2017年6月25日日曜日

名古屋城は天守それとも石垣

天守のあるお城はすばらしい。たとえば姫路城。

JRまたは山陽電鉄の姫路駅の駅舎を外に出ると、大手筋の真正面に天守が聳えているのがただちに見える。駅と天守は約1kmの距離があるけれども、天守と町とが一体であることはすぐに判る。

しかし、もしこの天守がなかったとしたらどうであろうか。遠くからはお城の存在はほとんど認識できず、徒歩で15分ほど、城郭に近付いてみて、はじめてその石垣の様子がわかる。お城というものに、天守がある場合とない場合の落差は、激しいものがある。

このことはJRと近江鉄道の彦根駅と彦根城との関係でも、ほとんど同じであろう。姫路と彦根、どちらの天守も国宝である。

では石垣だけの古城郭には意味がないのだろうか。それはまったく間違っている。2022年の木造天守復元竣工が計画されている名古屋城でも、石垣の価値をどう理解するかで、どうもこじれが出ているようだ。

この名古屋城の木造天守復元に関し、専門委員として加わっている千田嘉博氏はこう述べる。
木造復元ありきでなくて、まずは国の特別史跡として最も守らなければいけない石垣をしっかり調べて、次の世代に残せるように保全措置をとって、その先にどう活用するかという議論があるべき。(今の計画は)国の特別史跡の活用計画として、非常にまずいのではないか。

「名古屋城天守閣木造復元に厳しい意見続出」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170623-00003182-cbcv-soci
(CBCテレビ 2017年6月23日配信)
また同じく宮武正登氏は、
石垣を保護する観点が欠けている木造復元計画はいずれ行き詰まる。

「名古屋城 石垣移動計画を再考へ 文化庁、保全が前提」
https://mainichi.jp/articles/20170513/k00/00m/040/099000c
(毎日新聞 2017年5月12日配信)
とも。市長をはじめ、木造天守復元に、期限を切った上で前のめりである名古屋市の幹部連と、石垣の価値を充分承知している専門委員との溝は、小さいものではないようだ。

ではなぜ石垣が重要なのか。

考えてみてほしい。現在の名古屋城の天守は、1945年のアメリカ軍の空襲で焼け落ちた天守を、戦後になって鉄筋コンクリートで外装復元したものである。今回の計画ではそれを取り壊し、石垣の調査と保全と修復は後回しに(省略)して、また場合によっては石の一部を、工事の都合に合わせて移動させた上で、木造で天守復元しようとしているわけだ。それは鉄筋コンクリートよりも精緻なレプリカであることはたしかだ。家康の時代に建造された天守の構造は、空襲以前に詳細な測量もなされていたから、それに沿って木造で建造をすること自体に、おおきな障碍は予想されていない。しかし同様のことが石垣でできるであろうか。石垣は木造のように、あらたな材料に置き換えて復元ができるものであろうか。

これは出来ない相談なのだ。まず当時と同じ系統の石が集められるかどうか。そして当時の積み方の通りの積みで積めるものかどうか。そしてもし当時の積み方ができたとしても、その積み方も、個所によってまったく一様ではないのだから。

なにより懸念されるのは、一旦天守が乗ってしまうと、土台である石垣は、調査も修理も、極めて困難になってしまうことであろう。

名古屋城はホームページが充実していて、どのようにその石垣が作られたのか、実に詳しい。たとえば『名古屋城公式ウェブサイト』の中には

『名古屋城の歴史』 複雑な丁場割
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/07_rekishi/07_01_jidai/07_01_06_tyoubawari/index.html

といった項目がある。

じつはこのWEBの中にある図面、その元となった古図(のレプリカ)が、つい先日の6月10日に放送があった

『ブラタモリ』 尾張名古屋は家康で持つ?

でチラリと出ていたくらいなのだが、この工事は全国の大名が結集した(結集させられた)天下普請で、いってみれば上下関係、またお隣同士との関係も複雑極まりないJVであったわけで、制約の下、それぞれが工夫し、相互に影響し合う。そういった経験を重ねてゆく内に、石垣の積み方にも変化があらわれ、5年も時間が経過すれば、様式が更新されてしまう。この経過を示す証拠は、あたかも指紋のように石垣の表面からも読み取れることがあるし、石垣の内側にもまた確実に存在しているものなのである。

城の歴史は、天守よりもむしろ、石垣、堀、縄張りにこそ宿る。

現に2016年の地震で傷ついた熊本城では、修復のための事前の調査によって、あらたな発見が続いているのが今なのだ。

(参考記事)
熊本城小天守北側に埋没石垣 復旧工事の調査で確認
http://kumanichi.com/news/local/main/20170613003.xhtml
(熊本日日新聞 2017年06月13日配信)

主として研究者である専門委員が、謂わばレプリカに過ぎない天守の木造復元よりも、(それが地味にしか見えないものであっても)石垣の史的価値を高く見積る理由は以上の通り。おそらく名古屋城の学芸員の多くも、そのあたりのことはとっくに承知しているはずであろう。

さて、このあたりではなしは名古屋を離れる。わたしも城郭については関心があって、それなりに研究してきたし、機会をつくっては方々の城を訪れてきた。とはいえ、実は名古屋城については、ほとんど実地の見聞がない。そこで京都二条城を例に、石垣がどれだけのことを物語るのか、ちょっとだけ例を示してみたい。

現在の二条城の主な築城期間は、おおむね1601年から1626年にかかる。熊本城や江戸城がそうであるように築城途中に時間的経過がかなりあって、石垣についても様式の変遷がみられる。

以下、わたしも参画して作成した、上京の石たち編『二条城 石垣ものがたり』(2015)の画像を数枚引用して示す。









この築城の間、将軍は家康、秀忠、家光、と三代の移りかわりがあるのだが、この石垣も同時に変化を遂げている、この変遷を読み解くと、徳川将軍家と朝廷との駆け引きさえ、ほの見えてくるといったものだ。

ところでこの二条城の石垣に関しては、一昨年の2015年の夏より、同志とともに、その所有者である京都市に対して、繰り返し環境保全や史的研究や耐震性の調査を訴えてきたところだ。それが将来にわたって二条城の価値を高めるからである。だがここ京都でも他聞にもれず昨年、二条城本丸天守復元の献策が、さるところから出たばかり。この状況は、現在の名古屋と似ていなくもない。

2017/06/24 若井 朝彦
名古屋城は天守それとも石垣

目 次 (若井 記事)   索 引 (若井 記事)

2017年6月19日月曜日

JR西・元3社長の裁判の後で

2005年4月に発生の、JR福知山線塚口・尼崎駅間の事故の責任を問うて強制起訴されていた、JR西日本の歴代3社長、井手氏、南谷氏、垣内氏の裁判がすべて終結した。

6月14日の新聞報道などの通り、3氏とも無罪であった。

法理からすれば、これは当然のことだったろうとわたしは思う。事故予見性を広義に解釈した起訴自体も、果たして妥当だったのか、しばしば問われているほどだ。だが法律を離れた見地から、この3人に責任があったのか、それともなかったのか。これはまだ決着がついているとは言い難い。今後のJR西日本の企業としての健全性、また、日本の交通における安全をより確かにするためには、これは積極的に解明すべき問題で、むしろ裁判が済んだあとの、これからこそが大切なのである。

その2005年の事故の当日のことはいまでもよく覚えている。(またその直前に、大阪福島の踏切で、遮断機が開放のまま列車が通過したということがあったが、これもまた忘れてはいない。)当日は、事故直後の午前から、流れてくるネットのニュースをずっと見ていた。更新のたび、どんどん被害が大きくなっていった。そしてJR西日本が抱える問題もまた一斉に噴きだしたのである。

労務管理の問題、広報の問題(JR西日本は独自の広告代理店を持っている)、現場路線のカーブの半径問題、過密なダイヤ、幹部間における人事対立。しかしわたしはこれに加えて、それ以前の事故の対応が、この事故にも影響しているように感じていた。

JR西日本は、ほとんどそっくりの構造の事故と、それまでに2度は関係していたのである。それはヒューマンエラーの悪しき結晶に見えるものだった。

まず一つ目は1991年の信楽高原鐵道の事故である。これはJR西日本の線路上で起こったのではなく、信楽に乗り入れたJRの車両と運転士が関係して発生したものである。主因は信楽にあったが、この両社の関係は、人的にいっても、運行の面でも、信号の設置においても、ほとんどJR西日本が主、信楽が従といってもよいものだっただけに、これをJR西日本の事故として考察することに、わたしは躊躇しない。
(参考ファイル)
「信楽高原鐵道での列車正面衝突」
www.sozogaku.com/fkd/hf/HA0000607.pdf

二つ目は2002年のJR西日本の東海道線塚本・尼崎間の事故である。この日は夕刻になって線路に侵入事件があり、ケガ人が発生していた。そのケガ人を救急士が収用しようとしている最中に、列車が徐行せずにここに差しかかり、人命が損なわれたのだった。
(参考ファイル)
「JR東海道線で救急隊員轢死」
http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CZ0200724.html

そして三つ目が2005年の福知山線である。

この事故の原因と経過には共通点があり、それは

・ダイヤの混乱が最初に発生し
・重圧のために無理なダイヤ回復が計られ
・連絡の混乱が放置されたまま
・見込みによる運転が事故を起こす

という構造。やや具体的に説明すると、

・信楽の事故では、当日に出張してきた運輸省関係者を貴生川で待たせており
・東海道線の事故では、その数時間前まで、近接区間でのトラブルのため、それにともなう運転見合わせと、回復後の大幅なダイヤの乱れが生じており
・福知山線の事故では、ダイヤの欠陥による尼崎駅での乗り継ぎ接続に、運転士が慢性的に追われていた

このような遅延要因に

・信楽では、対向列車の単線区間への進入を阻止すべく、信楽の社員が車で現地に急行中であり
・東海道線ではケガ人収容の区間を最徐行で通過した列車からの情報が、後続の列車に正しく伝わらず
・福知山線では、列車指令が無線を通じて、運転中の運転士に、直前に発生したミスの内容を、ずっと問い続ける

といった状況が発生していた。

このようにJR西日本は、精神的に追い詰められた担当者が何にどう反応して動くのか、という、過去の類例を学ぶ機会はあったのである。ところがそれを貴重な経験とするどころか、逆に人事面では理不尽な締め付けを強めていたほどであった。それがこの事故を契機に鮮明になったのは、よく知られるとおりである。

もちろん自己の負の面を学びさえすれば、次の事故を予防できるというものではない。しかしJR西日本はそもそも信楽の事故を、自身の問題と捉えていなかったのである。これは決定的だった。

(参考ファイル)に示した「信楽高原鐵道での列車正面衝突」や「JR東海道線で救急隊員轢死」には、事故前段の状況である「監督官庁の関係者が乗るはずの列車が遅れている」や「混乱していたダイヤがやっと回復したばかり」といった要素は説明されてはいないのだが、その前者に見える
JR西日本が方向優先てこを設置したことを警察に隠したり、事故以前の何回かの赤信号出発の問題を信楽高原鐵道に指導しなかったり、という責任逃れをやり、民事の裁判で負けて責任を認めた。この事故の責任逃れの体質が、小さな危険を大きくなる前に摘み取とることをしないようになり、JR西日本福知山線の事故の遠因となったのかもしれない。
という指摘は重要である。

しかし新聞報道でも明らかになっていたが、JR西日本が、他社である信楽の信号に、方向優先テコを設置していた事実の組織的な隠蔽は、上記のようになまなかなものではなく、きわめて悪質なものであった。この捜査に当たっていたのはもちろん滋賀県警だが、事故に遭った車両には京阪神方面からの乗客もすくなくはない。またJR西日本の本社は大阪である。そういったこともあってだろうが、近畿圏の警察は、JR西日本の組織的な捜査の壁に挑んでいた滋賀県警の持つ情報を、かなり共有していたフシがある。

組織的な締付けによる、不都合な事実の隠蔽と、責任からの逃避の経験は、根深いものであった。2005年に福知山線で事故が発生した際、JR西日本は、事故車内に閉じ込められたケガ人の救出もままならない当日の内に、独自の調査として、置石が原因であると発表して責任を転嫁しようとした。近傍のレール上に破砕痕があったのは確かなのだが、これは脱線によってできたものであって、この説自体は虚妄であった。そのため、その後JR西日本への指弾は容易にやまなかった。すぐにも信楽の事故とその後の対応が思い出された。井手氏、南谷氏、垣内氏の3氏は、そういった組織を強化し、また維持したのだという不名誉を負うほかない。わたしはそう思うものだ。

兵庫県警は、攻撃的にも見える捜査を続けたし、あきらかに幹部の起訴も目指していた。その背景には、滋賀県警の無念を引き継いだ面もまたあったのではないだろうか。信楽の事故の未消化は、おそらく捜査にも影響していた。兵庫県警の粘り強い捜査が、結果として3人の元社長の強制起訴の下地を作ったのである。

ではJR西日本はその後どうなったか。わたしはかなりの変化があったと見ている。それは以前には想像もつかなかったことが起こっているからである。

一例は2014年10月13日の午後のことである。この日は台風の通過が予報されていたのだが、その前日の12日の内にも、JR西日本は関係路線の運休を決定して広報し、翌日それを実行に移した。幸いなことに台風の被害は大きいものではなく、そのため運休の是非も問われたし、運休当日の13日は祝日の月曜でもあったから、休日の運行よりも、翌平日の朝の通勤時間帯の運行確保がまず優先されたという事情もあったのだろう。しかしこれは、非難を浴びても安全を重んじる取り組みであったと思う。

あともう一つは、かなり話題にもなったものだが、JR西日本では2016年4月以降、それが人為的なものであっても、故意ではないミス、エラーに関しては、原則として懲戒の対象としない、という決定である。

これはなによりミス、エラーの報告がないがしろになることを嫌ってのことであるはずで、この措置があってもなお隠蔽があった場合にまで懲戒を免除することはないだろうが、まったく果敢な決定だと思う。台風による運休の事前決定もそうであったように、この転換も試みである。負の側面が出ないとは限らない。しかしこういった決定は、社内にも社外にも、その社の方針を、明瞭に伝えずにはおかない。

こういったことも3氏の裁判の途中で起こったことである。その裁判がJR西日本の幹部の念頭にいつもあって、なんとしてでも事故を減らす企業体質へ移行しようという、希求の原動力となっていたのだとしたら、やや強引に見えた問責の起訴も、控訴も、上告も、やはり意味があったのだと言わなければならないだろう。

2017/06/18 若井 朝彦
JR西・元3社長の裁判の後で

目 次 (若井 記事)   索 引 (若井 記事)

2017年6月13日火曜日

都市の品位が損なわれる時

昨年夏、今上陛下のご意向が報道されてから、ずっと懸念だったのは、京都市長や京都商工会議所あたりが余計なことを言い出さなければよいが、ということだった。下にも記した通りである。

(2016年07月14日)

しかしご譲位の道筋が付くや否や、早速それが出た。
「上皇」京都滞在、国に要望へ 市長、特例法成立で
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20170612000067

「上皇となる天皇陛下にできるだけ長く京都に滞在していただくことは、以前から念願している。具体的にどういう可能性があるのかを専門家の意見も聞きながら、客観的に調査し、できるだけ早く国に要望したい」と述べた。

このニュースは、yahooでも暫時ヘッドライン扱いである。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170612-00000017-kyt-l26

こういったことは、そもそも自治体が国に訴えるようなことではなかろう。もし願うにしても、そう言えるだけの都市、そのように主張しても当然、と周囲が認める都市になってからのことであろう。

いまの京都市長にその資格があるとは思われない。文化庁の京都移転についても、強硬に要請を繰りかえして決定を得たわけだが、それは地方分権を旗印にしたものであって、国益を勘案してのことではなかったはずである。まるで文化財を人質にとったような物言いだったとわたしは思うものだ。

ならば文化庁を京都に求めた京都市は、みずからの文化遺産を充分に保全してきただろうか。欲しかったのは「文化」ではなく「庁」だけだったと言われて仕方あるまい。

リニア新幹線に関しても、いまだルート変更に執心で、独自の試算による経済効果を謳っている。一転こちらは国益目線だ。しかし文化庁にもリニアにも共通しているのは、みずからは出捐したくないという態度だ。これではまわりの府県から好ましく思われるわけがない。

京都市が、歴史や伝統の美名によって何かを獲得するのは、たしかに効果的な行政であるかもしれない。だがそれと引き換えに、この市は品位を失う。品位品格を失うだけならまだしも、みずからが主体として働かない僥倖的、タナボタ式の自治体運営は、町と住民の気概をも殺ぐ。

2017/06/12 若井 朝彦
都市の品位が損なわれる時

目 次 (若井 記事)   索 引 (若井 記事)

2017年6月11日日曜日

「湿邪」について

数日前のこと、6月8日のyahooニュースに

「体のだるさや頭痛、むくみ… 梅雨が原因の体調不良「湿邪」とは」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170608-00010002-abema-soci

がアップされていた。梅雨時分のいま、まったく気の利いた配信だった。

この湿邪(シツジャ)という状態は、目立った熱が出ることもなく、咳をするわけでもなく、お腹をこわすほどにもならず、痛みといったものもまずないので見過ごされやすい。しかしただの疲れだけでないことはわかる。それだけに悩ましい。万病の元と言っては大げさだが、風邪と同じように生活も気分も乱してしまう。

しかし湿邪という概念とその内容を知っていれば、早目に手が打てるし、予防線も張れるというものだ。

ただ記事にあった、

梅雨のジメジメは私たちの体調にも影響を与える。その影響は東洋医学で湿邪(しつじゃ)と呼ばれている。東洋医学に詳しい千代田漢方内科クリニックの信川益明先生は、「湿邪とは、体の余分な水分によって体の不調が生じる症状。人が長時間湿度の高いところにいると発汗作用がうまくいかず、冷えという症状が起こることが考えられている」と説明する。

といった説明は、防御するにはちょっと不十分かもしれない。わたしが湿邪という言葉を知ったのは40年ほど昔のことで、東洋医学を含む「透派の五術」を日本に伝えた(故)佐藤六龍氏の著書を読んでいた時のことだった。その内容とその後の私見を加えていうと、「梅雨のジメジメ」が「体調にも影響を与える」というよりは、

「汗をかいた後、(周囲の温度変化、冷房などによって)その蒸発に手間取ると、体表面の温度が過度に下がり、汗腺が締まったままになることがある。すると以後の発汗を必要以上に抑制してしまう状況が生ずる」

という方が、よりわかりやすいだろうと思う。「湿邪」の主体は、梅雨時のジメジメではなくて、皮膚の方なのだ。

そして汗腺が締まった状態にもいくつかの分類が可能だと思う。まず単純に体が冷えて一時的にそうなった場合。わたしなら、からだをすこし温めてやる。また若干余分の水分とミネラルを摂取して発汗を促す。これでだいたいからだも軽くなる。

しかし本当に皮膚が疲労していて汗腺が働かない場合もある。日焼けで皮膚が傷んだ時にも似たことが起こるのだが、むくみも出る。皮膚にとどまらず、からだそのものが疲労している場合もあるだろう。風邪とおなじように栄養と休養をとるほかない。こういった状況で周囲の温度が上がったり、運動したりすると、逆に軽度の熱中症にもなりかねない。東洋医学的な解決ではなくて、医療機関での受診が必要かもしれない。

また検索をかけて見ると、tenki.jpにも湿邪の記事があった。(2015年7月8日)

梅雨の「湿邪」。体がだるくて重いのは、湿気が溜まっているせいかもしれません
http://www.tenki.jp/suppl/usagida/2015/07/08/4491.html

水は人間になくてはならないものですが、湿度の高すぎるところに長時間いると発汗がうまくおこなわれず、余分な水分が排出できなくなってしまいます。東洋医学では、『湿邪(水の邪気)』が体内のいろいろな場所に溜まって「冷え」を起こすと考えられています。冷えると、血液の循環が滞って代謝が悪くなり、 汗や尿で水分をしっかり排出できません。むくみも起こりやすくなるのですね。

夏でもシャワーですませないで湯船に浸かるのがお勧めです。ぬるめの半身浴はリラックス効果で自律神経を整え、ストレスや痛みを軽減します。

こちらの記事の方が、先日yahooが採用した記事よりも詳細だと思うが、わたしも半身浴はよく試みる。とくに上半身を濡らさずに湯船に入ると効果的だと思う。というのも、上半身が濡れていると、発汗がなかなかはじまらず、疲れが抜けにくいからである。下半身で温められた血液が上半身に伝わり、血行のよくなった皮膚が発汗をはじめると、それまでのからだや気分の重さが、ウソのように感じられるものだ。

2017/06/11 若井 朝彦
「湿邪」について

目 次 (若井 記事)   索 引 (若井 記事)

2017年6月9日金曜日

音楽著作権の重層性

市井の音楽教室での、練習楽曲の使用に著作権料が発生するか否か。徴収側(JASRAC)と、それを否定する教室側(その先頭に立つのはヤマハ音楽振興会)との争いも、いよいよ本番を迎えた。6月7日配信の時事通信のネットニュースによると
日本音楽著作権協会(JASRAC)は7日、東京都内で記者会見を開き、ピアノなどの音楽教室での演奏について、来年1月から著作権料の徴収を始めると正式に発表した。 同日、文化庁に使用料規定を届け出た。
ということだ。これに先んずる形でヤマハ側はJASRACに対し、支払義務不存在の確認訴訟を予告している。どちらが勝つにしても、決着は法廷を経て、ということになる。

実際のところ、教室では著作物である楽曲の楽譜を使用し、金銭の授受が発生している。教室が営利事業として運営されているという面からすれば、法廷においてはJASRACに分があるだろう。そうわたしは思う。

ではJASRACがあきらかに正当なのかといえば、それは単純にそうではない。音楽著作権、音楽で発生する権利、またその扱いの慣習というものは、一筋縄で括れるというものではないからだ。

まず音楽著作権の代表的なものである作曲家による著作権というものがある。曲から発生する著作権である。しかしそれだけでは音楽にはならない。実際に音にする演奏家が必要である。しかし演奏家の権利は、著作権より一段低いものとして見做されており、著作隣接権として扱われている。(とはいえクラシック音楽の著作権で目立った稼ぎというものは、おおよそこの部分によるものだ。)

著作隣接権の保護は、作曲による著作権よりももはるかに短い。日本の場合、作曲の著作権は作者の没後50年にも及ぶが(ヨーロッパは70年標準)、演奏の場合は「発表後」50年である。没後30年に満たないヘルベルト フォン カラヤンの場合も、そのレコード録音の枢要なものは、かなりの権利が消滅している。

したがって長命な指揮者の場合は存命中に一部の権利が切れはじめる。たとえば小澤征爾の場合も、シカゴ響との60年代レコーディングなどは、もうあと数年で、日本のだれもが(商業利用をも含めて)利用できるようになる。(まったくはなしは今日の主題から外れるが、こういったことは、加寿の祝いのようにとらえてもいいのではないだろうか。)

また逆に、作曲の著作権が切れても、楽譜を厳重に管理し、演奏のたびに貸し出して使用料を確保するという手段もある。この楽譜というものは扱いがむずかしいところがあり、17世紀の作曲家の古い作品の「校訂」の作業(編曲ではない)に著作権が発生してしまったことがある。
(これについては以下を参照ください。この構図は、JASRACとヤマハの対立の構図に似ていなくもない。)

wikipediaから「ハイペリオン・2004年の訴訟」の項目

そして今回問題となった練習での楽曲の扱いである。これだって単純ではない。「使用料は必要ない。使用する楽譜の購入で充分」という解釈もあることはある。じつはわたしの意見もこれに近い。ただしこれは法の解釈ではなくて、そうあるのが音楽が栄えるためには自然であろう、という見地からである。

練習というものは、そもそも演奏ではないと思う。頻繁に止めては、同じ個所を繰りかえすのが普通だからである。なにかの機会に、オーケストラの練習に立ち会えることがあるが、それが「通し演奏」を前提とした練習(ゲネプロ)であっても、指揮者は必要を感じて演奏を止めることがある。

音楽はなにより「ひとつづき」のものだ。途中で途切れたものは楽曲ではない。感情が醒めるからである。「止まるかも知れない」と思って聞く音楽は音楽演奏の本来の姿ではない。企業会計では、仕掛品も仕分けの上で資産に繰り入れるが、練習というものは「演奏という資産」には、ほとんど含められないとわたしは考える。

オーケストラの場合は練習時間の配分が難しい。「この指揮者は何を考えているのか」ということがその配分から判ることもある。またピアニストが練習でどこを繰りかえして念を押すのか。ヴァイオリニストがどんな調律をしているのか。こういったことは知的には面白い。だが練習は本来の音楽演奏ではない。法廷ではこのような解釈はまず出てこないだろうが、練習と演奏の境界については当然俎上に載せられることだろう。今回の件ではこれは避けられない。

ところで時事通信の記事は
JASRAC会長で作詞家のいではく氏(75)は「クリエイターに対する敬意を持ってもらいたい」と説明。理事で作曲家の渡辺俊幸氏(62)は「著作権の大切さを理解してほしい。訴訟は避け、話し合いで解決したい」と語った。
と結んでいる。これは記者がまとめた短信であるから、そのままストレートには受けとめられない。関係者はこの他にもいっぱいしゃべっているはずだ。しかしこの通りだとすると、これはすこし妙だ。

ある楽曲が練習に使用されているとすると、それはその時点ですでに敬意が払われているといってよい。プライドはプライド、お金はお金として、率直に「われわれの作品を勝手に使用して稼ぐな! タダ働きさせるつもりか!」と言ってもらった方が判りやすいというものだ。またJASRACは、むしろ訴訟になることを歓迎すべきではないだろうか。たとえ和解になったとしても、その過程はほぼ公になるのだから。

時間はかかるだろうが、今後の道筋が付くことからすれば、今回の紛争は悪いことばかりではない。ひとからげ一律の徴収ではなくて、練習用に価格設定された楽譜の厳格な購入という結着でもいいはずである。とくに楽譜の電子化が進むであろうことを考えれば(楽譜はなかなか紙から離れられないけれども)、いずれはそういった管理も容易になる。

せっかくの機会、ぜひ将来を織り込んだ解決を望みたいものである。

2017/06/08 若井 朝彦
音楽著作権の重層性

目 次 (若井 記事)   索 引 (若井 記事)