み替えた工夫と比べてみて、そうもむずかしいものではないだろう。

結論をいうと、わたしは元号そのものを好ましく思うのであって、明治以後の一世一元に強い関心を有しない。しかし生活上で本当にややこしいのは、元号と西暦の関係ではなく、実際の「年」と、お役所仕事などの「年度」との乖離である。

2017/01/11 若井 朝彦
元号存続についての折衷案

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2017年1月2日月曜日

編集者が出版のいまを描く時 川崎昌平 著『重版未定』

(年末に本屋に出かけていって、買って帰ってきた本のご紹介。書評というほどのものではありませんが、著者と版元の応援になればと思います。)

著者は川崎昌平氏、タイトルはどこかで聞いたことがあるような『重版未定』というもの。その第1巻。副題は

‐ 弱小出版社で本の編集をしていますの巻 ‐

もともとは同人誌に描かれたものだったというのだが、その後、機会があってWEB連載になり、さらにいろいろとあって河出書房新社からひと月ほど前に刊行。業界の今をリポート、ともいうべきマンガ。

その出版業界はなんといっても目下規模縮小の一途で、歯止めのメドはまったく立たない。腰巻(「帯」ともいう)に書かれた惹句(「アオリ」ともいう)もまったくその線で、

「リアル過ぎて、泣けました。」

である。とはいうものの、悪戦苦闘するキャラクターたちは、見た目には「ゆるい」感じがして、そのリアルさはまろやかな仕上がり。現実はどこまでも徹底的に厳しいが、コマの中のセリフはほろ苦くて、すこし切なくて、「泣けました」というのも決して誇張ではない。

ところで出版業界というと、一方に強烈な理想主義があって、そしてその反対側には冷徹な経営原理があって、登場人物は、みんなその間で悩む。

ともあれ編集長の頭はやはり経営が第一である。
《編集長》
「おい待て、いつ誰が『売れる本』をつくれって言った?
まず『売る本』を用意して、取次に納品することが仕事だろ?」
(第3話 企画会議)
出版社がこんな具合だから取次とのあいだには軋みが絶えない。
《営業・バケツ氏》
「双方動くな!
取次と版元が喧嘩しても、読者は喜ばねえんだよ。
仲良くしても、どうにもならないその日までは・・・仲良くしようぜ」
(第7話 取次)

しかし編集長だって理想は捨てきれない。
《編集長》
「小見出しの出来が、購入の指針になると思うか?
第一だな、小見出しなんて読者を甘やかすだけだぞ・・・
甘やかされて育った読解力のツケを払うのは、結局俺たちだ」

《主人公》
「アレてますね。
なんかあったんですか?」

《編集長》
「ん・・・いや、今年度の決算が・・・ちょっとアレすぎて・・・
思わず酒に逃げた・・・って感じだ、うん」
(第13話 入稿その2)
《編集長》
「1万人のための本ばかり編んでいたら、似たような本だらけになる。
そんな本を編みたいか?
どこにでもあるような本をつくりたいか?
・・・・・・
本のための、本を編め!」
(第15話 辞表)
そしてつねに出版業界の現実と直面している作者はこんな風に言う。
《あとがき》より
いずれにせよ、ちょっとでも本書をきっかけに「出版」や「編集」に興味を持っていただけたら、それに勝る喜びはありません。
誰にも意識されないまま滅びるのが一番寂しいので・・・・・・。
また書物への愛情を、補注の中にさりげなく秘ませる。
《補注》
【 棚 】
この場合は・・・書店の「売り方」や「品揃え」、はたまた生き残るための「戦略」や書籍および出版文化に対する「愛」などを表現する存在としての棚・・・
・・・営業担当者は棚を見るだけで、その書店の真価を見抜くという。
(第6話 客注その2)
以上、まとまった感想を書くつもりが、単なる抜書のメモのようなものになってしまった。これでは応援の後押しにはなりそうもない。その補いにもならないけれども、最後にこの『重版未定』の表紙をご紹介しよう。

表紙といっても、目に触れるカバーのことではなくて、その下側にある、書物にとって本当の表紙のこと。

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いわゆる「新古本店」でも、カバーのない本には、ほとんど値段がつかない。色刷りのハデハデしいカバーの欠けてしまった本は、見た目には、面白くとも何ともないからだ。今日日の単行本は、カバーを外してしまうと、たいてい幻滅する。あまりの味気なさに、百年の恋だって冷めてしまうほどみすぼらしいものがほとんどだ。

でもこの『重版未定』の表紙は、限られた予算の中で、カバーと同じように慈しんで作られている。わたしにはそう見える。もちろん単色刷りに過ぎないけれども、カバーとは別に作られた楽しい絵柄からは、編集者と著者の真情が、じんわりと伝わってくる。

2017/01/01 若井 朝彦
編集者が出版のいまを描く時 川崎昌平 著『重版未定』

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